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蛇の目/Conservator  作者: ふゆはる


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第十五話/病めるバッカス

 ◆蛇の目・地理的プロファイルログ

 対象:小林和樹(35)/山内久美(28)

 分類:消失後捜索用・地理的プロファイリング(G.P.-03 ver.β)

 出力形式:長文解析ログ

 ――観測が途絶したのは、同時刻だった。

 二名は互いに通信機器を保持していたが、電源断ではなく「蛇の目の網」からの意図的離脱が示唆される痕跡が複数あった。

 建物反射波、微弱電磁ノイズ、歩容データ。

 そのすべてが“外に出た”のではなく“どこかへ吸い込まれた”ような形跡を残し、以降の観測は完全に暗転した。

 蛇の目はまず、二名の行動履歴と心理傾向から“安全圏”の抽出を開始した。

 安全圏とは、犯行準備・潜伏・心理的退避・計画の詰めの場として使用しうる地点の予測であり、対象者の生活圏・心理的安心度・移動実績・地形的利点などを加味して算出される。

【1】小林和樹:推定安全圏

 小林の行動は、表層的には社交的・調整役として機能していたが、本質的には“群れの上下関係によって動く自我の配置”を必要とするタイプだった。

 ボス猿気質と呼ばれるが、それは攻撃性ではなく“序列を保証する環境”を求める傾向である。

 したがって、小林にとっての安全圏は以下の条件で抽出される。

 自分が他者より優位に立てる

 もしくは、自分の価値を再確認できる場所

 密室ではないが、周囲の視線を限定的にコントロールできる

 既存の人間関係がそのまま働く、あるいは上下関係をやり直せる空間

 人が集まるが、誰も核心に触れない「ゆるい群れ」が成立している場所

 蛇の目がこれらを地域データ・行動履歴と突き合わせた結果、

 **小林の安全圏は“都市周辺部のコミュニティ施設・サークル拠点・古い喫茶店やバーの常連空間”**に集中した。

 具体的には、彼が“一度は辞めたが今でも気になる”と記録された、数件のアート系サークル、共同作業スペース、文化系のレンタルルーム。

 そこには“小林が序列にいられて、かつ逃げ場にもなる”特性が共通している。

 特筆すべきは、これらの施設には必ず“壁や展示スペース”があり、そこにアート作品が貼られる傾向がある点だった。

 蛇の目は、この「壁を持つ空間」を優先順位上位の安全圏として補足した。

 理由は単純。

 絵画殺人と関わる可能性がある人物は、作品を壁に置くという行為に安心感を覚える――それが既存の統計から見えるからだ。

【2】山内久美:推定安全圏

 山内久美は“小林の群れ”の中にいたが、上下関係に従属すること自体を求めていたわけではなかった。

 むしろ、観測データ上では山内の心理は“居場所の確保”が優先であり、序列への依存は薄い。

 小林がボス猿タイプだとしても、山内にとっては“居心地の良い音量で話すリーダー”的な役割でしかない。

 つまり、小林の存在は山内の安全圏を“補完”するが、“決定”はしない。

 山内の行動データから導かれた安全圏条件は以下。

「ひとりでも居られるが、誰かもいる」中間的空間

 美術・手芸・創作系の物品が置かれている場所

 長時間滞在しても注意を向けられない環境

 昔の記憶と接続しやすい、少し古びた場所

 新しい人間関係より、慣れた空間を優先

 蛇の目は、これらの条件を空間データと交差させた結果、

 **“小さな図書室、ギャラリー、使われなくなった市民センターの創作室、郊外のカルチャースクール跡地”**などを高順位候補として抽出した。

 さらに山内の場合、“身を隠す”という発想よりも“静かな場所に引き寄せられる”傾向が強いため、

 無意識に“絵を見る・作る・触れる”場所へ向かう可能性が上がった。

【3】二名の合流地点としての安全圏

 二名が「共同して消えた」のか、「片方がもう片方を引いた」のかは現時点で不明。

 ただし蛇の目は、二名の行動傾向が“正反対でありながら、一部だけ重なる点”に注目した。

 小林の“群れと序列”

 山内の“静かな創作空間”

 この二つが重なる場所はそれほど多くない。

 蛇の目の解析結果としては、

 “展示可能な壁のある、小規模かつ人の少ない創作系の空間”

