第十四話/群れ
会議室の空気は、重たい湿度を帯びた沈黙で満たされていた。
蛇の目から送られてきた“監視対象消失”アラートは、まるで不吉な鐘の音のように、全員の胸を不安に揺らし続けている。
ホワイトボードの前に立つ恵美が、深呼吸のあとに口を開いた。
「……状況を整理します。
小林和樹、および山内久美――両名が蛇の目の追跡システムから同時に離脱。
これは偶然ではあり得ません。誰かが意図的に監視を切り離したか、もしくは二人が何らかの方法で“蛇の目の網をくぐった”としか考えられません」
片瀬が眉間に皺を寄せたまま、腕を組む。
「蛇の目の網をくぐるって……あれ、都市圏の監視網、ほぼ全域をカバーしてるでしょ? 一般人がそんなこと、できるわけないわよ。
なんなのよ、小林……あいつ、ただのキュレーターじゃないの……?」
渡辺が苦々しい表情でメガネを押し上げた。
「“ただの”じゃないんじゃないですかね。
蛇の目のログを見る限り、山内との接触は明らかに計画的だ。
しかもあの会話……まるで彼女を誘導しているようだった。
――修復家を、ね。」
恵美が静かに続ける。
「蛇の目は、小林を“Curator”として位置づけ、
対になる“Conservator(修復家)”の存在を示唆しました。
つまり――小林は誰か“実行犯”と組んでいる可能性が高い。
そして山内久美は、その実行犯の候補に挙げられている」
「だからって、二人一緒に監視網から消えるなんて……」
片瀬が吐き捨てるように言うと、秋山室長が机を軽く叩いた。
「まず、落ち着け。
蛇の目の観測が完璧でないことは前々から分かっている。
死角は存在する。回避方法も、理論上はある。
問題は――二人が、《なぜいま消えたか》だ」
渡辺が資料をぱらぱらとめくりながら呟いた。
「絵画殺人の“次の段階”……そう考えるべきでしょうね。
小林がCuratorとして企画を立て、実行犯のConservatorが遺体を“作品化”する。
今回の連続事件は、一種の……アート展示なんだ」
片瀬が椅子を蹴りそうな勢いで身を乗り出した。
「ふざけないでよ。アートの名を借りただけの、最低の殺人よ!」
秋山が頷きつつ、冷静に言葉を返す。
「だが奴らにとっては、“作品”だ。
そう考えない限り、行動原理を読み解けない。
――蛇の目が算出した、山内久美の追加プロファイル。
あれが鍵だ」
モニターには蛇の目の出した山内の分析結果が表示されている。
高精度の手工芸技術
絵画の劣化修復に関する知識
化学薬品の取り扱い
冷却・保存技術の経験
過去、複数の美術品ボランティアに登録
片瀬が、その項目を目で追いながら唇を噛んだ。
「……“修復家”としては、完璧じゃない。
でも“人体を素材にした作品の維持”をやるなら……十分」
恵美が小さく頷いた。
「だからこそ、蛇の目は二人を“ペア”とみなした。
キュレーターとしての小林。
修復家としての山内。
――そして今、二人が一緒に消えた」
渡辺が静かに質問する。
「小林が山内を“守った”可能性は?
彼女が殺される立場だったから……。
事件に巻き込んでしまった罪悪感とか」
恵美は首を横に振る。
「蛇の目の解析では“誘導”。
感情ではなく――構成要員として最初から組み込んでいたと判断されている。
もし彼女が単なる被害者なら、こんな消え方はしない。
これは“次の展示”への移行よ」
空気がしんと冷えた。
室長が深く息をつき、椅子の背に体を預けた。
「問題は、どこに行ったかだ。
奴らは都市圏監視から外れた。
ということは――」
渡辺が言葉を継ぐ。
「“蛇の目が見えない場所”。
つまり、あらかじめ隠してあるアジトか、強制的に死角を作る設備か」
片瀬が口を開く。
「死角って……そんなブラックボックスみたいな場所、都内にある?
それとも、地下? 廃施設?
