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蛇の目/Conservator  作者: ふゆはる


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28/37

第二十八話/交差

 夜の東京は、光と影の境界があまりに曖昧だった。

 その曖昧さが、まるで水野匡彦という男の影のように、二課の捜査網の間をすり抜けていく。

 水野が潜伏し、完全に蛇の目の監視網から外れたと判明してから、わずか二日。

 その間、彼は“次の作品”に必要な素材として、村上紗英という一人の女性に執着し続けていた。

 蛇の目は彼の思考パターンから、合理的な犯行計画だけではなく、“作品としての美”という極めて主観的な部分まで解析しようとしたが、水野には異常な揺らぎがあり、予測不能の跳躍がごく自然に含まれる。その跳躍が、初動の検挙を困難にしていた。

 一方二課では、ついに“決断”が下された。

 紗英の会社周辺・帰宅ルート・自宅の三地点に警護を配置し、二課全員と所轄が連携する形の“包囲網”が形成される。

 同時に蛇の目は、紗英が危険に晒される可能性のあるゾーンの時間的変動までリアルタイムで更新を続けた。

 秋山は会議室のホワイトボードの前で、簡潔に言った。

「……これは時間との戦いだ。水野は“作品”の完成に追い込まれている。焦っている。ただし焦りは、むしろ決行を早める。――つまり、今夜でもおかしくない」

 恵美は黙って頷いた。

 彼女の胸の奥に渦巻いているのは、単なる捜査員としての感情だけではない。

 “修復家”の狂気が、またひとつ命を奪おうとしている。

 それを止めるためなら、たとえ一歩先に修羅場へ踏み込むことになっても構わない――そんな静かな衝動。

 渡辺は機器の確認を続けながら、ひっそりと言った。

「紗英さん自身には、まだ完全な『自分が狙われている』という実感はないようです。今日も通常勤務を続けています。……早めに彼女に説明したほうがいいんじゃ?」

 片瀬が返した。

「でも唐突に恐怖を煽ると動線が乱れる。水野は“乱れた動線”をつきやすい。行動パターンが読みづらくなるのはむしろマズい……」

 会議室には、焦燥と緊張が沈殿していた。

 その空気を割るように、蛇の目のモニターがふっと点滅した。

 《更新ログ:水野匡彦の行動予測 転移》

「転移?」

 恵美が眉を寄せる。

 《水野匡彦が“作品作成の最終段階”に入った可能性が高い。

 村上紗英への接触ルート:都内西部の可能性上昇。

 推奨 → 村上紗英の帰宅動線の変更。所轄への強化配備を要請》

 秋山が、ため息のような声で言った。

「――ついに来たな。水野は動く」

 ***

 その頃、潜伏先にいた水野匡彦は、暗いワンルームの隅で呼吸を整えていた。

 明かりはつけない。

 窓には黒い布を貼り、外界の光を完全に遮断している。

 代わりに、机の上には並べられた天然顔料の瓶が、微かに闇の中で鈍い光を放っていた。

 アズライト。

 胡粉。

 緑青。

 そして、殺された被害者から採取した皮膚片と髪のサンプル。

 全ては、“マリリン・モンロー”を現代に転生させるための素材だった。

 水野は壁に貼った村上紗英の写真を見つめた。

 その表情を、ただ美しいの一言で切り捨てることはできない。

 彼の中では理想の“モンロー像”と彼女の輪郭が重なり、やがて一体化する過程が不可逆に進んでいた。

「……お前しかいない」

 低く呟く声は、信仰にも似ていた。

 まるで信者が聖母像と対話するかのように、彼は“作品を生む母胎”として、村上紗英を心の底から選んだのだ。

 彼はケースを開け、冷たく光る注射器をそっと撫でた。

 アルコールのアンプル。

 そして神経を麻痺させる微量の薬物。

 “酩酊状態”を人工的に、短時間で作り出す。

 これまで水野は、この手口で何人もの被害者を奪ってきた。

 窓の外は静かだった。

 だが、水野は気づいている。

 二課が自分を追っていることも、紗英を守ろうとしていることも、理解している。

 それでも――

「……止められるはずがない。これは運命だ。俺が選んだんじゃない。作品が俺を呼ぶんだ」

 狂気というより、“必然”を語るような声だった。

