表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
蛇の目/Conservator  作者: ふゆはる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

22/37

第二十二話/抽象画

 修復家――その名が外部に知られていようがいまいが、彼にとっては重要ではなかった。彼は仕事に専念しようとしていた。すべての手順は、次の作品――現代消費社会の象徴であるマリリン・モンロー――を具現化するために組まれていた。

 手元には天然顔料が整然と並ぶ。アズライトの青、胡粉の白、緑青の緑、黄土の黄。それぞれの色が微妙に異なる粒度や光沢で、混ぜ方一つで表情が変わることを彼は熟知していた。単なる模倣ではなく、具現化である。肖像としての再現ではなく、「象徴としてのマリリン・モンロー」を創造するための準備であった。

 彼は筆を握り、目の前の空白のキャンバスに目を落とす。顔料の匂い、筆先の感触、わずかな温度変化、部屋に漂う湿度――すべてが作品の質感に影響する。彼は一瞬たりとも手を抜くことを許さなかった。モンローを象徴するには、年齢のニュアンスが重要だ。若すぎても、成熟しすぎても、彼の内面化したイメージにはそぐわない。観察、想像、計算――すべてが頭の中で精緻に調整されていく。

 修復家の目には、キャンバスに描かれる以前の「マリリン」が映っていた。それはただの肖像ではなく、社会的象徴、文化的アイコン、消費の虚栄と光と影を内包した存在であった。誰も理解できない――彼以外には誰も理解できない――そのイメージを、作品として実現させることが彼の使命であり、狂気であり、至高の快楽であった。

 机の隅には筆洗、顔料皿、混色用のパレットが並んでいる。すべての道具が厳密に配置され、順序立てて使用されることが決められていた。混色の順番、塗布の圧力、筆の角度、乾燥時間、湿度の管理――どれひとつ狂えば、象徴としての「マリリン」は崩れ去る。彼はその精密さに陶酔しながらも、内心で次の段取りを反芻していた。

 素材選定の最終確認も怠らない。肌の質感、唇の色、髪の光沢――天然顔料と微細な混合比率で表現する必要がある。科学的な理論と、彼自身の感覚、そして過去の観察経験が重なり合い、ひとつの答えに収斂される。モンローの象徴性を最大化するために、偶然は許されない。偶発的な光や色の揺らぎも、計算され、制御されるべきものだった。

 修復家の頭の中には、次の作品の完成像がくっきりと描かれていた。顔料の粒子一つ、筆の運び一瞬の動き、光と影の比率まで――誰にも見えないイメージが、彼の内面で生きていた。外界の制約も、法律も、倫理も、彼にとっては存在しない。あるのはただ、次の作品を具現化するという究極の目的だけであった。

 彼は静かに息を吸い込み、筆先を顔料に浸す。部屋にはわずかな顔料の香りと、紙やキャンバスを擦る微かな摩擦音だけが残る。彼の瞳には、完成したマリリン・モンローの姿が鮮明に浮かぶ。その姿は単なる肖像ではなく、消費社会の象徴、人々が心の奥底で求め、恐れ、憧れるものすべてを内包していた。

 修復家は理解していた――この準備、手順、素材の選定は、外部の誰も理解できない。彼の頭の中の象徴を現実に変えることが、すべてであり、次の犠牲者と作品の完成が交錯する地点に向かうための序章であることを。

 そして、彼は静かに筆を動かす準備を整えた。モンローを「具現化する」作業の始まりに、心が震えるのを感じながら。


 修復家にとって、モンローはただの肖像ではなかった。抽象的なイメージであれ、内面で具現化されたモンローは、美しく、すべてを包み込む笑みを兼ね備えた存在であった。微笑の奥には人々が憧れ、同時に恐れる虚栄や孤独の影が映し出され、彼の心を捕らえて離さなかった。その象徴性ゆえに、ターゲットの選定は単なる手順ではなく、作品の完成度を左右する決定的な作業であり、失敗の余地はなかった。

