第二十八話/交差
夜の東京は、光と影の境界があまりに曖昧だった。
その曖昧さが、まるで水野匡彦という男の影のように、二課の捜査網の間をすり抜けていく。
水野が潜伏し、完全に蛇の目の監視網から外れたと判明してから、わずか二日。
その間、彼は“次の作品”に必要な素材として、村上紗英という一人の女性に執着し続けていた。
蛇の目は彼の思考パターンから、合理的な犯行計画だけではなく、“作品としての美”という極めて主観的な部分まで解析しようとしたが、水野には異常な揺らぎがあり、予測不能の跳躍がごく自然に含まれる。その跳躍が、初動の検挙を困難にしていた。
一方二課では、ついに“決断”が下された。
紗英の会社周辺・帰宅ルート・自宅の三地点に警護を配置し、二課全員と所轄が連携する形の“包囲網”が形成される。
同時に蛇の目は、紗英が危険に晒される可能性のあるゾーンの時間的変動までリアルタイムで更新を続けた。
秋山は会議室のホワイトボードの前で、簡潔に言った。
「……これは時間との戦いだ。水野は“作品”の完成に追い込まれている。焦っている。ただし焦りは、むしろ決行を早める。――つまり、今夜でもおかしくない」
恵美は黙って頷いた。
彼女の胸の奥に渦巻いているのは、単なる捜査員としての感情だけではない。
“修復家”の狂気が、またひとつ命を奪おうとしている。
それを止めるためなら、たとえ一歩先に修羅場へ踏み込むことになっても構わない――そんな静かな衝動。
渡辺は機器の確認を続けながら、ひっそりと言った。
「紗英さん自身には、まだ完全な『自分が狙われている』という実感はないようです。今日も通常勤務を続けています。……早めに彼女に説明したほうがいいんじゃ?」
片瀬が返した。
「でも唐突に恐怖を煽ると動線が乱れる。水野は“乱れた動線”をつきやすい。行動パターンが読みづらくなるのはむしろマズい……」
会議室には、焦燥と緊張が沈殿していた。
その空気を割るように、蛇の目のモニターがふっと点滅した。
《更新ログ:水野匡彦の行動予測 転移》
「転移?」
恵美が眉を寄せる。
《水野匡彦が“作品作成の最終段階”に入った可能性が高い。
村上紗英への接触ルート:都内西部の可能性上昇。
推奨 → 村上紗英の帰宅動線の変更。所轄への強化配備を要請》
秋山が、ため息のような声で言った。
「――ついに来たな。水野は動く」
***
その頃、潜伏先にいた水野匡彦は、暗いワンルームの隅で呼吸を整えていた。
明かりはつけない。
窓には黒い布を貼り、外界の光を完全に遮断している。
代わりに、机の上には並べられた天然顔料の瓶が、微かに闇の中で鈍い光を放っていた。
アズライト。
胡粉。
緑青。
そして、殺された被害者から採取した皮膚片と髪のサンプル。
全ては、“マリリン・モンロー”を現代に転生させるための素材だった。
水野は壁に貼った村上紗英の写真を見つめた。
その表情を、ただ美しいの一言で切り捨てることはできない。
彼の中では理想の“モンロー像”と彼女の輪郭が重なり、やがて一体化する過程が不可逆に進んでいた。
「……お前しかいない」
低く呟く声は、信仰にも似ていた。
まるで信者が聖母像と対話するかのように、彼は“作品を生む母胎”として、村上紗英を心の底から選んだのだ。
彼はケースを開け、冷たく光る注射器をそっと撫でた。
アルコールのアンプル。
そして神経を麻痺させる微量の薬物。
“酩酊状態”を人工的に、短時間で作り出す。
これまで水野は、この手口で何人もの被害者を奪ってきた。
窓の外は静かだった。
だが、水野は気づいている。
二課が自分を追っていることも、紗英を守ろうとしていることも、理解している。
それでも――
「……止められるはずがない。これは運命だ。俺が選んだんじゃない。作品が俺を呼ぶんだ」
狂気というより、“必然”を語るような声だった。
水野は立ち上がり、長い時間をかけて覚えた紗英の帰宅ルートを思い返す。
彼女の歩幅。
彼女の癖。
