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蛇の目/Conservator  作者: ふゆはる


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第二十六話/破滅

 二課は緊急会議の空気に包まれていた。村上紗英への接近を阻止できたことで最悪の事態は免れたが、それは同時に水野匡彦が“姿を消した”瞬間でもあった。蛇の目の監視ログに空白が生じたのは、過去の事件でもほとんど例がない。動体追跡、歩行者解析、交通監視カメラ、衛星軌道補完――蛇の目が有する網のほぼすべてが、彼を追えなかった。この事実が、秋山を含む全員の背中に冷ややかな汗を滲ませた。

「任意同行をかけるべきか……だが今の時点では根拠が弱い」と秋山は言ったが、言葉とは裏腹に表情は硬い。

「蛇の目のスコアはほぼ決定打に近い。それでも法的には不十分……厄介だな」

「とはいえ、もう動かれている可能性がある」恵美が低く言う。「次の被害者候補に接触するまで時間はあまりない」

 会議室の蛍光灯が静かに唸り、誰も言葉を挟まなかった。蛇の目ですら見逃した影が、今この瞬間も、どこかで新たな“素材”を狙って息を潜めている――その想像だけで、二課は全員、焦燥と緊張に押しつぶされそうになっていた。

 蛇の目の画面が瞬き、システム音が低く響いた。

 〈水野匡彦――監視網から外れました〉

 〈行動パターン予測不能値:急上昇〉

 〈潜伏可能性:非常に高〉

「完全に逃げられたか……」渡辺が息を飲む。

「夜の闇に紛れたと言うより、消えた、の方が近いな」片瀬も声を震わせる。

 秋山はすぐに切り替えた。「水野の自宅を洗う。捜索令状はすぐ取れる。行くぞ」

 夜の住宅街は静まり返っていた。月光に照らされた道を覆う冷気が、二課の緊張を一層引き締める。水野匡彦の自宅――外観は驚くほど普通で、玄関横に小さな植栽があり、郵便受けには数日の分と思われるチラシが挟まっていた。それだけ見れば、平凡な日本画修復師の住まいだ。しかし、内部には必ず“修復家”としての痕跡がある――誰もが確信していた。

 秋山が令状を示し、鍵を破錠し、静かに扉が開いた。

 中はわずかに乾いた絵の具の匂いと、古い紙の湿った匂いが混じり合っていた。だが、普通のアトリエではない。恵美は靴裏で床の軋みを感じ、思わず息を止める。

 最初に視界に入ったのは――壁一面に貼られた“絵画殺人”の資料だった。

 被害者の顔、遺体写真、絵画の複写、筆致分析、事件現場の地図、色彩構成……。

 すべてが丁寧に分類され、糸やピンで関連付けられ、まるで美術研究のための資料のように整然としていた。

 しかし、その“整然”が、逆に恐ろしい。

 狂気が秩序を持つとき、もっとも恐ろしくなる――恵美はその事実を目の当たりにして震えた。

「……これは、完全に絵画として再構築するためのデータベースだな」秋山がつぶやく。

「犯行の痕跡というより、制作ノートだ……」渡辺が絶句する。

 薄暗い部屋には他にも、未乾燥の油絵具の匂い、研磨された貝殻の粉、黄土の沈殿物、鉱石を砕いた跡――アズライトの青粉がこびりついた石臼までもが置かれていた。

 さらに進むと、空気はさらに重くなる。

 第二の部屋。そこで恵美は思わず言葉を失った。

 そこには――

 “まだ起こっていない絵画殺人”の構図が、壁一面に描かれていたのだ。

 マリリン・モンロー。

 彼女の顔の複数のバリエーションが描かれ、彩色され、比較されている。

 黄土・胡粉・天然ウルトラマリンの調合比率、髪の色の明度変化、唇の曲線の最適化。

 そして――“素材となる女性の候補”。

 複数の女性の顔写真が貼られ、その横には蛇の目が提示した潜在的被害者のリストも混ざっていた。

「……くそっ、やっぱり完全に狙っていたんだ……」

 片瀬が壁に拳を押し当てる。

 秋山は沈黙したまま、じっと壁の一点を見つめていた。

 そこには、村上紗英の顔写真が――まるで完成予想図の横に添えるように、静かに貼られていた。

 その瞬間、二課の誰もが悟った。

 水野匡彦は、村上紗英を“マリリン・モンロー作品”として完成させるための準備を、すべて終えていたのだ。

 蛇の目が通信越しに静かに言った。

 〈水野匡彦の“制作工程”は、最終段階に入っていました〉

 〈潜伏――即再犯の可能性、極めて高〉

 恵美は冷たい汗を拭いながら、震える声で言った。

「……急がなきゃ。水野は、必ず戻ってくる。作品を……完成させるために」

 誰も反論しなかった。

 この家は、静寂に包まれながらも、確かに“狂気の作業場”だった。

 そして“まだ完成していない作品”が一つだけある――それが、村上紗英。

 二課はその瞬間、修復家との最後の攻防が始まったことを理解した。

 水野匡彦はどこかに潜む。

 そして、その途中で必ず――“素材”にもう一度、手を伸ばす。

 ここから先は、時間との戦いだった。


 水野匡彦は、都内から車で一時間ほど離れた埼玉県南部の工業地帯にある、使われなくなった古い倉庫の二階を潜伏場所としていた。

 外観は錆びつき、窓の大半が割れ、夜になれば街灯すら届かない。

 しかし水野にとっては、この荒廃した空洞こそが“完璧なアトリエ”だった。

 倉庫内部は想像よりも整然としていた。

 床には吸音材を敷き詰め、天井から下がる裸電球は最低限。

 その中央に、一枚の大きな木製パネルが立て掛けられ、周囲には竹箒のように束ねられた麻、バケツ、金属製のボウル、獣脂を煮詰めた痕跡のある鍋、何かの骨片、そして大量の天然顔料の瓶が並んでいる。