 修復家は机の上に散らばる資料に目を走らせ、過去の写真、雑誌の切り抜き、映画のスチール、広告に至るまで、ありとあらゆるモンロー像を検討した。そして一枚の写真に手を伸ばす。それは、彼の頭の中で具現化されたモンローに最も近い表情、最も象徴性の強い瞬間を捉えたものだった。彼は慎重にそれを壁に掛けられた模写の隣にピン留めする。光の加減、角度、周囲の色調までも計算に入れ、最も「象徴としてのモンロー」が際立つ位置に固定する。

 その作業を終えた後、修復家はしばらく写真を見つめる。モンローの微笑みが、彼の内面で揺らぎながらも確固たる存在感を放つ。ターゲットはこの象徴性を宿す女性でなくてはならない。彼の心に刻まれた理想像と現実の間で、潜在的な被害者の輪郭が次第に浮かび上がってくる。だが、現時点で二課の面々は、その写真の中に映る彼女が潜在的被害者のリストに含まれているかどうか、まったく把握していなかった。

 修復家は一歩前に進む。机の前で顔料の微調整を行い、筆先を整える。天然顔料の微細な粒子を混合し、色の深みと光沢を確認する。彼の手は迷いなく、正確に動く。その動作の一つひとつが、次の作品を完成させるための不可欠なプロセスであり、同時に心理的な予行演習でもあった。ターゲットを視覚的・象徴的に確認し、内部で描かれたモンロー像と結びつけることによって、修復家は作品と現実の両方に対する支配感を得ていた。

 その間、二課は未だ被害者の特定に手間取っている。潜在的被害者は数名に絞られていたが、修復家の目を通すと、その中に次の象徴を宿す者がいるかどうかは不確定だった。警戒網を張り巡らせ、被害者の監視体制を整えながらも、誰も写真の中の女性が本当に危険にさらされているかは把握できていない。現場の情報とデータの間には、まだ不可視のズレが存在していた。

 修復家はそのことを意識しているかどうかは不明だ。ただ、彼の行動はひたすら冷徹に次のステップへと進んでいた。筆先に顔料を乗せ、キャンバスの前で微細な調整を繰り返す。その動作には緊張も迷いもなく、完璧な秩序が存在するだけだった。象徴としてのモンローは、修復家の内面で既に生命を得ており、次の作品として現実世界に具現化される瞬間を待っているかのように、静かに存在感を放っていた。

 部屋の空気は重く、しかし静寂を帯びている。筆の運び、顔料の混色、光の調整――その一連の作業は、二課の監視の目を潜り抜け、ターゲットに迫る不可視の進行であった。修復家は静かに息を整え、次の行動の全体像を頭の中で確認する。ターゲット選定、象徴性の再確認、作品の制作手順、素材の最終チェック――すべてが正確に組み合わさったとき、象徴の具現化は完璧なものになる。

 そして、彼は確信する。誰もこの瞬間の意味を理解していない。二課の面々は未だ潜在的被害者リストの中で揺れ動いている。しかし一歩前を進む修復家は、虎視眈々と次の作品の作成に入り、象徴としてのマリリン・モンローを現実に呼び込むための行動を着々と進めていた。


 二課の面々は、端末に表示された蛇の目の分析結果を手に、潜在的被害者への接触を開始していた。被害者リストには都内在住の数名の女性が浮かび上がっており、年齢、生活環境、心理的傾向の情報が詳細に記録されている。秋山は地図上の位置と行動パターンを照合し、効率的に監視と接触が可能な順序を指示する。「渡辺、片瀬、それぞれ分担して接触を行う。警告はあくまで慎重に、怪しまれないように。リスクは最小限に抑える。」

