定時退社したら、魔法少女のバトルに巻き込まれましたが、素手で異能を片づけました。
月曜日、午後六時。
オフィス街の片隅で、ひとりの男がゆっくりと玄関を出てきた。
「……お疲れさまでした」
誰に言うでもなく、小さく呟く。
顔は地味で冴えず、整髪料の気配すらない黒髪。
着ているスーツは少しだけ肩が落ちていて、皺も多い。
いかにも「そのへんの中間管理職」といった風貌だ。
男の名は、久住修一、三十五歳。
とある小規模システム会社の経理部員。
声も小さく、昼休みの雑談にも加わらず、ひたすらパソコンと帳簿を見ている男。
派遣社員から「何してる人かわからない」と評判の男。
だがこの男には、誰にも知られていない“もう一つの顔”があった。
──とはいっても、彼自身はそれを語らない。
ただ、黙って、静かに、帰宅するだけ。
カツ、カツ、カツ、と革靴の音が夜の街に小さく響く。
その帰り道。
久住はふと、足を止めた。
「……?」
どこか遠くで、爆ぜるような音がした。
ビルの隙間から、赤と紫の光がちらちらと瞬いている。
「また……騒がしいですね……」
まるで天気の話でもするような、そんな調子で彼は呟いた。
誰もいない裏通りへと、足を向ける。
その場所は、人気のない小さな児童公園だった。
滑り台の金属が赤く焦げ、ブランコの鎖が半分溶けている。
その中心で、奇妙な影がのたうっていた。
黒く、煙のように揺れながら、四つ足で地を這い──突然跳ねる。
まるで猛獣のようなスピードで、何かを狙っていた。
「こっちですっ!」
明るく高い声が、静寂を破った。
そこにいたのは、一人の少女だった。
ピンク色のツインテール。輝くスカート。星型の杖を握りしめて、戦闘態勢。
──そう。いわゆる、魔法少女だった。
「あなた、一般人ですよね!? ここは危険です、逃げて!」
少女は振り返って叫ぶ。
その視線の先にいたのは、スーツ姿の地味な男――久住修一。
「いえ……あの……通りかかっただけでして……」
いつも通りの丁寧な口調で答える彼に、少女は眉をひそめた。
「だから逃げてってば! こいつ、Aランクの異能獣! 素人が近づいたら──」
その瞬間、異能獣が動いた。
煙のような身体がしなり、一直線に久住へと跳ぶ。
──狙いを定めた獣は速い。
「危ないッ!!」
魔法少女の叫びとほぼ同時。
久住は、スーツの上着をすっと脱ぎ、静かにそれを地面へ置いた。
そして、ネクタイを緩めながら、ひと言。
「……ああ、すみません。少しだけ、失礼しますね」
次の瞬間。
獣が吹き飛んだ。
まるで紙くずのように。
殴られた? 掴まれた? ──そんな動作すら見えなかった。
ただ、何かが「そこにいた」と思ったら、「もういなかった」。
──数秒の沈黙。
「…………え?」
魔法少女・カレンは、口をあんぐりと開けたまま硬直していた。
異能獣が吹き飛ばされた先には、鋼鉄製の遊具があった。
獣はそれに激突し、フレームごとグシャリとめり込んでいる。
その体はもう動かない。光が消え、煙が立ち上るだけだ。
どう見ても──完全に、戦闘不能。
「ちょ、ちょっと……ちょっと待ってください……今、何が……」
少女は震える手で杖を握り直し、視線をゆっくりと久住へ向ける。
そこには──ワイシャツのボタンを三つほど外し、ネクタイをだらりと垂らした中年男がいた。
外されたシャツの隙間から、とんでもなく分厚い胸板と、隆起した腹筋が覗いている。
腕まくりされたシャツの袖からは、浮き上がるような前腕の筋肉が。
どこからどう見ても、日頃から極限の鍛錬を積んだ者の身体。
「………………誰?」
カレンの声が震えていた。
「いえ……ただの会社員です」
久住はそう言って、くしゃっと笑う。
その口調は、やはり控えめで丁寧で、どこか事務的ですらあった。
「いやいやいやいや!!」
ついにカレンが叫ぶ。
