第二十九話/衝突する意思
夜の帳が東京の街に深く落ち、冷えた風がビルの谷間でゆっくりと渦を巻いていた。
その風を切り裂くように、科警研第二課の緊急車両が複数台、静かに、しかし確実に包囲態勢を敷いていた。
蛇の目がはじき出した“最終潜伏地点”──都内某所、かつて日本画家たちが集い、ひっそりと姿を消した古いアトリエビルの地下。
長らく人が立ち入らなかったその空間は、ひとつ間違えば崩れ落ちそうなほど老朽化した構造をしている。
しかし、ここには“生きている気配”があった。
蛇の目の予測ログに記されていた、“天然顔料を大量に調合するための設備残存の可能性”──その条件に一致するのは、この地下アトリエしかなかった。
秋山はひとつ深く息を吸い、全員に無線で短く告げた。
「目標は水野匡彦。村上紗英の保護を最優先とする。……いいな、絶対に死なせるな」
誰も返事をしなかったが、その沈黙は決意の強さを示していた。
――地下へ。
錆びた鉄階段は軋むたびに悲鳴をあげ、足元から金属臭が立ち上る。
渡辺が先頭、恵美と片瀬が続き、その後ろを秋山が固める。
階段を降りるにつれ、空気は冷たく湿り、かすかに甘い薬品の匂いがした。
胡粉の匂い、テレビン油、そして乾いた血の腐臭が混ざった、あの独特の“絵画殺人”の香り。
恵美の喉奥がわずかに震える。
“ここにいる。水野は、確実にここにいる。”
そして村上紗英も。
階段を降り切った瞬間、暗闇の奥から声が響いた。
「……来たんですね。やはり」
薄闇に浮かび上がったのは、水野匡彦の姿だった。
白布を肩にかけ、片手には絵筆。
その佇まいは、まるで古典絵画の中から抜け出した修復家のようであり、同時に狂気を孕んだ“創造者”の顔でもあった。
その背後。
古びた作業台の上に──紗英がいた。
口に布を詰められ、手足を縛られ、全身に天然顔料の跡が付着している。
瞳は涙で潤み、必死に助けを求めてこちらを見ていた。
恵美の胸が焼けるように熱くなった。
秋山が一歩踏み出し、静かに言う。
「水野匡彦。これ以上の犯罪行為はやめろ。紗英さんから離れろ。今すぐだ」
水野は微笑んだ。その微笑みは温度を持たない氷のようだった。
「彼女は……もう“私の作品”の一部になりつつあるんです。
わかるでしょう? ここまで準備した。顔料も揃えた。
私はただ……完璧な“マリリン”を蘇らせたいだけなんですよ」
秋山が言葉を続けようとした瞬間、水野は作業台のスイッチを押した。
ゴウン──と、低い駆動音。
天井からスポットライトが落ち、紗英の身体を“展示作品”のように照らす。
背景には、実際のウォーホル作品を模した、強い補色のシルクスクリーン風パネル。
その中央に、紗英。
心臓が凍りつくような光景だった。
水野は恵美たちを振り返り、優越すら感じさせる声で言う。
「あなた方には見えませんか?
“彼女”は、完璧な素材だった。
ウォーホルが欲した“消費される女神”の孤独を、こんなにも体現している」
片瀬が叫ぶように声を絞り出す。
「紗英さんは“素材”なんかじゃない!」
水野の顔から表情が消えた。
その刹那──渡辺が判断し、踏み込んだ。
銃ではない。
この距離、この状況で拳銃を撃つわけにはいかなかった。
渡辺は渾身のタックルで水野の体を横から押し倒す。
「ぐっ……!」
押し倒されながらも、水野の右手は作業台の下へ伸びていた。
恵美の視線がそこに吸い寄せられる。
そこには、注射器。
アルコールを直接血中に入れ、紗英を昏倒させるために使ったもの。
水野は体勢を崩しながらも注射器を掴み、逆手に構えて渡辺に振り下ろそうとした。
その瞬間。
恵美の身体が勝手に動いていた。
誰よりも早く、彼女は床を蹴り、水野の腕を叩き落とす。
「やめろッ!!」
注射器は宙を回転し、床に当たって砕けた。
同時に、渡辺が水野の体を完全に押さえつけた。
秋山が即座に手錠を取り出す。
水野は呻きながらも、なお狂気を宿したまま呟き続けていた。
「まだ……未完成だ……彼女は……私は……」
「黙れ。終わりだ」
秋山の声は、静かだが鋭かった。
手錠がかけられ、完全に拘束された水野は、なお紗英を見つめていた。
それは執着よりも深い、病的な“審美眼”だった。
恵美は紗英の元へ駆け寄り、布を外し、縄をほどく。
紗英は震えていたが、まだ息があった。
彼女の手を握りながら恵美は言った。
「もう大丈夫。もう……大丈夫だから……」
その言葉が本当に届いたのかはわからない。
だが紗英は泣き崩れ、恵美の腕にすがった。
渡辺と片瀬が周囲を確認し、危険がないことを告げる。
秋山は水野を立たせ、出口へと連れて行こうとした。
だが、水野は静かに振り返り、最後の言葉を残した。
「……“修復家”は一人じゃない。
“美”を求める者は、どこにでもいる。
私の後にも……必ず、現れる」
その声が地下室の湿った空気に溶けた時、
恵美の背骨に冷たい恐怖が走った。
水野が嘘をついているようには思えなかった。
蛇の目のログにも、まだ“0%になっていない項目”が存在している。
──“絵画殺人の全容は未確定”
──“第二の修復家の可能性:残存”
秋山は歩きながら、低く呟いた。
「……終わっていない。まだ続くぞ、これは」
恵美もまた、紗英を抱えながら胸の奥で同じ予感を抱いていた。
“美術殺人”は、まだ幕を閉じていない。
むしろ今、第二幕の幕が上がったばかりなのかもしれない。
取り調べ室のガラス越し、拘束された水野は静かに遠くを見つめていた。
その視線の先には、誰にも見えない“美の完成”があるのだろう。
二課の者たちは、それぞれが疲労と安堵の入り混じった複雑な表情で座っていた。
紗英は別室で保護され、恵美がそっと彼女の側に座る。
「怖かったよね……本当に、よく頑張った」
紗英はしばらく言葉が出ず、ただ涙を流した。
その涙は怯えだけでなく、生き残れたことへの実感と、命を狙われた現実への衝撃が混ざった、複雑な色をしていた。
やがて紗英は、搾り出すように言った。
「……生きてていいんですか、私……
あの人……私を“作品”にしようとしてたのに……
私なんかが」
恵美はその言葉を聞いた瞬間、胸が締め付けられた。
自分の命の価値を疑うほど追い詰められていたのだと悟ったからだ。
「紗英さん。
あなたは“誰かの作品”なんかじゃない。
誰かに形を決められる存在じゃない。
あなたは……あなた自身で、生きていい」
その声は震えていたが、限りなく真っ直ぐだった。
紗英は泣きながら恵美の手を握った。
その手の温度だけが、夜の恐怖を遠ざけてくれる唯一の現実だった。
そして恵美もまた、気づいていた。
修復家という存在の異常さ、そして水野の狂気が決着したのは「奇跡に近い偶然」が連なった結果に過ぎないと。
終わったように見えるが……
絵画殺人事件にはまだ、多くの“空白”が残っている。
蛇の目も、まだ沈黙しているだけだ。
次の観測が、いつ始まるのか——
二課の誰も、まだ知らない。