 渡辺は無線を耳にあてながら、静かに頷く。「了解です。慎重に行動します。」彼は端末から取得した被害者の生活リズム、通勤ルート、交友関係のデータを頭に叩き込み、心理的負担をかけない接触方法を検討する。片瀬も同様に、女性の生活圏を想像しながら、警告文や接触の口実を調整していた。恵美は書類と端末の両方を手に、潜在的被害者への連絡手段を整理しつつ、内心で冷静に計算を巡らせる。「一歩間違えれば警戒心を生み、かえって危険を誘発する。だからこそ、言葉選びとタイミングが全て。」

 一方で修復家は、静まり返った作業室で黙々と準備を進めていた。キャンバスにはモンローの肖像が仮描きとして薄く浮かび上がり、隣の写真と微細な比較を繰り返す。筆先に顔料を微調整して、光の反射や肌の質感を正確に再現する。アズライトの青は深みを増し、胡粉の白は透明感を帯び、緑青の混合比は彼の心理的な象徴性の計算に基づいている。部屋の空気には顔料の香りと微細な摩擦音だけが漂い、修復家の呼吸は静かにリズムを刻む。

 課室では、秋山が無線で報告を受ける。「渡辺、片瀬、接触完了状況は?」渡辺は低めの声で答える。「二名には接触済み、反応は冷静でした。警告内容は理解された様子です。」片瀬も応える。「残り一名も明日接触予定。怪訝な反応はありませんでした。」恵美は端末を見つめながら、小さく息を吐く。「これで、少なくとも次の標的候補の心理的安全圏を少しは確保できたはず。」

 同じ時間、修復家は筆を止め、机の上に置いた小さな鏡で肖像と写真を交互に確認する。光の角度、影の濃淡、肌の透明感、唇の形、瞳の輝き――すべてが計算通りでなければならない。失敗の余地はゼロ。心理的にも完全にモンローを内面化し、作品として現実に呼び込む覚悟を固めていた。手元の筆を握る指先にわずかに力が入り、彼の眼差しは静かに鋭さを増していく。

 二課では、潜在的被害者への警告が進む中、秋山は地図とリストを交互に見ながら、行動計画を再調整する。「接触は完了したが、監視は続行する。警告が理解されているか、心理的負荷が生じていないか、随時確認する。油断は許されない。」恵美も頷きながら、無線のスピーカー越しに微細なニュアンスを聞き取り、被害者の反応を分析する。「警告が伝わっても、ターゲットが自衛行動を取らなければ意味がない。心理的な影響と行動をセットで評価する必要がある。」

 修復家はその間、筆を滑らせては乾燥の様子を確認し、微妙な修正を加える。顔料の微粒子が光を反射する瞬間、彼は満足そうに小さく頷く。次の段階として、象徴的なモンロー像を完成に近づける工程を静かに構築していた。誰もその進行状況を把握できない。二課の監視網がいかに精緻であろうと、修復家の集中力と心理的計算の前では、外部の目は届かない。

 課室では、秋山が沈黙の中で端末の解析ログを睨む。「我々は潜在的被害者への警告と保護を完了させた。しかし、修復家は静かに、次の作品に向かって準備を進めている。この状況は緊迫そのものだ。」恵美は小さく息をつき、「被害者はまだ危険の淵にいる。警告だけでは十分ではない…次の一手を考えなければ。」片瀬も静かに頷き、渡辺とともに端末の地図上に描かれた潜在的被害者の位置を再確認した。

 同時に、修復家の手は静かに筆を運び、キャンバス上にモンローの象徴を形作っていく。心理的な緊張、象徴としての完璧さへの執着、そして次なる行動への準備――二課と修復家、双方の思考と行動は、都市の異なる空間で、同時進行の緊迫した並行線を描いていた。

 静寂の中、二課は監視と警告のための作戦を展開し、修復家は象徴を形にする作業に没頭する。都市の片隅で、未だ気づかれていない象徴が徐々に現実の輪郭を得ようとしていることを、誰も知る者はいなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