 空気は常に薬品臭と鉄の匂いが混じっていた。

 彼が「修復家」と呼ばれているかどうかなど知る由もない。

 だが、彼自身はその呼称を嗤い飛ばすだろう。

 彼にとって自分の職能は修復でも保存でもない。

 もっと根源的な、もっと暴力的で、純粋な“創造”である。

 彼は鏡の前に立ち、自分の顔を見つめていた。

 この潜伏場所に逃げ込んだ直後、自宅に残した“痕跡”が二課の手に渡ることを想定しているような、余裕のある表情だった。

 その理由はただ一つ──

 自分はまだ“作品”を完成させていない。

 だから彼らは必ず追ってくる。

 そして完成するまで、自分は捕まらない。

 鏡の前には一枚の写真が貼ってある。

 村上紗英のものだ。

 本人に気づかれないようSNSを漁り、勤務先周辺で密かに撮った写真。

 水野は指先で彼女の頬に触れるふりをした。

「……光が弱いな」

 独りごちるその声は、湿った地下の響きを持って倉庫全体に広がった。

 彼の脳裏には、すでに完成した“マリリン・モンロー”のイメージがあった。

 だが村上紗英の顔は、まだそのイメージから遠い。

 画家にとってモデルとは、描く対象である以前に、作品に内在する精神を宿す母胎である。

 その“精神に近づくプロセス”を作り上げることこそ、水野の方法論であり、作品制作だった。

 作業台には、緑青とアズライトが並べられている。

 アズライトの結晶は深い蒼。

 粉末を砕いた時にだけ生きるはずの鮮烈な青が、部屋の灯りに細く反射する。

 水野はそれを手に取り、ひとつ布に落として香りを確かめる。

 天然顔料には、産地特有の湿り気の匂いが微かに残る。

 それを嗅いだ瞬間、彼の表情はわずかに緩む。

「……悪くない。だが、まだ“彼女”の青ではない」

 そう呟いて瓶を戻すと、今度は紫雲母と胡粉を取り出した。

 胡粉は牡蠣殻から作られる白。

 村上紗英の肌の下地を“モンローの白”に近づけるために欠かせない要素だ。

 だが水野の目的は、単に絵を描くのではない。

 素材そのもの──

 つまり“人間”を変質させ、理想のイメージへと“加工”することだった。

 部屋の一角には、精巧な医療器具が並んでいる。

 血液用のチューブ、麻酔薬、インジェクター、そして人の皮膚を処理するための溶剤。

 これらは画材であり、道具であり、作品創作のための“必需品”だった。

 水野は椅子に腰を下ろし、次の作業工程を書き出す。

 細いボールペンが紙の上で滑り、ステップごとに番号が振られていった。

 その内容は異常でありながらも、驚くほど冷静で緻密だった。

 対象の確実な確保(村上紗英)

 ・注射器によるアルコール投与で意識を曖昧に

 ・自力抵抗を消す

 ・搬送

 皮膚の蒸留・処理

 ・“光”を作るために必要な下地

 ・部分的な脱色

 髪色の調整

 ・モンローの象徴性を加える

 顔の再構成プロセス

 ・“元の顔”を消し、“モンロー”を浮かび上がらせる

 最終展示

 ・場所は都市部

 ・人目につきやすく、象徴性の高い“舞台”で

 水野は淡々と作業工程を確認し、紙を燃やす。

 火は小さく揺れ、メモを黒く縮ませながら静かに消えていった。

 燃えた紙の匂いがわずかに残る中、水野は倉庫の隅の重い鉄製ロッカーを開けた。

 中には、すでに準備された資材──

 麻縄、拘束具、ナイフ、そして“別の誰かのもの”であった皮下組織の一部が乾燥状態で保管されていた。

 その部位は誰のものか、二課にはまだ知られていない。

 水野は自分の指先を見て、小さく息を吐く。

 震えはない。

 恐怖もない。

 あるのはごく単純な“集中”だけだ。

 彼にとって殺人は手段であり、芸術こそが目的だった。

 前回の作品──小林和樹の“病めるバッカス”は、ある意味で実験作だった。

 観察されていたことすら彼は薄々感づいていた。

 だが問題ではない。

 追われる芸術。

 観測される創造。

 その状況すら作品の一部。

 水野は倉庫の二階窓から外を見下ろした。

 月は雲に隠れ、街灯も届かない。

 その闇の深さが、彼にとっては“静かなキャンバス”に見えた。

「紗英さん……そろそろ準備を始めよう」

 彼は写真に軽く触れ、ゆっくり照明を落とした。

 倉庫は再び闇に沈み、静寂の奥で、彼の呼吸だけが一定のリズムで続いていた。

 外の世界で二課が水野の行方を追い、恵美たちが彼の自宅で証拠品を次々に発見している頃、水野匡彦は潜伏場所で、次なる“作品”を完成へと近づけていた。

 そしてその“静かな準備”は、

 確実に、誰か一人の破滅へと繋がりつつあった。

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