 水野は立ち上がり、長い時間をかけて覚えた紗英の帰宅ルートを思い返す。

 彼女の歩幅。

 彼女の癖。

 彼女の足が止まる場所。

 コンビニで買う飲み物の銘柄。

 帰宅前にスマホで確認するアプリ。

 その全てが、水野の脳裏に“作品の手順書”として焼き付いていた。

 そして、静かに笑った。

「そろそろ、迎えに行く時間だ」

 ***

 同時刻、二課の緊急配備は既に走り出していた。

 紗英の通勤路と帰宅ルートには複数の捜査員が散開し、所轄の警官が“自然な距離”で監視する形を取っていた。

 恵美は遠巻きに紗英を目視できる位置につき、渡辺と片瀬は周囲の目立たない物陰から監視を続ける。

 秋山は車中から蛇の目のリアルタイム観測を確認しつつ、全体の指揮を執る。

「蛇の目、紗英の危険ポイントの更新を続けろ」

 《了解。更新中……》

 恵美は、小さく深呼吸した。

 ――きっと、来る。

 ――絶対に来る。

 水野は“作品の完成”を、今夜果たそうとする。

 胸の奥で、静かな緊張が鼓動を強めていた。

 ***

 街灯の下、村上紗英の影が長く伸びた。

 その影を、別の闇がそっと追いかけた。

 水野匡彦だった。

 呼吸は静か。

 姿勢は自然。

 だが、その瞳だけは研ぎ澄まされていた。

 獲物に牙を立てる直前の獣のように。

 そして――距離がついに“可能圏”に入る。

 水野は、ポケットの中で注射器へそっと触れた。

「……行ける」

 全てが、作品へ収束していく。

 その瞬間――

 蛇の目が二課の通信端末全てに“赤アラート”を叩きつけた。

 《危険接近!村上紗英までの距離 12メートル。

 犯人:水野匡彦、接触態勢!!》

 恵美たちの身体が一斉に動いた。

 夜の街の静寂が、一瞬にして破られた。

 ――二課と修復家の“決戦”が、ついに始まる。


 夜というより、夜が凝縮されて液体になったような、重たい闇が都心のビル群を覆っていた。

 湿った空気を肺に吸い込みながら、吉羽恵美はハンドマイクを軽く握りしめる。

 足元には路面から立ち上る湿気。

 遠くで鳴るサイレンは、別の事件のはずなのに、この場に忍び寄る緊張をじわじわと増幅させていた。

「蛇の目、ターゲット動線を再確認。村上紗英の帰路、三分ごとにアップデートして」

 秋山が静かにスマホを掲げる。

 蛇の目の冷たい光が、彼の顔に白い斜線を作る。

 《更新完了。現在、村上紗英は職場ビルを出た。徒歩で帰宅中。

 水野匡彦の潜伏先は渋谷区・幡ヶ谷付近と推定。行動予測モデルは”接触まで27分”》

 恵美の喉がひりつく。

 蛇の目の分析はこれまでほとんど外さなかった。

 だが、それでも水野相手では「27分」がどこまで信頼できるのか、誰も確信は持てなかった。

 小林和樹の件が全員の胸に根を落としている。

 “蛇の目でも読み切れない悪意が存在する”。

 その恐怖は二課の背骨を冷たい氷でつかまれるように走っていた。

 渡辺が腕時計を見ながら息を呑む。

「村上さんに付けた尾行は?」

 片瀬がイヤホンを押さえながら答える。

「はい、今のところ異常なし。でも……」

「水野は夜に姿を消す。光の届かない所で動く男だ。尾行が通用する確率は低い」と秋山。

 その場にいた全員が黙った。

 あの“病めるバッカス”となって発見された小林の骸が、脳裏に浮かんだからだ。

 ――あれほど慎重で警戒されていたはずの男ですら、修復家の手のひらで踊らされていた。

 次は紗英が、同じように作品へと堕ちる番かもしれない。

 恵美は自分の鼓動がやけに大きいことに気づき、呼吸を整えた。

「今回だけは、必ず先回りする。絶対に間に合わせる」

 その宣言の直後だった。

 蛇の目の端末が甲高い警告音を鳴らす。

 《アラート更新:水野匡彦、移動開始。

 推定目的:村上紗英への接触。

 なお、本行動は過去の行動パターンと一致率91%。

 “実行フェーズ移行”と判断》

「来たな……」秋山が短く呟く。

 ──────────────────────────────────


 潜伏先のボロアパートには、湿った畳と、テレビン油、乾燥した血液の残臭が混じった、奇妙な気配が漂っていた。

 水野匡彦は椅子に腰掛け、机の上の注射器を撫でていた。

