第二話/名画殺人事件
夜の旧足立区立第三小学校――。
駆けつけたパトカーの赤色灯が、廃墟となった校舎の壁を不規則なリズムで照らしていた。
廊下を封鎖する黄色テープの向こう、制服警察官たちの緊張した声が交錯する。その空気を切り裂くように、白いライトバンが敷地に滑り込んだ。
「――科警研第二課、到着しました」
後部ドアが開く。
最初に降り立ったのは、長い黒髪をひとつに結んだ吉羽恵美。
冷たい夜気が頬を撫でても、表情は微動だにしない。
続いて、落ち着いた動作で眼鏡を押し上げる秋山慎一郎室長。
後ろから、機材ケースを抱えた渡辺と、短髪で鋭い目つきの片瀬が降りてくる。
「室長、警視庁からの情報共有は?」
片瀬が歩きながら尋ねる。
「……まだ詳細不明だが、遺体の“姿勢”に特異性があるらしい。
目撃者――いや、発見者の若者たちが取り乱していたという報告も来ている」
秋山は静かに答えた。その声の奥には、嫌な予感の色が濃く潜んでいる。
恵美は懐中電灯を手にし、暗い廊下へ入った。
かつて子どもの声が満ちていた場所は、今や朽ちた匂いと埃の沈黙に支配されている。
「……ここで、遺体が見つかったのよね」
美しく整った眉をひそめ、恵美は室内に目を凝らす。
教室の中央――机の上に、それは横たわっていた。
薄い布に覆われた遺体。
警官が布を軽くめくると、恵美は小さく息を飲んだ。
まるで絵画そのもの。
微笑を再現した死相、胸の前で組まれた手、光の当たり方までもが“演出”されている。
恵美の瞳に、感情が複雑に揺れた。
恐怖ではない――不気味な“違和感”だ。
「……この配置、完全に意図的ね。遺体を芸術作品として“構成”してる」
渡辺がカメラで無言のまま撮影を続け、片瀬が眉をしかめながら言う。
「犯人、相当手間をかけてやがる。遺体の清拭痕もある。死後、丁寧に整えられてる」
秋山は遺体の顔に手を触れず、静かに観察した。
「……度を越した執着だ。自己顕示、あるいは信仰に近い何か。
“模倣”というより、“創作”だな。犯人は自らを芸術家だと思っている」
恵美が周囲を見ると、そこかしこに不自然な点が目に入る。
遺体の背後に置かれた破れた黒板。
床に落ちたわずかな白い繊維。
そして――机の下に置かれた金属製のスタンドライト。
「ライト……? 現場で? これ、絵画の陰影を“調整”してる?」
恵美が低くつぶやく。
秋山が頷いた。
「この遺体を“名画の構図通りに撮影”するためだろう」
片瀬が舌打ちした。
「ふざけてる……芸術家気取りの猟奇犯ね」
恵美は、遺体の目元に残る微細な痕跡に気づき、しゃがみ込む。
「……これ、絵具じゃない。発色は近いけど、化学的に違う……特殊処理された化粧品?」
分析班としての嗅覚が働く。
犯人は美術の専門家か、舞台メイクか、それとも別の何か――。
その時だった。
警察官が駆け込み、息を切らしながら叫んだ。
「秋山室長! 追加の通報です!
