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蛇の目/Conservator  作者: ふゆはる


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第二十七話/アスモデア

 二課の執務室には深夜の冷たい蛍光灯だけが灯り、誰一人、椅子に深く腰を下ろしている者はいなかった。

 捜査会議後、秋山室長をはじめ恵美、渡辺、片瀬の全員が蛇の目の演算ログをモニターに映し出し、わずかに残された水野匡彦の行動痕跡を拾い上げようとしていた。自宅から押収された大量の顔料、人体組成を模した下図スケッチ、そして小林和樹・山内久美の拉致に関係する証拠群。それらが水野を主犯と断定するには十分すぎる材料だったが、肝心の本人だけが――まるで夜の闇に溶けたように――忽然と消えていた。

 蛇の目のディスプレイが低い電子音とともに点滅し、新たな解析ログが吐き出される。

 〈―地理的プロファイル再演算開始

 検索パラメータ:

 水野匡彦・過去の行動半径/既知の顔料調達ルート/京都ー東京間の移動履歴/荷物容量推定/潜伏可能施設

 候補地点:4→2→1へ収束…〉

 秋山は画面に顔を寄せ、わずかに走るノイズの向こうのデータを読む。

「やっぱり…水野は“安全圏”を保ちつつ移動してる。半径5キロ圏内から出ていない。」

 恵美は疲労の色を隠さないまま、しかし眼光だけは鋭く蛇の目のログを追った。

「じゃあ、どこかに“作業場”があるはずです。水野が絵画殺人のための下地処理を行った場所…近い場所に。」

 渡辺が紙コップのコーヒーを飲みながら唸る。

「だとすると、都内の廃工房か…あるいは無人のシェアアトリエか…」

「しかしその多くは監視カメラがある。蛇の目の網に引っかからない移動をしてるなら、監視の“死角”がある場所だ。」

 片瀬は静かにキーボードを叩き、蛇の目に追加条件を送信する。

 〈廃工房・無届アトリエ・放置倉庫・元美術学校 〉

 〈監視カメラ盲点領域の重ね合わせ〉

 〈水野の作業動線と一致点〉

 分析が始まると同時に、室内の空気は硬く、張り詰めた糸のようになった。

 ――そのころ、水野匡彦は、確かに“安全圏”の中にいた。

 彼は郊外にある古い和室付き倉庫の奥、わずかに照明が届く小部屋で作業を続けていた。

 外壁は蔦に覆われ、裏手に回らなければ入口すら分からない。

 蛇の目の監視網から外れた理由も単純だった。

 この小屋には電源が通っておらず、防犯登録もされていない。

 水野は低出力の蓄電池と古い油ランプだけで作業していたのだ。

 部屋の中央には、白布を掛けられた台。

 その横には、京都から持ち込んだ伝統顔料の瓶が整然と並ぶ。

 アズライト、胡粉、紅殻、そして金泥。

 ランプの光がそれらの瓶に反射し、幽霊のような光彩を放っている。

 机の前に座った水野は、手帳を開いた。

 ページには“マリリン・モンロー”の特徴が事細かに記されていた。

 黄金比から計算された顔の輪郭、唇の厚み、頬の陰影、髪色の階調分布。

 誰よりも美術的に、科学的に、狂気的にモンローを理解しようとしている。

 ――そして、その横に貼られた写真。

 村上紗英。

 二課が必死で保護しようとしている女性の一人。

 だが、水野にとってはもっと単純なことだった。

「最も均整の取れた素材」。

 その一点だけが、水野の思考を支配していた。

 水野の額に滲んだ汗は、執着の熱から生まれたものであり、

 狂気が冷静さと同時に存在する奇妙な均衡点で水野は動いていた。

「まだ…足りない。」

 水野は小さく呟く。

「光だ。あの光…モンローが持つ“笑みそのものの輝き”。まだ再現できていない。」

 作業台には既に数点の「失敗作」が積まれていた。

 顔料を混ぜた布、何かを縫い合わせ、焼き固め、捨てた跡。

 人の身体を模した形状すら混じる。

 美術か、死体の処理痕か、その境界線はとうに崩れていた。

 水野はランプを手に取り、壁にかけられたモンローの模写を照らした。

 ランプの炎が揺れるたび、模写はまるで微笑みを浮かべたり、悲しそうに沈んだりと感情を見せるように見えた。

「紗英さん…あなたなら、きっとモンローになれる。」

 その声は優しさと残虐性が奇妙に混ざり合い、

 本人にとっては“慈しみ”であり、

 第三者から見れば“狂気の宣告”だった。

 水野は立ち上がり、暗闇の窓から夜の街を見る。

 誰も見ていない。

 蛇の目にも映らない。

 ここは安全圏だ。

 村上紗英を再び追える――水野の瞳孔が大きく開いた。

「明晩だ。」

「彼女を迎えに行く。完成のために。」

 そして、水野は工具箱を閉じ、

 新たな注射器を一本、丁寧に布に包んだ。

 そのころ二課では、蛇の目のプロファイルが臨界点を迎えようとしていた。

 画面の点滅が増し、

 〈潜伏地点推定精度:80%→89%→93%〉

 〈水野匡彦の行動予測:ターゲット接触確率 72%〉

 という文字列が高速に現れていた。

 恵美は思わず声を上げる。

「蛇の目が示す“行動予測”……村上紗英さんが危ない。」

 だが、それは同時に意味した。

 “水野は今、どこかで準備をしている”

 “動いている。だがまだ捕まえられていない”

 “時間はあとわずか”

