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昔の思い出にいつまでも浸って生きていくなんて、
まったく馬鹿げているし、もう会うこともない人をい
つまでも思い続けるなんて、そんなのありえない。
あの日以来、僕はずっと前を向いて歩いてきたし、男
としても社会人としても前とは比べ物にならないくら
い成長出来たと自負している。
それでも今日一日だけは、歩みを止めて何も考えずゆ
っくり休みたい、そんな気持だった。
願わくは、今日はウイークデイであってほしかった。
そうであれば、何も考えずに仕事に集中できたし、家
に戻ればそのまま眠るだけで、今日という日は終わっ
てくれたはずだった。
しかしあいにく今日は週末で会社が休みだったので、
憂鬱な時間は朝からたっぷりあった。
僕は、テレビはつけていたけれど画面に集中すること
は無かたし、食事をとることも無く、仰向けになって
ただ真っ白な天井を見つめていた。
何の変化も無い世界を永遠に眺め続ける。
手も足も、その瞳すらも動かすことも無い、ただ生存
するためだけに身体の細部にまで栄養分を行きわたら
せる、植物みたいに。
しかしよくよく考えてみると、自分でエネルギーを作
り出せる分、植物の方がはるかに優れていると言えた。
今の僕は、ただゆっくりと時間が過ぎるのを感じてい
るだけで、何を生み出そうともしていないのだから。
‘そういえば、玲菜は花を見るのが好きだった’
ぼんやり天井を眺めていると、昔の思い出が蘇ってくる。
あの公園では季節によって、数種類の花を見ることが
出来た。
玲菜はいつも花の図鑑のような本を持ち歩いていて、
実際の花と本とを見比べては楽しそうに僕に話してく
れていた。
「ねえ尚人、これ見て。」
丁度ピンク色の羽をした蝶がたくさん集まって出来た
ような、きれいな花の前で玲菜は僕を呼ぶ。
「クレオメって言うんだよ。すごくかわいい。」
僕には花の事は良く分からなかったけど、いつも楽し
そうに話す玲菜を見ているのがとても好きだった。
「あっ、ユーチャリスが咲いてる。」
そう言って彼女が向かった先には、五、六枚の純白の
花びらを優雅に広げた花が咲いていた。
「これはね、結婚式の時のブーケに使われる花なんだよ。
花言葉は‘清らかなこころ’。」
真っ白で濁ることの無い清潔さ、まるで玲菜みたいだ
と思った。
「清らかな心か・・、俺みたいだ。」
「はぁ?」
玲菜は呆れた表情を浮かべた後、少し何かを考えたよ様
な素振りで続ける。
「尚人は・・、ジギタリス。」
「何、それ?」
「ピンクとか紫のきれいな花よ。花言葉は・・、不誠実。」
そういうと玲菜は、いたずらっぽく戯けて笑う。
玲菜は普段、とてもおとなしく控えめな性格ではあった
けれど、一緒にいる時間が増えるにつれて楽しそうに笑
ったり冗談を言ったりと、元気で活発な姿も見せるよう
になっていった。
それは僕の知る限り、僕の前だけに現れる玲菜の新たな
一面だった。
ぼくは、馬鹿げていてもこうやって昔の思い出に浸りな
がら、今日という日は過ぎていくのだろうと思っていた。
あのメールが届くまでは。