「素手であの異能獣倒したのおじさんですよね!? 私、魔法三発撃っても効かなかったんですけど!? それを一撃って、え、え、え!?」
「……ああ、いや、ちょっと昔、海外出張がありまして……」
「海外!? 何の会社ですか!? 海外出張で異能獣と戦える肉体になれるんですか!?」
「いえ、まあ、たまたまそういう環境と申しますか……」
その言い回しがまた、絶妙にイラっとくる。
カレンは完全に混乱していた。
目の前の男は、いくら見ても“地味なサラリーマン”以外の何者でもない。
だが、その一撃、その肉体、その反応速度――常人の枠をはるかに超えている。
「なんかこう……めちゃくちゃ嫌な予感がするんですけど……!」
* * *
「いや、ちょっと待ってくださいよおじさん!」
カレンがずい、と一歩前に出る。杖を突き出し、何かの尋問のように構える。
「本当にただの会社員なんですか!? その腕、完全に格闘技経験者じゃないですか! あと腹筋の割れ方どうなってるんですか!?」
「……ああ、いえ、最近ちょっと体調が気になりまして、軽く運動などを……」
「その“軽く”がどう見てもベンチ200キロですってば!」
久住は、首を傾げて微笑んだ。
控えめなその仕草が、さらにカレンの焦燥を煽る。
「それにその動き、見えませんでしたよ!? 何かしらの超反応系スキル……え、スキル使ってないんですか!?」
「いえ、そういった類のものは……不所持ですね、はい」
「不所持!?」
カレンは叫びながら頭を抱える。
(意味が分からない……私、歴代でトップクラスの魔力持ちって言われてるのに……)
久住は、そんな少女の反応をよそに、シャツのボタンを留め始めた。
きっちり一番上まで。ネクタイを締め、袖を整え、スーツ上着を拾い上げる。
「……さて。では、私はこれで」
「ちょ、どこ行くんですか!? まだ聞きたいことが──」
「いえ……明日も仕事がありますので」
そう言って、スッと背を向ける久住。
その背中は、妙にしっかりとしていた。
夜の街に、革靴の足音がカツリ、カツリと響く。
しばらくその後ろ姿を見送ったカレンは、ぽつりと呟いた。
「なにあの人……いろんな意味でこわい……」
* * *
繁華街のネオンがちらつく裏通りを、久住修一は淡々と歩いていた。
先ほどまでの激しい戦闘の痕跡も、彼の表情からはまったく感じ取れない。
スーツは元通りに整えられ、姿勢は自然体。
その歩幅は、ただ「家に帰るだけの会社員」そのものだった。
「……今月の請求書、週明けまでに処理しておかないと……」
小さく呟きながら、久住はビニール傘のように無害な存在感で夜の街を進む。
一方その頃。
「カレン、応答願います。カレン!」
少女のイヤリング型通信機が反応した。
管制室のような音声が、耳元に届く。
「聞こえてます……終わりました。対象、排除済みです」
「確認します。映像ログによれば、対象はAランク。魔力抵抗も非常に高く、討伐には最低でも3人班を想定していましたが、どうやって……?」
「……えっと、その、ちょっと通りすがりの人が倒しました」
「通りすがり?」
「はい。……サラリーマンです」
「……はい?」
「……スーツのサラリーマンが、素手でワンパンでした」
「…………」
しばし沈黙が通信を支配する。
「すみません、通信が不安定なようです。もう一度言ってください」
「だから、サラリーマンが、素手で、ワンパンで、異能獣を倒したって言ってるんですぅぅぅ!!」
夜空に少女の絶叫がこだました。
「なにがどうなってんのよ……っ!」
その頃、久住は自販機の前に立ち、ホットミルクティーを手にしていた。
「……これ、冬でも冷たいのしか売ってないのですね……」
缶をそっとポケットにしまい、再び歩き出す。
* * *
久住の自宅は、駅から徒歩十五分。古びた3階建ての単身者向けアパートだった。