それこそ今回の遺体が見つかった廃校とか」
恵美は山内の行動パターンと地理的プロファイルを照らし合わせた地図を机に広げた。
「蛇の目の推定行動域……死角の可能性があるのは三ヶ所。
旧都内貯蔵施設
廃ビル群の冷却エリア
そして――」
部屋が静まり返る。
秋山室長が言葉を継いだ。
「行くぞ」
片瀬が立ち上がった。
「じゃあ行くしかないじゃない!」
恵美が片瀬を制するように手を上げた。
「待って。
まだ確証がないし、罠の可能性もある。
二人が“蛇の目の死角に消えた”ということは――
蛇の目を逆手に取る術を持っているということ。
突入したら、こっちが狩られる側になる」
渡辺が小さく笑った。
「……さすがに、ヤバい相手ですね。
警察相手に“監視逃れ”なんて、普通の市民じゃできない」
秋山が言う。
「小林はキュレーターとして“全体の構図”を描いている。
その中に我々も含まれている可能性がある。
作品の観客――いや、犠牲者として」
恵美がホワイトボードに一つの円を描いた。
「私たちは、
小林和樹の“企画展”の中にいるのかもしれません。
山内久美という修復家を伴い、いま“次の展示”へ向かった。
蛇の目が見えない場所で――」
片瀬が呟く。
「……また誰かが“作品”にされるってこと?」
恵美は表情を固くしたまま、はっきりと答えた。
「ええ。
最悪の形で、ね。
だからこそ急がなきゃいけない」
秋山室長が立ち上がった。
「いいか、二課。
――これは時間との戦いだ。
蛇の目を補助に使いながら、死角を一つずつ洗う。
だが突入は慎重に。敵は我々の動きを読んでいる。
“観客席”に座らされる前に――こちらが舞台をひっくり返すぞ」
その言葉に、全員が無言で頷いた。
しかしその沈黙の奥では、
誰もが薄々感じ始めていた。
――小林和樹と山内久美の“消失”こそ、
敵の本当の開幕宣言なのだと。
会議室には緊張が張りつめ、全員の視線がモニターに映された蛇の目の最新ログに吸い寄せられていた。
小林和樹と山内久美が“監視網から同時に脱落した”という報告が、状況を一気に別の局面へと押し上げていた。
静寂のなか、まるで誰もが同じ疑問を飲み込んだまま、代わりに資料をめくる音だけが響く。
二人の関係性についての考察はすでに議論したはずだった。
小林の周辺人物から山内が浮上し、蛇の目の観測によって会話ログまで再構築され、
“心理的な主従関係の兆候”は確かに読み取れた。
小林が群れのボス猿のように周囲を掌握するタイプなのは確か。
支配欲が強く、他者の行動を無意識に誘導し、周辺人物はその圧力に従いやすくなる。
山内がその圧力の影響下にあった可能性は高かった。
しかし、決定的な証拠は一つとして提示されていない。
蛇の目が再三繰り返した通りだ。
“小林がボスであるという確定材料はない。
修復家(Conservator)がそこに介在する場合、力学は再構成される。”
修復家は“破壊の後に秩序を与える者”であり、
アートキルにおける実行犯の役割はしばしば“主導者”と一致する。
もし実行系の操作を行う修復家が別に存在するなら――
小林は指示者ではなく、むしろ“誘導された側”ですらあり得る。
ここまで検討した仮説は、すべて揺らいでいた。
誰かが資料を机に置く音が響き、焦りの気配が広がる。
「二人の関係は、結局どちらとも言えない。」
その言葉は会議室に沈んだままの空気をさらに重くした。
支配していたのか、依存していたのか。
利用していたのか、利用されていたのか。
それとも互いに共犯で、絵画殺人を実行する“コンサビエーター(修復家)”を、
第三の人物として内部に抱えていたのか。
可能性が多すぎる。
それに――
二人が同時に姿を消したという事実は、
“どちらかがどちらかを誘拐した”では説明しづらい。
蛇の目の監視網を完全に消去するには、
外部からの技術的介入、または専門知識を持つ人物の協力が必要だった。
つまり、二人の失踪は“自発的かつ計画的”である可能性が高い。
だとすれば、すでに「ふたりで行動する理由」が存在していたということになる。
しかしその動機は、まだ影のままだ。
会議は徐々に、議論から苛立ちへと形を変えていく。
誰かが資料をめくる手を強く握りしめ、
誰かがペン先を机に打ちつけるようにして考え込んでいる。
“蛇の目の観測でも手がかりが出ない”
この現実は、科警研第二課にとって最大級のストレスだった。
それでも結論はひとつしかない。
――小林和樹と山内久美の所在を確保する。
――二人がなぜ同時に姿を消したのかを突き止める。
――そして絵画殺人の実行犯、つまり“修復家(Conservator)”へ辿り着く。
会議室の空気が、ようやくひとつの方向へまとまり始める。
「探すしかない。」
その一言がまるで号令のように、全員の視線を上げさせた。
混乱も、苛立ちも、恐怖も、
すべては現場で回収するしかないのだ。
蛇の目が観測できないというなら――
人間が足で追うしかない。
重い椅子の軋む音、資料をまとめて立ち上がる音、
それらが連鎖のように広がる。
全員が同じ方向へ歩き出す、そんな空気が会議室を満たしていく。
二課の面々は、
もはや小林と山内の“関係性”という抽象的な議論ではなく、
“二人が今どこにいるのか”という一点に意識を集中させていた。
蛇の目でも観測できない場所――
それはすでに、犯人側の領域である可能性すらある。
ここから先は、
デスクの前ではなく、現場にしか答えは存在しない。
会議室を出る最後の瞬間、
誰かが低く呟いた。
「ボス猿がどっちかなんて、もう関係ない。
どっちが操られていようといまいと……
“二人とも”獣の匂いがする。」
その言葉は、扉が閉まると同時に重く沈んだ。
そして第二課は、再び闇の中へ踏み込んでいった。