彼女の足が止まる場所。
コンビニで買う飲み物の銘柄。
帰宅前にスマホで確認するアプリ。
その全てが、水野の脳裏に“作品の手順書”として焼き付いていた。
そして、静かに笑った。
「そろそろ、迎えに行く時間だ」
***
同時刻、二課の緊急配備は既に走り出していた。
紗英の通勤路と帰宅ルートには複数の捜査員が散開し、所轄の警官が“自然な距離”で監視する形を取っていた。
恵美は遠巻きに紗英を目視できる位置につき、渡辺と片瀬は周囲の目立たない物陰から監視を続ける。
秋山は車中から蛇の目のリアルタイム観測を確認しつつ、全体の指揮を執る。
「蛇の目、紗英の危険ポイントの更新を続けろ」
《了解。更新中……》
恵美は、小さく深呼吸した。
――きっと、来る。
――絶対に来る。
水野は“作品の完成”を、今夜果たそうとする。
胸の奥で、静かな緊張が鼓動を強めていた。
***
街灯の下、村上紗英の影が長く伸びた。
その影を、別の闇がそっと追いかけた。
水野匡彦だった。
呼吸は静か。
姿勢は自然。
だが、その瞳だけは研ぎ澄まされていた。
獲物に牙を立てる直前の獣のように。
そして――距離がついに“可能圏”に入る。
水野は、ポケットの中で注射器へそっと触れた。
「……行ける」
全てが、作品へ収束していく。
その瞬間――
蛇の目が二課の通信端末全てに“赤アラート”を叩きつけた。
《危険接近!村上紗英までの距離 12メートル。
犯人:水野匡彦、接触態勢!!》
恵美たちの身体が一斉に動いた。
夜の街の静寂が、一瞬にして破られた。
――二課と修復家の“決戦”が、ついに始まる。
夜というより、夜が凝縮されて液体になったような、重たい闇が都心のビル群を覆っていた。
湿った空気を肺に吸い込みながら、吉羽恵美はハンドマイクを軽く握りしめる。
足元には路面から立ち上る湿気。
遠くで鳴るサイレンは、別の事件のはずなのに、この場に忍び寄る緊張をじわじわと増幅させていた。
「蛇の目、ターゲット動線を再確認。村上紗英の帰路、三分ごとにアップデートして」
秋山が静かにスマホを掲げる。
蛇の目の冷たい光が、彼の顔に白い斜線を作る。
《更新完了。現在、村上紗英は職場ビルを出た。徒歩で帰宅中。
水野匡彦の潜伏先は渋谷区・幡ヶ谷付近と推定。行動予測モデルは”接触まで27分”》
恵美の喉がひりつく。
蛇の目の分析はこれまでほとんど外さなかった。
だが、それでも水野相手では「27分」がどこまで信頼できるのか、誰も確信は持てなかった。
小林和樹の件が全員の胸に根を落としている。
“蛇の目でも読み切れない悪意が存在する”。
その恐怖は二課の背骨を冷たい氷でつかまれるように走っていた。
渡辺が腕時計を見ながら息を呑む。
「村上さんに付けた尾行は?」
片瀬がイヤホンを押さえながら答える。
「はい、今のところ異常なし。でも……」
「水野は夜に姿を消す。光の届かない所で動く男だ。尾行が通用する確率は低い」と秋山。
その場にいた全員が黙った。
あの“病めるバッカス”となって発見された小林の骸が、脳裏に浮かんだからだ。
――あれほど慎重で警戒されていたはずの男ですら、修復家の手のひらで踊らされていた。
次は紗英が、同じように作品へと堕ちる番かもしれない。
恵美は自分の鼓動がやけに大きいことに気づき、呼吸を整えた。
「今回だけは、必ず先回りする。絶対に間に合わせる」
その宣言の直後だった。
蛇の目の端末が甲高い警告音を鳴らす。
《アラート更新:水野匡彦、移動開始。
推定目的:村上紗英への接触。
なお、本行動は過去の行動パターンと一致率91%。
“実行フェーズ移行”と判断》
「来たな……」秋山が短く呟く。
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潜伏先のボロアパートには、湿った畳と、テレビン油、乾燥した血液の残臭が混じった、奇妙な気配が漂っていた。
水野匡彦は椅子に腰掛け、机の上の注射器を撫でていた。
