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蛇の目/Conservator  作者: ふゆはる


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第十六話/限界値

 旧アトリエスクールに到着した恵美は、薄暗い廊下の奥で異様な静寂を感じた。埃とカビの匂い、長年放置された画材の匂いが混ざり合い、かつてこの場所が学びと創造の場であったことを思わせる。しかし、その空気は今、不可解な緊張で重く圧迫されていた。端末に映る座標は確かにここを指していたが、現場に立つとその予測が現実の衝撃に比べ、まだ冷たく理知的なものに過ぎなかったことを痛感する。

 廊下の奥、光の陰に小林和樹の姿があった。最初、彼は何かの影に座っているのかと思った。しかし近づくにつれ、その「姿」が生々しくも不可思議な光景であることが理解される。小林はもはや生者ではなく、カラヴァッジョの「病めるバッカス」を思わせる構図の中に完全に組み込まれていた。彼の体は静かに、しかし異常なまでに計算されたポーズで配置され、手には一房の葡萄が握られていた。葡萄の光沢、皮膚の微細な陰影、手足の角度に至るまでが、あたかも絵画の中の人物のように、過去の光と闇の対比の中に固定されている。

 顔には微かな苦悶の表情が残り、薄ら笑を浮かべていたかのような痕跡がある。死の静けさが空間を支配し、しかしその中に、生前の冷徹さと計算高さを感じさせる異様な知性の残滓が宿っていた。まるで死後も彼がこの構図を支配しようとしているかのようであり、その静止した姿がもたらす圧迫感は、課員たちの心理を一瞬で凍りつかせた。

 恵美は息を呑み、目の前の光景を受け入れながら冷静を保とうとする。小林の死は、群れの主導権の変化を即座に意味していた。蛇の目は小林がキュレーターであることを前提に、群れの指揮系統は彼側にあると推測していた。しかし、目の前の光景はその予測を根底から覆していた。死により、もしくは最初から、群れの支配者としての主導権は修復家、つまりConservatorに移行していたのである。小林がかつて群れをまとめていた支配的存在であったことは疑いようもない。しかし、死によって露わになった構造は、最初から修復家が本質的なボス猿タイプであった可能性を示唆していた。

 静寂の中、恵美の視線は小林の体と、その周囲に散らされた静物に止まる。彼の手に握られた葡萄、床に落ちた光と影、そしてカラヴァッジョの構図に忠実に再現された体の角度――すべてが修復家の冷徹で計算された意図を示していた。小林の死は偶発的なものではなく、計画された象徴行為の一部であると理解される。群れの中で、力の象徴としての小林の存在を物理的に消すことにより、修復家は指揮権を奪取し、さらなる象徴的行為に向けて心理的優位を確立したのである。

 課員たちの心理は複雑である。恐怖と嫌悪、悔恨と無力感、そして冷徹な計算に対する戦慄が混ざり合い、視覚的衝撃以上の精神的圧迫をもたらす。蛇の目は、死による指揮権の移行を予測していなかった。解析アルゴリズムはキュレーター側に主導権があると見込み、Conservatorの能力は補助的だと仮定していた。しかし現実は違った。修復家が群れの核であり、象徴的殺人の主導権を握る存在であることが、目の前の死体によって否応なく突きつけられた。

 恵美は端末を握り、冷静に解析画面を確認しながらも胸中では深い衝撃が波のように押し寄せる。群れの主導権、キュレーターと修復家の役割分担、象徴的犯罪の心理的意図……すべてを一度に理解しなければならなかった。小林の死は、情報としては確定的であるが、心理的には圧倒的な衝撃を伴い、群れの構造と犯人像の再構築を迫る。

 旧アトリエの薄暗い光の中で、恵美は深く息をつく。課員たちは静かに周囲を確認し、死体の記録と現場保存を進める。蛇の目の解析ログは、これまでの予測と実際の力関係の差異を赤く示す。画面上には「Conservatorが群れの指揮権を握る」「小林は死により補助的存在に変化」と明確に表示されており、課員たちにさらなる緊張感をもたらす。

 小林の死によって、群れの心理的構造は完全に変化した。Conservatorの意図と行動は、これまでのキュレーター中心の予測では捉えきれない複雑性を帯びる。課員たちは、恐怖と戦慄、そして冷静な解析を同時に抱えながら、次の行動の計画を練るしかなかった。静かに、しかし明確な圧迫感と緊張が、旧アトリエスクールの空間全体を支配していた。

 群れの主導権の変化は、象徴的殺人の連鎖と心理戦の新たな段階を告げる。蛇の目の予測を超えた現実、修復家の冷徹さ、そして小林の死によって明らかになった力関係……そのすべてが、科警研第二課に新たな焦燥と緊迫をもたらした。今、目の前にあるのは、単なる死体ではなく、象徴的な権力の移行と心理戦の始まりであった。


