第一話/微笑み
廃墟となった足立区の小学校。壁は苔や落書きに覆われ、割れた窓ガラスから冷たい風が吹き込む。廊下には埃が舞い、踏み込むたびにギシギシと床が軋む音が響いた。三人の若者が懐中電灯を手に、ゆっくりと中を進む。
「……本当に、入っていいのかな」
夏樹は入り口で足を止め、薄暗い校舎を見回した。胸の奥がざわつき、心拍が早くなる。彼は冒険心よりも、何かよくないものに触れる恐怖の方が勝っているのを感じていた。
「大丈夫だって。鍵もかかってないし、もう何年も人は来てない場所なんだから」
美月は手すりに沿って軽やかに歩きながら言った。初めての廃墟探検に少し興奮している様子だが、その笑顔の奥には緊張も隠れていた。
「でも……ちょっと怖くない?」
陸はカメラを首からぶら下げ、ぶつぶつとつぶやく。映像に残すことが目的だが、暗く湿った廊下の雰囲気が徐々に彼の好奇心をすり抜け、恐怖を刺激していた。
三人は廊下の奥へ進む。壁にはかつての落書きが色あせて残り、床にはガラスの破片や埃が散乱している。古い教室のドアのひとつが半開きになっていて、奥から微かに光が反射しているのに気づいた。
「ねえ……あれ、何?」
美月が声を潜めて近づく。懐中電灯の光が机の上に置かれた布を照らす。中には、人の形をした何かが包まれている。
夏樹は息を呑み、手が震えながら布に触れた。
「……うわ……!」
布をめくると、そこにはまるで絵画から抜け出したかのように整えられた姿勢の遺体があった。モナ・リザを模したような微笑みを浮かべ、手は胸の前で組まれている。まるで静かにこちらを見つめているかのような表情に、三人の胸は一斉に締めつけられた。
陸の手はカメラのストラップを握りしめる。声が震え、ほとんど囁きのように漏れた。
「これ……人だよな……?」
美月は息をのむ。目を逸らそうとするが、足がすくんで動かない。
「なんで……どうして……こんな……」言葉にならない恐怖が喉を塞ぐ。彼女はこの廃墟に足を踏み入れた瞬間の軽い好奇心を後悔していた。
夏樹は震える手を懐中電灯から離せず、目を逸らせない。心臓が喉元まで上がってきたような感覚に襲われる。内心、逃げ出したい気持ちと、事実を確認しなければならない責任感がせめぎ合う。
「……写真、撮る?」陸が震える手で聞く。
美月は必死に言い聞かせるように首を振った。
「やめよう……今は、通報だけ……」スマホを取り出す手も震えている。
三人は互いに目を合わせた。恐怖と混乱、そして胸の奥にうずく好奇心が入り混じる。廃墟の静寂が、彼らの鼓動を一層大きく響かせた。
「……こんな場所で……、どうしてこんなことが……」美月の声がかすかに震える。
夏樹はうつむき、わずかに唇を噛んだ。頭の中で思考が渦巻く。何者が、どうしてこんな形で……?そして、もしまだ犯人が近くにいるとしたら、自分たちはどうなるのか。恐怖が、理性を少しずつ蝕む。
陸はカメラを構える手を再び握りしめるが、レンズを向けることができない。恐怖で体が硬直し、映像に残すことすら忘れていた。
三人は、冷たい廊下の中で互いの存在を頼りにしながら、ついにスマホで警察に通報した。外の世界では、何事もない夜が静かに流れているのに、この廃墟の中では、三人の心に永遠に刻まれる“異形の微笑み”が存在していた。
美月が震える手で通報を終えた瞬間、三人の間に重苦しい沈黙が落ちた。
廃校の薄暗い廊下はまるで息を潜めた巨大な獣の喉奥のようで、三人はその中にぽつりと取り残されている。
「来るって……すぐ来るって言ってた……」
美月はそう言いながらスマホを胸に抱きしめる。声の震えが止まらない。
夏樹は教室の入口に目を向けた。モナ・リザの微笑みを模したあの“顔”が、扉越しにこちらを見ている気がしてならなかった。背筋がひどく疼き、喉が乾く。
「ここに……いよう。動かないほうがいい……」
夏樹はそう提案するが、それは自分自身を落ち着かせるための言葉でもあった。
陸は膝を抱えて座り込み、深呼吸を繰り返していた。
「こんなの……テレビとか映画の中だけだろ……なんで、俺たちが……」
