第三十四話/四重奏
科警研第二課の取調室は、もはや通常の犯罪捜査の場ではなかった。
秋山慎一郎はその異質さを理解した上で、なおも「四人を同席させる」という決断を下した。これは前例などあるはずもない措置で、法律的にも、倫理的にも、そして警察組織の慣習としても明らかに逸脱していた。しかし、秋山は迷わなかった。
――あれは単体犯ではない。
――“四人”で一個の生命体のように動く、連結した「制作機構」だ。
――分離して訊いても真の構造が浮かび上がらない。
その判断の裏にあるのは、蛇の目が弾き出した、あの禍々しい仮説である。
水野匡彦、伊東美奈子、小川亮、中村智久――
四人が共有する「制作思想」「素材観」「コラージュとしての自己理解」。
そして“最後の晩餐”という巨大な作品構想。
それは個人の狂気ではなく、狂気がつながって形成するネットワークだった。
秋山は深夜、会議室に集まった恵美たちに語った。
「これは……“四人の犯人”を取り調べるんじゃない。
“ひとつの作品制作組織”を取り調べる。
だから四人を同席させる。それ以外に全体像は見えない」
会議室は沈黙に支配された。
合理的に聞こえながら、情緒的には受け入れがたい。
それは、犯人たちを“あの狂ったロジックのまま”一種の生態系として扱うことを意味していた。
恵美はその場で胸の奥が軋むのを感じていた。
――また聞くのか。
――あの狂気の言葉を。
――紗英さんを連れ去られかけたあの計算された暴力の「理屈」を。
彼女は、あの地下施設で見た「作品制作」の残骸の光景が脳裏に焼き付いたままだった。
束ねられた電灯の明滅。
犠牲者が座らされた椅子の配置。
血の温度。
そして顔料調合台に残された、修復家たちの手の温もりだけが異様に生々しい痕。
そのすべてが、今から同席させる四人の脳内で“意味として連結”しているのだ。
恵美は拳を強く握り締めた。
しかし、逃げるわけにはいかなかった。
紗英を守れたのは、仲間と蛇の目の力があったからだ。
ならば、今度は自分がその“最後の解明”を支えなければならない。
秋山の声が会議室に戻ってくる。
「蛇の目も同席させる。四人の言葉をリアルタイムで解析し、
ネットワーク構造を可視化させる。
四人を隔離したまま訊くよりも、彼らを“つなげた状態”で見せる方がいい」
片瀬が息を呑んだ。
「……つまり、“群体としての狂気”を直接見に行くということですか」
「そういうことだ」と秋山は静かに答えた。
渡辺は眉を寄せていた。
「危険すぎませんか?刺激しすぎれば暴発する可能性も――」
「それも踏まえた上でだ」と秋山は断ち切るように言った。
「この事件を終わらせるには、彼らの“体系”を解体しなければならない。
その体系がある限り、別の誰かが“作品”を継ぐ可能性すらある」
恵美の背筋に冷たいものが走った。
“体系としての狂気”――それは、個人の犯罪ではなく思想伝播の危険性を示唆していた。
本当に終わらせるためには、その根を暴き、粉砕するしかない。
「……やります」と恵美は言った。
その声は震えていたが、意思は揺らいでいなかった。
秋山は頷き、低く言う。
「吉羽、君が必要だ。
四人が語る“意味”を正面から受け止め、食い止められるのは君だ」
その言葉に、恵美は胸の奥で複雑な痛みとわずかな誇りを同時に感じた。
自分はただの鑑識官だ。
しかし、あの地下で“作品が完成しつつあった光景”を唯一正面から見たのは自分だけだった。
その記憶が、今や武器となる。
――やり遂げなければならない。
――あの十三人のために。
――紗英さんのために。
――そして、自分が壊れないために。
翌朝。
取調室には前代未聞の配置が整えられた。
六角形の卓を中心に、四つの椅子が互いに対峙するように置かれ、
天井には蛇の目の観測ユニットが無機質な目を光らせている。
水野の席。
伊東の席。
小川の席。
中村の席。
その中央に、科警研第二課の記録端末と蛇の目が置かれ、
恵美、秋山、片瀬、渡辺が周囲に配置された。
ドアが開く。
四人の修復家が、ゆっくりと入ってくる。
互いに視線を交わすことはない。
ただ、それぞれが「作品の続き」を頭の中に保ったまま、同じ空間へと収束していく。
恵美は、彼らが“ひとつの思想の断片”として歩いてくるように見え、
ぞくりとした悪寒を背に走らせた。
秋山は低い声で告げた。
「――では、取り調べを始める。
四人同席での質疑応答だ。
ここから先は、君たちの“ネットワーク”そのものに語ってもらう」
四人は同時に、わずかに微笑した。
その笑みは似ていないのに、不気味なほど同じ「了解」を示していた。
恵美は息を吸い込み、心の中で言った。
――負けない。
――あなたたちの“作品”は、ここで終わらせる。
取調室の空気は、静かに、しかし確実に軋み始めていた。
取調室の空気は、まるで空気そのものが硬質に変質したのではないかと思えるほど張りつめていた。
四つの椅子に、四人の“修復家”――水野匡彦、伊東美奈子、小川亮、中村智久――が静かに座らされている。
刑事たちの息づかいがわずかに聞こえるだけで、他の音は消え失せていた。
秋山慎一郎はその中心に立ち、恵美・渡辺・片瀬は壁際から固唾を飲んで見守っている。
