表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
蛇の目/Conservator  作者: ふゆはる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

19/37

第十九話/青いターバンの少女

 久美の死によって、二課の面々は大きな心理的空白と手がかりの喪失感に直面していた。監禁場所、修復家の存在、次の作品の対象――すべてが暗闇の中に沈み、現場から得られる物理的証拠は消失していた。重苦しい沈黙が課室に満ちる中、画面上に蛇の目の解析ログが一行ずつ吐き出される。無数の数値、座標、化学分析結果が流れる中、ひとつの文字列が課員たちの視線を強く引きつけた。

「ターバン部分の顔料…天然アズライト…秋田県・小坂鉱山産…」

 画面上に表示された情報に、恵美の眉がぴくりと動いた。天然のアズライトとは非常に稀な鉱石顔料で、現代の画材に用いられることはほとんどない。しかも青いターバンの少女の被害者に使われた顔料の成分と完全に一致していた。片瀬が端末に手を伸ばし、慎重にログをスクロールする。「…こんな希少な顔料を使うということは、作者のルーツや活動圏にかなり特定できる手掛かりがあるはずです。」

 渡辺は眉をひそめ、数値化された鉱物分析結果と過去の出荷記録を照合する。「小坂鉱山……国内でもほぼ限定的にしか採掘されていない天然アズライトだ。修復家のルーツや訓練、画材収集の履歴がここに繋がる可能性がある。」

 秋山は椅子に深く腰を下ろし、指先で端末画面をなぞりながら冷静に考えを巡らせる。久美の死で失われた物理的手掛かりを、化学的解析から補完するという逆算的手法である。天然の顔料の存在は、単なる偶然ではありえない。それを用いることで、犯人の修復家としての技量、嗜好、ルーツ、そして潜在的な隠れ家の所在までもある程度推測可能となる。

「蛇の目、画材に使われた顔料の分析を続けろ。希少鉱石であるアズライトの成分比率、微量の鉱物混合、そして過去の流通履歴を突き合わせろ。」秋山の声は静かだが、指示の重みが課室に充満した。解析が進むにつれ、端末の画面には鉱石の結晶構造、化学成分、粒度分布、さらに過去数十年にわたる採掘量や流通経路までが可視化される。

 恵美は手元の資料と照合しながら、心の中で推理を巡らせる。「小坂鉱山…つまり、修復家は秋田県かその周辺にルーツを持つ可能性が高い。天然顔料を扱えるのは、専門的な修復教育を受けてきた証拠でもある。」片瀬も静かに頷く。「そして、この顔料を過去の作品にも使っていた可能性がある。過去の絵画殺人の被害者の遺物や現場から、同じ分析をすれば修復家の行動履歴を逆算できるかもしれない。」

 蛇の目は膨大なデータを基に、解析結果を課員たちに提示する。顔料中のアズライト微量元素の同定、鉱山採掘ロットの特定、さらに流通経路と可能な入手経路の推定まで、ほぼリアルタイムで数値化されていく。課員たちは息を呑み、解析画面に集中する。数字と図式化された鉱石の結晶構造が、まるで犯人の足跡を物理的に辿る羅針盤のように機能していた。

 秋山は静かに口を開く。「天然顔料の使用は偶然ではない。修復家としての技量、嗜好、ルーツを突き詰めれば、次の標的、隠れ家、活動範囲まで絞り込める。久美の死によって失った情報を、化学的解析で補完するんだ。」

 恵美は頷きながら端末のログを凝視する。「蛇の目の解析が正しければ、このアズライトを使った履歴から、次の象徴的殺人の予測も可能になるかもしれない。」

 渡辺も冷静だが緊張の色を隠せない。「この顔料、希少なだけに入手経路が限られる。つまり、修復家は国内でも特定の地域や流通ルートを熟知している人物だ。隠れ家や潜伏場所の特定にも繋がる。」

 解析はさらに続き、課員たちの頭の中では、秋田県・小坂鉱山から東京へ、そして過去の事件現場への犯行の軌跡が、化学的データを媒介にして立体的に浮かび上がっていく。心理的な焦燥感と緊迫感が混ざる中、課室には静かな決意が充満した。失われた物理的手掛かりを補完し、修復家を追い詰めるために、化学分析という新たな武器が二課の手に握られたのである。


