第三十三話/突入
蛇の目の予測モデルが、突如として異常値を示したのは深夜1時14分だった。十三名もの行方不明登録が同一時刻に近似して発生し、その移動経路が一度に途絶したことは過去例がなく、蛇の目は自己判断で「特異重大事象」レベルへ昇格させていた。第二課のモニタールームに鋭いアラートが鳴り響き、秋山が振り返るより早く、蛇の目は地図上に一点の黒点を提示した。都内湾岸部に存在するはずのない“空白地帯”。建築記録の改ざん、通信遮断、カメラの偽装。あらゆるデータの裏側に、蛇の目は奇妙な“揺らぎ”を検出し、それらを数理的に削ぎ落した結果、一つの地下構造物が浮かび上がった。
——地下2階隔離区画12。
「ここにいる……十三人全員が」
秋山の声は乾いていた。吉羽恵美はすでに防弾ベストを着込み、視線は蛇の目が投影したフロア構造に釘付けになっている。そこには、まるで“儀式の間”とでも呼ぶべき広大なホールが描かれ、その中央に長い長い卓があった。蛇の目はさらに予測図を切り替え、淡々と述べた。
「推定再現作品:レオナルド・ダ・ヴィンチ《最後の晩餐》
必要犠牲者数:13名。
犯行主体:伊東美奈子、小川亮、中村智久。
三者の行動パターンは完全な分業制へ移行済み。
“最終制作”の開始時刻は……すでに始まっている可能性が高い。」
部屋の空気が凍りついた。
水野が拘束され、供述で示した狂気の“コラージュ思想”。
それを補完するように、残る三名の修復家は、より巨大で宗教的な作品を選んだ——蛇の目はそう判断していた。
「急ぐぞ!」
秋山の号令と共に、第二課は装備を掴み、一斉に車両へと向かった。
*
地下施設への入り口は、倉庫会社を装った廃ビルの地下搬入口だった。重いシャッターは外側から見れば朽ちた金属板だが、内側には指紋・網膜認証の跡が残されていた。強行突破チームが爆薬をセットし、深い呼吸の一瞬の後、鈍い爆音と共にシャッターが歪み上がる。
内部は異様なほど静かだった。
非常灯の赤い光が、コンクリートの廊下を血の色に染める。
空気が湿っている。薬品の匂いと鉄臭さが入り混じっている。
恵美は無意識に拳を握った。
(間に合って……お願いだから……)
蛇の目がイヤーピース越しに囁く。
「全センサー無効化領域に入っています。
ただし、心音と動体反応は地下二階ホールで13+3名を検知。」
「ホールに十三人……と、修復家三名。」
秋山は唾を飲み込むと、階段へと駆け込んだ。
*
地下二階。
隔離区画12の扉は異様だった。
古い木の板を模したパネルが張り付けられ、イタリア修道院の扉を思わせる装飾が施されている。
だがそれは、三人の修復家の“演出”だった。
「開けるぞ……!」
秋山が手で合図を送る。
隊員がバールを差し込み、扉をこじ開けた瞬間——
恵美は息を飲んだ。
そこは本当に“最後の晩餐”だった。
長い長いテーブル。
その周囲に座らされた十三名の人間。
目隠し、両手拘束、口にはガムテープ。泣き声も叫びも封じられ、ただ震えだけが体から波紋のように漏れている。
テーブルの後方には巨大な白壁があり、そこに光源が一つだけ当たり、柔らかい陰を落としていた。
宗教画のための“光”だった。
そして——
その手前で作業台に向かった三名の修復家がいた。
伊東美奈子は顔料を混ぜ、小川亮は被害者の衣服に手を加え、中村智久は巨大なスケッチボードに筆を走らせている。
三人とも、まるで美術館の閉館後に行う修復作業の延長線上のように淡々としていた。
恵美は震えた声で叫ぶ。
「やめなさい!! 全員そこから離れて!!」
だが三人は振り向き、同時に微笑んだ。
その微笑は、創作に没入する芸術家のそれであり、同時に狂気そのものでもあった。
中村が柔らかい声で言う。
「ようこそ、観察者さん。
……もうすぐ完成なのです。
彼ら一人ひとりの配置は完璧に選ばれました。
あなた方が思うよりずっと、我々は慎重に選びました。」
伊東が静かに付け加える。
「ダ・ヴィンチはね……形の中に魂の断片を封じるの。
この十三人は、そのために選ばれた人たち。」
小川は制服姿の恵美を指差した。
「あなたもどうです? 配役は空いてませんが、観客席ならありますよ。」
恵美の背筋が粟立ち、怒りが声を震わせた。
「人を……素材と呼ぶな……!!」
三人の表情は変わらない。
その瞬間、蛇の目が恵美のイヤホンに急報を流す。
「注意。
三人の体温と脈拍が“創作時の集中状態”に入っています。
暴発の危険があります。」
秋山が拳銃を構え、短く叫んだ。
「第二課、突入!!
十三人の保護を最優先!!
修復家三名は動いたら即制圧だ!!」
閃光弾が投げ込まれ、白光が室内を貫いた。
悲鳴と衝撃。
倒れる椅子。
口の塞がった被害者たちの押し殺した呻き。
三名の修復家のうち、中村が最初に動き、作業台の下から鋭いメスを取り出したが、秋山の制圧チームが素早く取り押さえた。
伊東は錯乱したように絵具の容器を投げつけ、小川は身を守るように壁際へ逃げ込んだが、いずれも数秒で制圧された。
恵美はテーブルに縛り付けられた被害者へ駆け寄り、ひとりひとりの拘束を解きながら叫んだ。
「もう大丈夫です! あなたは絶対に帰れます!!