秋山が口を開くより先に、水野が薄い笑みを浮かべた。
「ようやく“全員”を呼んでくれたか。
これで、作品の構造があなた方にも少しは見えるだろう」
その声音は静かだが、底に潜む狂気が空気を侵すようだった。
秋山は冷ややかな視線で水野を止めるように手を上げ、四人を順に見渡す。
「お前たちは組織ではなく、明確な役割分担のもとで動いていた。
――“修復家ネットワーク”。
今日はそれを解き明かしてもらう」
四人は互いに視線を交わすことはしなかった。ただ、それぞれが自分の内側に没入した狂気の世界を抱いているのが、恵美にもわかった。
沈黙を破ったのは、伊東美奈子だった。
「私たちは組織ではないわ。ただ……理念の共鳴よ。
修復とは、過去の断片をもとに“本来あるべき姿”へ導く行為。
作品を救う行為。
人間にも同じことができるはずでしょう?」
秋山は即答する。
「その結果が十三人の殺害か?」
伊東は弱々しく首を振りながら、しかしその目には無垢な信仰のような光が宿っていた。
「救済よ。損なわれた肉体も魂も、私たちが“正しく配置”してあげたの。
レオナルドの意図に沿う形で」
片瀬が机を叩き、怒声を上げた。
「救済だと? 人間を素材扱いして殺しておいてそれか!」
しかし小川亮が、むしろ待っていたと言わんばかりに言葉を重ねた。
「素材ではない。“要素”だ。
色彩学でも造形学でも、構成に必要なのは個々の色が持つ温度、明度、質感。
人も同じだ。
性格、職業、表情、死の瞬間の歪み――それらは絵画における色彩そのものだ」
その言葉に、恵美の背筋が冷たくなる。
“死の瞬間の歪み”――それをどう扱うつもりだったのか。
視線を逸らしそうになったとき、中村智久が静かに答えた。
「僕の役割は“形”。
最後の晩餐には十三の個性、十三の表情が必要だ。
僕は彼らの姿勢、骨格、体重のバランスまで見て選んだ。
そして、死の直前の表情を……」
中村は遠くを見るような目で続ける。
「レオナルドは、人間の筋肉が緊張するときの“皺”の位置にこだわった。
僕もこだわったよ。作品だからね」
恵美は呼吸を忘れた。
彼らの会話は、まるで美術論を語り合うようでありながら、内容は殺人の手法そのものだった。
秋山は沈着に問いかける。
「では――水野。
お前の役割は何だ?」
水野は微動だにせず、淡く笑った。
「僕は“光”だ。
作品に差す光によって色も形も変わる。
だから僕は、構図を決めるために最初の“影”を作った。
――モナリザ、真珠の耳飾り、ヴィーナス、モンロー。
あれらは前奏。
僕は絵画世界に光を差し込む役割を担い、
他の三人がその光学的構造を引き継いだ」
秋山は眉をひそめる。
「光……? 前奏……?」
水野はまるで教授のように語り続けた。
「最後の晩餐の光は、レオナルドが最もこだわった。
斜めに差し込む“神の光”が、十三人の表情に影を落とす。
僕はその“光”の代行者だった――
最初の犠牲者たちを“前提条件”として配置するためにね」
伊東が、補足するように囁いた。
「彼が描いた“前提”がなければ、私たちは最後の作品の色彩に辿り着けなかった」
小川も続ける。
「光の角度。死後硬直の進み具合。
それらは全部、最終的な構図に必要だったんだ」
中村は淡々と告げる。
「四人で一つの作品を作っていた。
――最初からずっとね」
恵美は思わず口を押さえた。
この狂気は、人間の心の形をしていない。
ただ“美術的な整合性”のために十三の命を奪った連中が、平然と語り合っている。
秋山は一言、静かに、しかし深い底冷えの声で告げる。
「お前たちは――自分が犯した罪の意味すら理解していない」
しかし水野は揺るがなかった。
「罪? あなた方は“作品”の本質を理解しないからそう言うんだ。
レオナルドは十三の表情を描くために、街の人々を観察し続けた。
私は――ただ忠実に再現しただけだ」
伊東が、まるで恍惚とした表情で続ける。
「最後の晩餐は“完成”したのよ。
あなたたちは、その作品を理解できるの?」
その瞬間、部屋の空気が凍った。
四人は罪悪感も後悔も持たず、ただ“作品完成”という一点だけを、揺るぎない信仰のように抱いている。
彼らの狂気は、互いに響き合い、増幅し、
まるで別世界の住人のように“美術作品の論理”で世界を語るのだった。
恵美は、その狂気の中央に立ちながら――
胸の奥で小さく震えていた。
あの日、地下で見た“十三の椅子”。
決して忘れられない。
そしてこの四人は、その光景の作者なのだ。
秋山は机に手を置き、冷たく宣言した。
「これ以上の供述は弁護士の立会いのもとで続ける。
だが一つだけ言っておく――
お前たちの作ったものは“作品”ではない。
――ただの虐殺だ」
四人は誰一人として反論しなかった。
反論する必要を感じてもいないように、ただ冷たい沈黙が再び取調室を覆った。
恵美は、その沈黙の中で初めて、自分の背筋に冷たいものが走るのを自覚した。
この事件は、まだ終わっていない。
四人から剥がれ落ちない狂気の底には――
“蛇の目”がまだ解析していない、別の真実が眠っている。
その予感が、恵美の胸を深く締めつけてやまなかった。