 蛇の目が吐き出す顔料分析ログは、極めて詳細かつ的確だった。青色のアズライトだけでなく、白色部分に使われていた顔料も解析され、これまで曖昧だった日本画特有の画材構成が明らかになった。ログによれば、白色には「胡粉ごふん」が含まれていた。牡蠣などの貝殻を精製して作られる胡粉は、和画の基礎白として古来より用いられ、現代でも修復や日本画制作に必須の素材である。さらに緑色には「緑青ろくしょう」が使用されていた。孔雀石マラカイトを原料とするこの天然顔料は、絵具としての耐久性が高く、伝統的な日本画表現に欠かせない。黄色は「黄土おうど」で、鉄分を含む土壌から得られる天然顔料であり、山水や人物表現に柔らかな色味を与えるものであった。これらの顔料は、化学的組成と微細粒子構造まで解析され、従来の画材帳や歴史的資料と照合することにより、修復家の制作習慣や嗜好、技術水準を高精度で推定できるものだった。

 秋山は静かに端末画面を睨みつけ、解析ログを一行ずつ読み上げる。「胡粉…緑青…黄土…これらはすべて天然顔料だ。しかも、日本画で使用される伝統的な組み合わせ。つまり、犯人は日本画に精通しており、和画の技術を理解した人物である可能性が極めて高い。」

 恵美は眉を寄せ、端末の解析結果を指でなぞる。「日本画に精通している…そしてアズライトを使用している。これは、単なる画材の選択ではなく、犯人のルーツや教育の痕跡を示すキー情報になるわ。」

 片瀬は唇を噛みながら、顔料の組成表を見つめる。「天然顔料の使用は、誰もが入手できるものではない。修復や日本画制作に関わる専門家、あるいは過去に和画に携わった人物に限定される。ここから人物リストを絞り込めるはず。」

 蛇の目はこれらのデータを基に、全国の美術関係者、修復家、画材収集家などの人物データベースと照合を開始した。日本画の技術を修得している人物、アズライトや天然白・緑・黄土を常用する人物、過去に特定地域で展示・修復活動を行った履歴を持つ人物にフラグを立て、可能性の高い候補者をリスト化していく。

 数分後、端末画面には幾人かの候補者の名前が浮かび上がった。

 水野匡彦:京都在住、日本画修復専門、アズライトの収集歴あり。

 伊東美奈子:東京国立博物館所属、和画修復に従事、伝統顔料の研究者。

 小川亮:横浜在住、画廊経営者兼日本画技法指導、天然顔料収集家。

 中村智久:秋田県出身、伝統日本画家、過去に小坂鉱山産アズライトを使用。

 渡辺はリストを見つめ、冷静に分析する。「アズライトと和画の顔料の組み合わせが、これだけ希少な条件を満たす人物は限られる。ここから行動範囲や過去の接触履歴を精査すれば、修復家の特定に近づくはずだ。」

 秋山は頷き、静かに端末に指示を出す。「蛇の目、候補者の過去の展示履歴、画材購入履歴、公共施設での修復活動の記録と照合して、次の動きを予測せよ。修復家の行動パターンと潜伏場所の候補を抽出しろ。」

 恵美は画面を凝視し、言葉を絞り出す。「久美の死で物理的手掛かりは失われたけれど、顔料という化学的手掛かりが残された。これが次の捜査の羅針盤になるわね。」

 片瀬はため息をつき、冷静に端末のログを操作する。「天然顔料を使用するということは、犯人は過去の被害者や作品でも同じ手法を繰り返す可能性が高い。行動パターンも予測できる。」

 解析はさらに進み、候補者の行動範囲、過去の監修・修復現場、展示会出席記録、個人所有の画材履歴までが座標化される。蛇の目は、この情報を基に潜伏可能性の高い建物や地域を自動的にリスト化し、二課に提示する。心理的・地理的条件を組み合わせ、修復家の潜伏場所や次の標的の予測までを算出する。

 秋山は画面を見据え、静かに決意を固める。「これで久美の死で失われた情報を、化学的解析で補完できる。次は候補者を追跡し、潜伏場所を特定し、次の象徴的殺人を未然に防ぐ。」

 二課の面々は互いに頷き、重苦しい沈黙の中で、解析結果を胸に行動の準備を始めた。解析が生んだ化学的証拠は、失われた物理的手掛かりの代わりに、次の捜査への唯一の羅針盤となったのである。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