外から突然、タイヤが砂利を踏む音が響いた。
その瞬間、三人は一斉に顔を上げる。
廃墟の静けさを引き裂くように、パトカーのサイレンが断続的に響き、赤と青の光が割れた窓ガラスを揺らす。
校庭に誰かが叫ぶ声、走る足音、無線の雑音。
現実の方が映画よりも速く迫ってくるということを、三人は初めて知った。
「警察です! 誰かいますか!」
懐中電灯の光が廊下に差し込み、巡査二名が姿を見せた。
「僕たちです……!」
夏樹が振り絞るように声を出し、三人は立ち上がる。
巡査が状況を確認し、教室の中を照らした瞬間、息を呑む音がはっきり聞こえた。
「……これは……すぐ増援を!」
無線が開き、緊迫した声が飛び交う。
「事件性極めて高い。鑑識、急行願います。周辺警戒を――」
三人はその場に立ち尽くしていた。
警察官が増え、廃校は一瞬で“事件現場”へと姿を変えていく。
外ではライトがさらに増え、三脚や機材が運ばれ、青白い光が廊下の闇をかき乱した。
鑑識が白い防護スーツを身につけながら現れた。
ゴム手袋が張りつく音、金属が触れ合う音、記録係がメモを走らせる音――
それらが淡々と進むほど、三人は自分たちがとんでもないものを見つけたという実感に押し潰されていく。
「被写体、顔面確認……」
鑑識員がライトを当てた瞬間、誰かが小さく息をのんだ。
「……このポーズ……絵画か?いや、再現度が異常に高い……」
「表面処理……なにか塗られてる? いや、これは……」
美月はその声を聞きながら、歯がカチカチ震えるのを必死に押さえた。
「あの人……どうして、笑ってるの……」
思わず漏れた美月のつぶやきに、夏樹は返す言葉を見つけられない。
陸は、抱えてきたカメラに目を落とした。
「……撮らなくて良かった……もし撮ってたら……俺、一生……」
最後まで言い切れず、額を両手で押さえ嗚咽を飲み込んだ。
鑑識は淡々と作業を続ける一方、明らかに異常な遺体に戸惑っていた。
「衣服の配置が……徹底されてる。造形物の展示みたいだ……」
「犯人、時間かけてるぞ。儀式的だな……」
その言葉が三人の胸に重く落ちた。
犯人という“存在”が初めてリアルな脅威として立ち上がる。
そこに、初老の刑事が現れた。
深い皺を刻んだ眉間の下には、淡々としたが光の強い目がある。
この現場を一目で察したように歩み寄り、鑑識の報告に耳を傾ける。
それから、三人の方へ向き直った。
「発見したのは君たちだね。悪いけど、いくつか聞かせてもらう」
三人は並んで座らされた。
ライトの光は眩しく、目の奥がじんじん痛む。
「どうしてここに?」
「遺体には触らなかった?」
「誰か他にいたか?」
刑事の質問は淡々としているが、声の奥に“これはただの殺人ではない”という警告があった。
美月は震えながら答える。
「ただ……探検しに……来ただけで……」
「ほんとに、何もしてません……」
夏樹は俯きながら、布をめくったときの感触を思い出してしまう。
あの冷たさ。
あの人工的なまでの整い方。
「……見るつもりじゃ……なかったんです……あんなものだと思わなかった……」
陸の声はもはや壊れかけている。
「……犯人って……まだ近くにいたり……しない、ですよね……?」
刑事は少しだけ間を置き、ゆっくりと答えた。
「……状況によるが、可能性は否定できない」
その言葉に、三人の心臓が一斉に跳ねた。
廃墟を吹き抜ける風が、まるで背後に誰かが立っているかのように冷たい。
その時、刑事の無線が鳴った。
『科警研第二課に連絡。例の“型どり事件”との関連、極めて高いと思われます。至急、担当者を――』
廃墟にいた誰もが動きを止めた。
その言葉の意味を完全に理解できた者はいなかったが、三人は直感的に理解した。
――これは、連続事件だ。
――そして自分たちは、その幕開けに居合わせてしまった。
美月の目に涙がにじみ、陸は震えすぎて立ち上がれず、夏樹はただ無言で唇を噛んだ。
人生の“安全圏”が、ここで崩れた。
三人はその瞬間を、生涯忘れないことになる。