ここから出ますよ——全員、地上へ!!」
かすれた嗚咽。
震える肩。
涙で濡れた顔。
十三名全員が、生還の実感すら持てずにいた。
だが恵美は、ひとりひとりの手を握り、目を合わせ、言い聞かせるように繰り返した。
「生きて……生きて帰れます。
私たちが、必ず守ります。」
その言葉を最後に、崩れ落ちるように泣き出す者もいた。
蛇の目が静かに告げた。
「最終作品《最後の晩餐》の構築は……未遂に終わりました。
第二課の介入により、制作過程は崩壊。
被害者十三名、生存確認。」
恵美は汗と涙に濡れた顔を上げ、かすかに呟いた。
「……終わった……?」
だが蛇の目は、淡々と、しかしどこか不穏な声音で続けた。
「いいえ。
“コラージュ思想”を共有するネットワークが、国内に他にも存在する可能性があります。
これは、たった一つの“作品群”にすぎません。」
恵美の胸に冷たいものが落ちた。
——彼らは“終わり”ではない。
——始まりなのかもしれない。
地下2階隔離区画12には、壊れた“最後の晩餐”の残骸だけが残されていた。
三人の修復家が夢見た狂気の芸術は未完成のまま崩れ去り、13人の命がようやく闇から解き放たれた。
だがその崩壊の余韻は、第二課の誰の胸にも深く、永く沈殿していくのだった。
地下二階隔離区画十二で“最後の晩餐”が完成されようとしていたあの瞬間から、恵美の時間感覚はどこか狂ってしまったようだった。救出された十三人のうち数名は重体、精神的ショックで自らの名前すら言えない者もいた。修復家ネットワークと呼ばれた三人は現場で確保されたが、抵抗らしい抵抗はない。ただ淡々と、まるで作品が完成したことに満足したかのように、虚空を見つめ続けていた。
そして、事件は終わった——はずだった。
だが恵美の中では終わりなど訪れなかった。
帰宅しても眠れない。
ふと目を閉じれば、地下施設の冷たい照明がまぶたの裏に蘇る。
椅子に固定され、口を塞がれ、怯えきった瞳をこちらへ向けていた十三人の姿が、何度も、何度も襲ってくる。
それだけではない。
取り調べ室で見たあの男たちの“静けさ”が脳裏でこだました。
——狂気とは、騒がしいものではなく、むしろ静謐に近い。
それを初めて理解した気がした。
修復家と呼ばれた三人は、全員が同じように語った。
「私たちは完成させたかっただけだ」
「素材が揃った。だから組み上げた」
「誰も殺していない。必要な形にしただけだ」
彼らの言葉は、蛇の目の分析と奇妙なほど一致していた。
断片を継ぎ合わせ、より“本物”に近づけるというコラージュの論理。
人間を素材として扱い、色彩として使い、配置として捉える狂気。
その“方法論”の純粋さが、恵美の心を深く抉っていた。
——人間とは、こんなにも簡単に“物”に変換されてしまうのか。
現場復帰の許可が出た翌朝、恵美は職場に向かった。
しかし、第二課のフロアに足を踏み入れた瞬間、胸の奥がざわりと揺れた。
会議室の壁に貼られた十三人の写真。
救出直後の記録。
彼らの表情。
事件収束の報告書。
それらが視界に入るたび、心のどこかに“ひび割れ”が走るようだった。
「吉羽、無理すんなよ。」
秋山室長が声をかけてきた。
恵美は笑おうとしたが、口角が上がらない。
「……大丈夫です。仕事に戻ります。」
そう答えながらも、胸の奥ではずっと何かが揺れていた。
それは恐怖でも、怒りでもない。
もっと曖昧で、もっと触れてはいけないような感情。
——私たちは、この事件を止められた。でも。
蛇の目が示した推定被害者一覧の中に、村上紗英も含まれていたこと。
二課が彼女を間一髪で救い出したこと。
もし一瞬でも遅れていたら、紗英は“モンロー”の素材にされていたという現実。
そのすべてが恵美の心に重くのしかかった。
夜、自室のベッドに腰掛けると、スマホの通知が光った。
村上紗英からだった。
《眠れない夜が続いています。でも、生きています。恵美さんが助けてくれたから。ありがとう。》
読み終えた瞬間、恵美の胸が熱くなった。
涙があふれそうになるのを必死でこらえた。
——助けられてよかった。
でも、救えなかった人たちがいた。
そしてまた、次の事件がどこかで起こり得る。
恩人として感謝されるほど、恵美の心は苦しかった。
救った命と救えなかった命の天秤が、ずっと揺れ続けている。
蛇の目は淡々とデータを処理し、分析し、新たなアルゴリズムを形成していく。
しかし、恵美は人間だ。
痛みも、怒りも、失望も、安堵も、すべてを抱えて立ち続けなければならない。
深夜、窓の外を眺めながら、恵美は呟いた。
「……また、守れるかな。」
その言葉は誰にも届かない。
届かなくていい。
ただ、自分自身がその問いに答えなければならない。
事件が終わった後に訪れる“静けさ”ほど、残酷なものはない。
だが恵美は、その残酷さに耐えながら、
また次の朝を迎えるために静かに呼吸を整えた。