 ――ここが二名の共通安全圏として最も確率が高かった。

 つまり、

「ほとんど人が来ないが、芸術作品が置ける広さがある場所」

「小林が“場の序列”を獲得でき、山内が“創作的な安心感”を得られる場所」

「二人が外部から見えず、蛇の目の観測を妨げるほどの電波遮蔽が自然に生まれる構造」

 候補群は都市郊外に集中し、その中でも廃業したアートスクール、旧ギャラリー、文化教室跡の三ヶ所が上位として浮上した。

【4】二人の行動予測

 二人がここで何をするか。

 蛇の目は次の三つの可能性を同確率帯で提示した。

 逃避/潜伏

 小林の“序列回復”、山内の“静かな場所”への回帰が一致した結果としての単純な避難。

 共犯関係の形成

 小林がキュレーター的資質、山内が創作的資質を持つ場合、

 “絵画殺人”において複数犯の可能性が浮かび上がる。

 誰かを待っている

 二名の心理は“迎える場所を整える”方向に傾く可能性が見られ、

 これは犯行計画における“舞台の準備”と一致する。

 蛇の目は、これら三点を総合し、行動予測パターンを生成した。

 結論として、

「二人は、アート系の閉鎖空間で“何かを待つ”可能性が最も高い」

 と算出された。

【5】地理的プロファイル最終マップ(文章化)

 蛇の目は地図データを数値化し、“文章地図”として出力した。

 ――都市中心から東に17km、古い工業団地に隣接する文化センター跡地。

 木造平屋建て、遮光フィルムが貼られた窓、外部電波の減衰率68%。

 内部に残存する展示パネル12枚。

 通気ダクトは古いが稼働し、人影の痕跡が二度確認されている。

 この地点が、現時点で“最も二人の心理と行動に合致する潜伏地”となる。

 次点は、

 市街南部の閉鎖ギャラリー(電波遮蔽率72%・壁面保存良好)、

 北部郊外の旧アトリエスクール(昼でも人が来ない区域)、

 この三つ。

 蛇の目はこれらの地点を「最優先接触ポイント」として抽出し、

 二課に対して即時調査を推奨するログを送信した。

 旧アトリエスクールの位置情報が蛇の目の地理的プロファイルに浮上した瞬間、二課の空気が変わった。

 まるで部屋の温度が一度下がったような、息を飲む音すら響く静けさ。

 誰もが無言でうなずき、端末を掴むと一斉に動き出す。

「三班に分かれる。いいな。」

 短い指示に全員が即座に散る。

 廊下を駆け抜ける足音が重なり、階段を降りる金属音が跳ね返り、

 建物全体が巨大な脈動を始めたかのようだった。

 ログに示された地点は三つ。

 それぞれが小林和樹と山内久美が潜む「安全圏」であり、

 蛇の目が弾き出した行動予測の“最大収束点”だった。

 *

 秋山の車は、誰よりも速く目的地へ滑り込んだ。

 廃倉庫群の突き当たり、真新しい南京錠。

「違うな……」

 鍵は替えられておらず、埃の層もそのままだ。

 扉を開けても、空気は冷えたまま静止していた。

「空振りだ。次を当たる。」

 通信に返るのは短い了解だけ。

 *

 片瀬と渡辺も、指定された古いマンションへ。

 外廊下の端、黒ずんだ鉄の扉。

 片瀬が息を抑えてノックし、渡辺が背後で身構える。

 返答はない。

 慎重に開け放つと、部屋の中には何もなかった。

 生活の痕跡も、熱の名残すらも。

「……外れ。ここも違う。」

 片瀬が小さく吐き、渡辺が舌打ちを飲み込む。


 旧アトリエスクールの廊下は、時間そのものが湿気となって染み込んだような臭いを放っていた。かつて子どもたちが絵筆を走らせていたであろう白い壁は、黄ばみ、剥がれ、ところどころ水を含んだ布のように波打っている。恵美は懐中電灯を胸元で押さえ、階段をひとつひとつ確かめるように上っていった。蛇の目が弾き出した地理的プロファイルによれば、この建物は「安全圏」「視線からの遮断」「対象との旧縁」という三つの指標が高く、二人が潜伏、あるいは“処理”される地点として最も濃厚な場所とされた。

 しかし恵美がここへ踏み込んだのは、単にプロファイルに従ったからではない。どこか、言葉にできない気配が引き寄せたのだ。そこには、犯人の手触りのようなもの——歪んだ美学、静かな残酷さ、作品としての死体を扱う冷たさ——が沈殿している気がした。

 三階に上がると、かつてアトリエとして使われていた大広間に続く扉が半開きになっていた。風は吹いていない。なのに、わずかに揺れているようにも見えた。恵美は息を整え、手袋を確認し、一気に扉を押し開けた。