 室内の誰もが理解した。

 水野匡彦の狂気は妄執へと進化し、

 絵画殺人の最終章――マリリン・モンローの完成に向けて動き始めている。

 そして、蛇の目の深層演算が低く鳴った。

 〈警告:水野匡彦、今夜動く可能性 極めて高〉

 二課の全員の胸が、強く、冷たく揺れた。


 二課の張り込み網をすり抜け、蛇の目の観測範囲すら脱落したその夜、水野匡彦は都心から半径20km、交通の結節点から外れた河川沿いの古い倉庫街へと姿を消していた。

 そこは十年以上前に用途廃止となり、スラム化の兆しを帯びながらも整備計画は頓挫し続け、夜になると音もなく闇の底に沈む地域だった。だが水野にとって、その静寂は祝福にも等しかった。

 倉庫の鍵は壊れたまま放置されていた。水野は躊躇なく扉をこじ開け、フラッシュライトの白い光の中へと深く歩みを進める。

 内部は湿気と埃の匂いが濃厚に漂い、古い木箱、投げ捨てられた農具、錆びた金属の破片が雑然と散らばっている。何年も前から人が出入りした様子はない。しかし水野はその荒れ果てた空間を、さながら「まだ手付かずのキャンバス」のように眺めていた。

 携行してきた黒いリュックから、彼は静かに道具を取り出していく。

 古い木製のパレット。自分で調合した天然顔料の瓶が十数本。乾燥させた膠。羊皮紙。絵筆。紙ヤスリ。そして、村上紗英の写真。

 水野は写真を胸の高さで掲げ、倉庫の壁に打ち付けてあった釘にそっと引っ掛けた。

 その直後、わずかに肩が震えた。

 それが感情の揺らぎであったのか、それとも歓喜に近い緊張であったのか、本人以外には判別できない。

 しかし確かにそこには「新しい作品のイメージが始まりつつある」という狂気めいた呼吸があった。

 水野にとって、村上紗英は唯一無二の素材だった。

 若々しさと成熟の境界にある色香。現代都市の光を反射する皮膚の質感。わずかな憂いを宿す目元。

 皺一つない顔立ちの奥に潜む、説明のつかない倦怠。

 それはまさに、ウォーホルのマリリン・モンローを“天然素材”で再構築するための理想形だった。

 壁の向こう側で、誰かが鉄パイプを蹴るような音がした。

 しかし水野は気に留めなかった。この地域では、夜になると風が建物内部の金属を叩く音がよく響く。それに、誰であれここへ近づいてくる者はいない。そう信じられるほど、この倉庫街は都市の死角だった。

 水野はタブレット端末を取り出し、村上紗英の勤務シフト、帰宅ルート、生活パターンを再確認する。

 すべてが吸い込まれるように整っていた。

 二課が潜在的被害者に接触し警告を行っていることは、既に十分織り込み済みだ。

 彼が狙うのは「警戒が僅かに緩む瞬間」だった。そのわずかな隙間を、あたかも絵画の筆の狭間のように縫って侵入する。それが水野匡彦の精密さだった。

 デバイスに映る地図のピンを指でなぞる。

 村上紗英の帰宅動線。

 二課の警護配置。

 蛇の目の監視網が張り巡らされていると予測されるルート。

 その全てを見据えながら、水野は倉庫の床にチョークで大きな円を描いた。

 まるで魔術師の召喚陣のようなその円の中心に、彼は村上紗英の写真をそっと置く。

 それを向かい合う位置にウォーホルのマリリンのレプリカを立てかける。

 ――その瞬間、倉庫の空気が変わった。

 乾いた音を立て、古い蛍光灯が一つだけ灯る。

 水野はその淡い光の中で、二つのイメージが重なるのをじっと見つめ続けた。

 村上紗英の現代的で均整のとれた顔立ち。

 モンローの破滅を孕んだ笑み。

 二人の輪郭が、彼の脳裏でゆっくりと融合していく。

 彼は深い溜息を吐いた。

 その吐息は陶酔に近かった。

「――あと一歩だ」

 誰にも聞こえない声で呟く。

 倉庫の薄闇が、彼の声を飲み込み、塵のように散らした。

 そのころ二課では、蛇の目が水野の安全圏を少しずつ狭め始めていた。

 渋谷、新宿、梅島、三郷…消えていく候補地。

 しかし一つ、異様なほどノイズが多く特定困難なエリアが浮き上がる。

 蛇の目のアルゴリズムは警告を出した。

 ――【対象は潜伏を前提とした“準備段階”にある可能性が高い】

 ――【次の作品に向けた計画が既に進行中】

 ――【潜在的被害者:村上紗英 介入優先度:最上位】

 これらのログが二課に届く頃、水野は倉庫の暗がりで、酩酊用の注射器を一本一本確認していた。

 液体の透明度。

 揮発率。

 注射器の滑らかな動作。

 針先がわずかに光を反射する。

 それらすべてが、まるで儀式の聖具のような神聖さを帯び始めていた。

「素材が揃った。構図も定まった。あとは――迎えに行くだけだ」

 彼はそう呟き、注射器をケースに収めた。

 その動作は、画家が筆を整える仕草と酷似していた。

 倉庫の隙間から冷風が入り込み、村上紗英の写真がわずかに揺れる。

 モンローの模写も同時に揺れた。

 それはまるで“運命の呼吸”がそこに吹き込まれたかのようだった。

 水野は静かに微笑んだ。

 その微笑みは、人間のものとは思えないほど、均整がとれ、冷たく、美しく、そして空虚だった。

 次の夜。

 村上紗英が、再び一人で帰宅する瞬間を、水野は待っていた。

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