透明な薬液が、室内灯の僅かな光を反射して揺らめく。
「……今日だ」
独り言は低く、だが確信に満ちていた。
机の前には、村上紗英の写真が無数に貼られ、
その隣にはウォーホルのマリリン・モンローが、ジャングルのように色彩を広げていた。
水野の頭の中では、紗英の骨格、頬のライン、色素、体温、歩幅、視線の癖まですべて、
絵具を混ぜるように整理され、「作品としての完成形」へと押し込まれている。
「モンローは笑う。
笑顔は計算された角度で。
悲しみと虚無の境界線で。
紗英……君なら、それになれる」
水野は立ち上がり、鏡を見た。
汗は引き、表情は静かな彫像のようだった。
「画材は揃った。あとは……素材だけだ」
コートを羽織り、注射器をケースに入れる。
無駄のない動作。
彼は本物の修復家らしく、手順を誤らない。
そして扉を開ける瞬間、一度だけ振り返った。
部屋の壁に並ぶ過去の被害者たちの写真。
その上に、血のような赤で描かれたひとつの言葉。
──“保存”
作品を完成させるために、彼は彼らを“保存”したのだ。
村上紗英もまた、その列に並ぶ運命だった。
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都心の外れ。
村上紗英の帰路にあたる細い路地を、捜査員たちが配置につく。
空気が重い。
通りを渡る風でさえ、何かを恐れているように音を立てなかった。
「配置完了。蛇の目、村上紗英のGPSは?」
《安定。徒歩速度。あと三分で作戦地点通過》
恵美は呼吸を整えた。
「紗英さんがここを通る。あとは水野を待つだけ……」
だが、その瞬間。
蛇の目が再び警告音を鳴らす。
《異常行動検知。
水野匡彦、推定行動ルートから逸脱。
“接触角度変更”を確認》
「なに……!?」
秋山が地図を覗き込む。
「ルート変更? 蛇の目、理由は?」
《確率推定:監視を回避するための高次判断行動。
“二課の作戦を察知した可能性”がある》
恵美の背筋が凍りつく。
「読まれてる……!」
そして蛇の目が続けた。
《水野匡彦、加速。村上紗英まで――あと1分30秒》
「まずい!!」
恵美が飛び出した。
渡辺も片瀬も、無線を握りながら全力で走る。
路地を曲がり、ネオンサインの下で村上紗英の姿が見えた。
スマホを見ながら歩く、何も知らない普通の女性。
そのすぐ後方、闇の底から、ひとつの影が静かに迫る。
水野匡彦だった。
姿を見た瞬間、恵美の鼓動が破裂しそうになった。
肩をすぼめ、コートの内側に手を入れ、
まるで軽く挨拶でもするように、呼吸ひとつ乱さず歩いていた。
手には――例の注射器。
「やめろ!!」
恵美の声が響いた瞬間、紗英が振り向く。
水野も振り返る。
その顔には、激情ではなく、ただ単純な“失望”が浮かんでいた。
「また……邪魔をするのか」
低い声。
そして、水野匡彦は――走った。
紗英ではなく、逃走のために。
「追えッ!!」
二課全員が動いた。
しかし水野の走りは異常だった。
アスファルトに触れる足音すら軽く、影のように加速する。
蛇の目が叫ぶように解析を出す。
《水野匡彦、心拍上昇。アドレナリン急増。
身体能力が限界値を超えています。
このままでは……取り逃がします》
恵美は叫んだ。
「紗英さんは安全圏! 全員、水野を追って!!」
夜の街を、修復家と二課が駆け抜ける。
だが──曲がり角を抜けた瞬間。
水野の姿は、完全に消えていた。
《追跡不能。視認・熱源・音声いずれもロスト。
水野匡彦は監視網から消失》
再び。
まるで小林のときと同じように。
恵美は立ち止まり、拳を握りしめた。
「あの男……本気でモンローを作ろうとしてる……!」
秋山は息を整えながら低く呟く。
「我々より……一歩先にいる。
蛇の目すら裏をかける場所に潜む修復家。
村上紗英の命を……必ず狙ってくる」
風が吹いた。
湿った都会の風が、修復家の狂気をかき混ぜるように通り抜けていく。
――戦いは、まだ始まったばかりだった。