 秋山は課室の窓際に立ち、沈黙の中で蛇の目の解析画面を見つめていた。スクリーンに映る赤と黄色の座標、行動パターン、心理的予測ログ――それらは、単純なデータの羅列に見えるが、彼の経験眼には極めて複雑な心理戦の地図として映っていた。今回の一連の事象、小林和樹の死、群れの主導権の移行、そして修復家Conservatorの存在……それらを単純に整理しようとしても、全てを解き明かすことは容易ではなかった。

 連続殺人鬼の心理を熟知する秋山の視点からしても、今回の結果を自然に導くことは不可能であることは明白だった。理由は幾つか考えられた。第一に、そもそも小林が群れのボスとしての権限を持っていなかった可能性。第二に、修復家が予想を超えて行動し、群れの力関係を覆した暴走的な介入。第三に、あるいは別の未知の要素、つまり群れに介入する第三者の存在が影響した可能性。いずれも確定的ではなく、揺らぎが非常に大きい。

 課室の空気は張り詰め、二課の面々は静かに息を潜め、秋山の視線の先に集中していた。誰も口を開かず、ただその分析を静かに受け止める。その沈黙は、これまでの恐怖と緊迫を超え、今度は冷静さと戦慄の入り混じったものとして存在していた。

 秋山は深く息をつき、指先で端末を軽く叩きながら、低く静かな声で問いかけた。「山内は修復家足り得るのか、もしくは別の存在が居るのか?」

 問いかけの後、課室には再び静寂が訪れる。だが、その静寂は無意味ではない。蛇の目は、数秒の沈黙の後、瞬時に膨大なデータを再分析し始める。地理的行動パターン、心理的特性、過去の犯行手口のパターン、周囲の人物との接触履歴、群れ内での影響力……すべてが高速でクロス分析される。

 秋山はその動きを端末越しに見つめ、眉をわずかに寄せる。もし山内久美が修復家としての役割を果たす能力を持つとすれば、単なる計算型の行動ではなく、象徴的構図の再現、心理的操作、そして群れ内の主導権掌握までを自然に実行できるはずである。しかし、現状の観測ログでは、山内が直接的に主導権を握った形跡は明確には確認できない。

 課員たちは端末の解析表示を凝視する。赤い座標が瞬き、黄色の線が動き回る。蛇の目はすでに小林の死により変化した群れの力学を反映し、Conservatorの影響力を定量化しようとしている。だが、そこに「未知の存在」の可能性も示唆されることに、課員たちは無意識に息を呑む。解析が提示する可能性は、単なるデータ以上に、心理的圧迫を与えるものだった。

 秋山は視線をスクリーンに固定したまま、内部で論理の組み立てを続ける。小林は明らかにキュレーターとしての役割を果たしていたが、Conservatorの修復家が彼の死を通じて主導権を奪取した。もし山内がその修復家であるなら、群れの行動パターン、象徴的行為の再現、心理誘導の全てを一貫して制御しているはずである。しかし、その証拠はまだ不十分であり、蛇の目もその可能性を完全に確定できていない。

「……揺らぎが大きすぎる」秋山は自らに言い聞かせるように呟き、口元に手を当てる。揺らぎの大きさとは、つまり予測と現実の間に存在する不確定性の幅であり、今回の事件の異例性を示す指標でもあった。小林の死は解析上の定量に影響を与えたが、心理的要素、象徴的意図、そして未知の変数――これらが複雑に絡み合い、単純な因果では説明できない事態を生んでいる。

 秋山は端末に手を置き、画面に映る座標群と群れ内相関の可視化を眺める。蛇の目は無言のまま再解析を進め、山内が修復家として足り得るのか、それとも別の存在が暗躍しているのかを、膨大なデータと推論アルゴリズムで弾き出そうとしている。赤と黄色の線が交差し、観測対象の行動予測が次々に更新される。

 課室には緊張が充満し、誰も声を上げることはできない。心理的圧迫は沈黙の中で静かに増幅し、秋山の問いかけがもたらす重みを課員たちに確実に伝える。解析が明確な答えを示すまでは、全員がその緊張に晒され続けることになる。

 秋山は深く息をつき、冷静な目で端末を見つめた。蛇の目が次のログを吐き出すまでの間、この静寂は、彼にとっても課員たちにとっても、次なる行動への心理的準備と情報処理の時間でしかない。山内が修復家であるのか、別の存在が群れに影響しているのか――答えはまだ提示されていないが、秋山は既に次の行動の組み立てを始めていた。



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