 透明な薬液が、室内灯の僅かな光を反射して揺らめく。

「……今日だ」

 独り言は低く、だが確信に満ちていた。

 机の前には、村上紗英の写真が無数に貼られ、

 その隣にはウォーホルのマリリン・モンローが、ジャングルのように色彩を広げていた。

 水野の頭の中では、紗英の骨格、頬のライン、色素、体温、歩幅、視線の癖まですべて、

 絵具を混ぜるように整理され、「作品としての完成形」へと押し込まれている。

「モンローは笑う。

 笑顔は計算された角度で。

 悲しみと虚無の境界線で。

 紗英……君なら、それになれる」

 水野は立ち上がり、鏡を見た。

 汗は引き、表情は静かな彫像のようだった。

「画材は揃った。あとは……素材だけだ」

 コートを羽織り、注射器をケースに入れる。

 無駄のない動作。

 彼は本物の修復家らしく、手順を誤らない。

 そして扉を開ける瞬間、一度だけ振り返った。

 部屋の壁に並ぶ過去の被害者たちの写真。

 その上に、血のような赤で描かれたひとつの言葉。

 ──“保存”

 作品を完成させるために、彼は彼らを“保存”したのだ。

 村上紗英もまた、その列に並ぶ運命だった。

 ──────────────────────────────────


 都心の外れ。

 村上紗英の帰路にあたる細い路地を、捜査員たちが配置につく。

 空気が重い。

 通りを渡る風でさえ、何かを恐れているように音を立てなかった。

「配置完了。蛇の目、村上紗英のGPSは?」

 《安定。徒歩速度。あと三分で作戦地点通過》

 恵美は呼吸を整えた。

「紗英さんがここを通る。あとは水野を待つだけ……」

 だが、その瞬間。

 蛇の目が再び警告音を鳴らす。

 《異常行動検知。

 水野匡彦、推定行動ルートから逸脱。

 “接触角度変更”を確認》

「なに……!?」

 秋山が地図を覗き込む。

「ルート変更? 蛇の目、理由は?」

 《確率推定:監視を回避するための高次判断行動。

 “二課の作戦を察知した可能性”がある》

 恵美の背筋が凍りつく。

「読まれてる……!」

 そして蛇の目が続けた。

 《水野匡彦、加速。村上紗英まで――あと1分30秒》

「まずい!!」

 恵美が飛び出した。

 渡辺も片瀬も、無線を握りながら全力で走る。

 路地を曲がり、ネオンサインの下で村上紗英の姿が見えた。

 スマホを見ながら歩く、何も知らない普通の女性。

 そのすぐ後方、闇の底から、ひとつの影が静かに迫る。

 水野匡彦だった。

 姿を見た瞬間、恵美の鼓動が破裂しそうになった。

 肩をすぼめ、コートの内側に手を入れ、

 まるで軽く挨拶でもするように、呼吸ひとつ乱さず歩いていた。

 手には――例の注射器。

「やめろ!!」

 恵美の声が響いた瞬間、紗英が振り向く。

 水野も振り返る。

 その顔には、激情ではなく、ただ単純な“失望”が浮かんでいた。

「また……邪魔をするのか」

 低い声。

 そして、水野匡彦は――走った。

 紗英ではなく、逃走のために。

「追えッ!!」

 二課全員が動いた。

 しかし水野の走りは異常だった。

 アスファルトに触れる足音すら軽く、影のように加速する。

 蛇の目が叫ぶように解析を出す。

 《水野匡彦、心拍上昇。アドレナリン急増。

 身体能力が限界値を超えています。

 このままでは……取り逃がします》

 恵美は叫んだ。

「紗英さんは安全圏! 全員、水野を追って!!」

 夜の街を、修復家と二課が駆け抜ける。

 だが──曲がり角を抜けた瞬間。

 水野の姿は、完全に消えていた。

 《追跡不能。視認・熱源・音声いずれもロスト。

 水野匡彦は監視網から消失》

 再び。

 まるで小林のときと同じように。

 恵美は立ち止まり、拳を握りしめた。

「あの男……本気でモンローを作ろうとしてる……!」

 秋山は息を整えながら低く呟く。

「我々より……一歩先にいる。

 蛇の目すら裏をかける場所に潜む修復家。

 村上紗英の命を……必ず狙ってくる」

 風が吹いた。

 湿った都会の風が、修復家の狂気をかき混ぜるように通り抜けていく。

 ――戦いは、まだ始まったばかりだった。

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