 その瞬間、鼻腔を刺すのは血の臭いではなく——油絵具と古いカンバスの乾いた匂いだった。照らした光が部屋の中央を捕えたとき、恵美は一瞬、自分が何を見ているのか理解できなかった。なぜなら、それは“絵画”としてあまりに完成していたからだ。

 部屋の中心に置かれた古い木製の椅子。その上に腰かけるように配置されたひとりの男。背筋はわずかに曲がり、首は傾き、左腕はだらりと垂れ、右手には葡萄の房が握らされていた。光の当たり方を計算したかのように、男の肌はところどころ青白く、ところどころ洪水のような鬱血で赤黒く変色している。頬のこけ方、唇の乾ききった裂け目、そのすべてがまるで “病的な美” を演出するために計算されているようだった。

 そして、恵美は気づいた。

 これは——カラヴァッジョの《病めるバッカス》の姿勢だ。

 男の顔をライトが照らし切ったとき、ようやく、意識が追いつく。男の名は小林和樹。つい数時間前まで、彼は消えた山内久美の関係者として追われていたはずだった。しかし今、彼は不可逆なかたちで“完成している”。この姿勢、葡萄の配置、皮膚の変色、強制的に作られた弛緩——これは偶然ではない。犯人は明確に理解している。人体を、死を、絵画に見立てる技術を。

 恵美は一歩、また一歩と近づいた。足元には油絵具の飛沫がこびりついた古い床板。その上には、不自然に新しい跡が点在している。血の滴りではなく、絵筆を洗った溶剤の痕跡。つまりここで、犯人は“作品制作”を行っていたのだ。

 小林の左胸には裂創があり、そこからの出血はほとんどない。心臓が停止した後に施された切開。死後操作だ。皮膚の一部は薄く削がれ、古い絵画の欠損を埋める修復作業のように、部分的な色調が人工的に調整されている。肌表面には薄くオイルが塗られ、照り返しをコントロールしている。犯人は単に殺したのではない。殺した後に、絵画としての“見せ方”を作り上げている。

 そして、右手に握られた葡萄——その粒のいくつかには血が滲み、床に落ちた数粒は乾き始めていた。葡萄を握らされたのは死後硬直が進む前だ。時間操作の痕跡もはっきりしている。死体を“素材”として扱う技術、そして絵画史への深い理解。蛇の目が警告した「実行犯=Conservator(修復家)」の存在が、目の前の現実として冷たく立ち上がる。

 小林の瞳は開いていた。だが、そこには恐怖の色はない。むしろ、何かに酔ったような、諦念の影が漂っていた。拒絶の痕跡はなく、抵抗した形跡もほとんど見えない。麻酔か拘束か、あるいは心理的に誘導され、静かに“作品化”された可能性すらある。

 恵美は、ふと周囲を見回した。壁際には捨てられた額縁、剥がれた絵画の下地、古びたスケッチブック。そこに描かれた落書きのようなデッサンは、いずれも人体の比率を狂わせた奇妙なスケッチであり、死体のポージング研究のようでもあった。その隅に、ひときわ目を引く黒いシートがたたまれている。そこには、まだ乾ききらない油絵具の匂い——あるいは血の匂いが混ざっていた。

 そして、足元で何かがかすかに揺れた。恵美がライトを向けると、床にはひとつの小さな紙片が置かれていた。そこには印刷された文字と、手書きの走り書きがあった。

 《Curator が選び、Conservator が仕上げる。それが作品だ。》

 恵美は息を呑む。

 小林は“Curator(選ぶ側)”として利用され、そして捨てられたのか。

 ならば“仕上げ(Conservator)”を行ったのは誰なのか。

 山内久美は、どこに行ったのか。

 そして——次の作品は、どこに生まれるのか。

 恵美の手が震える。その震えは恐怖ではない。怒りでもない。目の前の死が、あまりに“美術として正確”であることへの、言葉にできない戦慄だった。この殺人者は、ただの連続殺人鬼ではない。“作品”の概念を殺人に接続する存在。否——殺人を作品に接続する存在。

 恵美は小林の冷たい手元に目を落とし、葡萄の房がわずかに揺れたように見えた。風は吹いていない。にもかかわらず、どこかで誰かが見ている——そんな視線だけが、この空間を満たしていた。

 その視線の正体を突き止めるまで、この事件は終わらない。

 そして、恵美は悟る。

 これは始まりなのだと。

 “作品”は、まだ増えるのだと。

 この死は、たった一枚目のキャンバスに過ぎないのだから。

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