都内で――“もう一件、同じような遺体が”見つかったと!」
一瞬、空気が凍る。
「どこだ?」秋山が問う。
「……豊洲の旧倉庫街。
遺体は――フェルメールの《青いターバンの少女》に酷似していると……!」
渡辺が目を見開いた。
「おいおい、連続かよ……!」
冷汗をにじませながら機材をまとめる。
恵美は、胸の奥で小さく震える感覚を抱いた。
恐怖でも驚愕でもない。
――“何かが動き始めた”という、強烈な直感。
秋山は低く言った。
「……これで決まりだ。
第三の事件《青いターバンの少女》、第一の事件《ビーナス誕生》――そしてこの《モナ・リザ》。
犯人は名画を“連作”として作り上げている。
ただの猟奇ではない。計画的・連続的・象徴的犯行だ」
恵美が喉を鳴らすようにして言葉を絞った。
「……じゃあ、まだ終わってない。
犯人の中には“次”の構図が、もうあるってこと」
秋山は静かに頷き、教室の暗がりを見つめる。
「そうだ。
まだ“作品”は、完成していない。
――これは“連続殺人事件”として扱う。
第二課が全面的に担当する」
夜の校舎に、誰もいないはずの闇が揺れたように感じた。
その瞬間――
“名画の死体”はただの奇妙な事件ではなく、
芸術を名乗る狂気の連鎖へと変貌した。
豊洲の旧倉庫街。
再開発から取り残された巨大な鉄骨の塊は、夜になると海風にきしみ、不気味なうなりをあげる。
錆びついたシャッターの脇を、ライトバンが静かに滑り込んだ。
科警研第二課――秋山室長、吉羽恵美、渡辺、片瀬。
その四人が車外に降り立つと、海の匂いが濃厚に鼻を刺した。
警視庁の鑑識や所轄の警官たちが、倉庫前で慌ただしく動いている。
「室長、状況は?」
恵美が歩きながら聞く。
秋山は低い声で答えた。
「発見者はこの倉庫を間借りしていた写真家らしい。深夜、電源を取りに来て中へ入ったところ、奥のスペースで“あれ”を見つけた、と」
片瀬が眉を寄せる。
「また“芸術家”つながりですね。偶然とは思えないわ」
渡辺は重い機材ケースを抱えたまま、倉庫を見上げた。
「こんな場所で……どうやって持ち込んだんだろうな。車をつけても見られやすいはずだが」
「犯人は目立つ行動を恐れないのかもしれない」
恵美が呟いた。
倉庫内は暗く広い空洞で、奥にかすかな照明がともっている。
警官が案内し、彼らは金属音を立てながら中へ入る。
漂うのは、油と潮と、ほんのわずかな血の匂い――。
湿気を帯びた空気が肌にまとわりつき、恵美は思わず腕を擦った。
奥へ進むほどに、周囲の温度が変わった。
そこだけ空気が“固まっている”。
明らかに異物のある空間。
そして、ついに視界が開ける。
「……っ」
片瀬が息を吸い込む。
渡辺は撮影のためにカメラを構えながらも、喉が鳴るほどの緊張を隠せていない。
四人の目の前――
貨物パレットの上に置かれた古い木椅子。
その椅子に、少女のように見える遺体が座らされていた。
青いターバン。
暗い背景に浮かび上がる、横を向いた顔。
フェルメール《青いターバンの少女》(《真珠の耳飾りの少女》)を完璧に模した姿勢。
恵美は一歩も動けなかった。
遺体の瞳は、あの絵画と同じく“振り返った瞬間”の表情を持っている。
しかし、その奥には生気ではなく、死の深い暗闇がある。
秋山が慎重に近づいた。
「……光の計算がすごいな。
スポットライトの角度、距離――すべてが絵画の構図に合わせてある」
片瀬が照明の台座を見つめる。
「倉庫の電源……自分で引いたのね。延長ケーブルも新品。準備周到すぎる」
恵美は遺体を観察し、微細な痕跡を探る。
首筋には、冷たく、薄い打撲痕。
鼻腔に残る、化粧品にはない光沢。
「……これ、一般的なボディメイクじゃない。色素の粒子が美術品保存用の樹脂に近い。
まるで“遺体をキャンバス”として扱ってるみたい」
渡辺が撮影しながら唾を飲む。
「……悪趣味にも程があるな。こんなに綺麗にしなくてもいいだろ」
「綺麗に“しようとしている”のよ」
片瀬が言う。その声は硬く、冷えていた。
「犯人にとって、これは……芸術作品なんでしょうね」
秋山が遺体の耳元にかかった布をそっと避ける。
真珠の耳飾りに見える部分は、実際には透明な硝子玉だった。
光を当てると、青白い反射が揺れる。
「……偽物でもいいのか。絵画の象徴が再現できれば」
秋山は呟いた。
恵美は椅子の足元にある細い溝に目を止めた。
そこには、微かに白い砂の粒子が散らばっている。
「海砂……?
わざわざ海辺で準備したの?
搬入ルートは一つじゃないかもしれない」
視線が交錯する。
犯人像が、ゆっくりと輪郭を持ち始める。
秋山は深く息を吸い、宣言した。
「……これで確定だ。
この事件は“芸術を名乗る連続猟奇殺人”だ。
第三の事件――《青いターバンの少女》」
撤収準備を進める警官たちの声が遠く感じられ、
倉庫の中は、凍りついたような沈黙に包まれた。
恵美の胸はざわついていた。
モナ・リザだけではなかった。
これは始まりに過ぎない。
犯人の脳内には――
“世界で最も有名な死体作品”の完成図が、
すでに用意されているのかもしれない。
彼らはまだ、その“次のページ”を知らない。
しかしこの夜、東京の闇に、確かに何かが産声をあげた。
それは、狂気の芸術が街に解き放たれた瞬間だった。