築三十年を超えているが、手入れは行き届いている。
木の廊下を静かに歩き、301号室の扉を開ける。
「……ただいま」
返事はない。
ワンルームの室内は、家具の少ない、落ち着いた空間だった。
ベッドとローテーブル。壁際には本棚があり、整然と経理や税法関係の本が並ぶ。
だが──その奥の押し入れを引くと、雰囲気は一変する。
大型のバーベル、懸垂器具、吊り輪、ケトルベル、サンドバッグ……。
筋肉の殿堂だった。
静かにスーツをハンガーにかけ、ワイシャツをたたむ。
その下には、すでに肌がうっすら光るような肉体が覗いている。
鏡に映る自分に向かって、久住は軽く首を回した。
「……少し、動きが鈍っていたかもしれませんね」
その言葉の直後、懸垂バーにぶら下がり、指だけで静かに懸垂を始める。
まるで音も立てず、息すら乱さず。
そこにいるのは、ただの会社員ではなかった。
──その頃。とある秘密機関のモニター室。
「調べた……この人、間違いなく“ただの会社員”です。
経理担当で、異能登録もなし。学生時代のスポーツ歴もゼロ……なのに……」
カレンが検索した端末の前で、唖然としていた。
「全然納得できない……。だってこの人、週五で定時退社してるし、
特に不審な通話履歴も交友関係もないし、休日は公園で鳩にパンあげてるし……」
「真面目なだけの一般人……なのか?」
「だったら、あの腕の筋肉どう説明するのよ……!」
カレンは頭を抱える。
彼女の中で「おじさん」は、あまりに不可解な存在として刻まれた。
* * *
翌朝、午前八時十五分。
久住修一は、いつものように定刻で自宅を出た。
スーツは皺ひとつなく、靴も丁寧に磨かれている。
髪型は地味で、表情は乏しく、どこから見ても「無害な中年サラリーマン」。
小さな鞄を下げ、無言で歩く。
「……やっぱり……出てきた」
その様子を、少し離れた位置から双眼鏡で見つめていた少女がいた。
制服姿に、マフラーを巻いたカレン=ルミナス。
魔法少女スタイルとは違い、控えめな私服での張り込みだ。
「ほんとに、ただの出勤……。でも、なんかおかしい……オーラっていうか、気配っていうか……空気の質が違うんだよな……」
電柱の陰に隠れてブツブツと独り言を言いながら、カレンは歩き出す。
彼の職場は、オフィスビルの八階。経理部所属──と調べがついている。
「今日こそ、正体を突き止めてやるから……!」
一方その頃、久住はエレベーターで静かにボタンを押していた。
会社に着くと、誰とも目を合わせず、会話もせずに席に着き、パソコンを開く。
Excelのセルを開いて、黙々と数字を打ち込む。
「……あの人、ほんと何してるかわかんないよね」
「話したことない……」
「でも、定時で帰るし、誰にも迷惑かけないからまあいいけど」
職場での評価は、そういうものだった。
──しかし、その日の午後。
市街地南部、物流倉庫群の一角で、またしても異能反応が発生した。
「この反応……またAランク……!? 何なの、最近おかしいってば……!」
カレンのポケットの通信端末が振動する。
現場には管轄チームが出動しているが、対応に手間取っている様子。
「……間に合えばいいけど。……というか、あのおじさん、また来たりして」
冗談のつもりで呟いたその時──
「すみません、南部方面へ出向く用事ができまして……少し早退します」
経理部で、静かに上司へ頭を下げる久住の姿があった。
* * *
陽が傾き始めた午後四時すぎ。
物流倉庫街は、人通りも少なく、冷たい風が鉄骨を鳴らしていた。
その一角に、異様な“歪み”が生まれていた。
空間が波打ち、赤黒い靄が巻き上がる。
地を這うような異能反応、形を持たない“何か”が倉庫の扉をこじ開け、這い出してくる。
「──一般人は近寄らないでください!」
警備ラインの外から、魔法少女・カレンの声が飛ぶ。
再び制服姿に変身した彼女が、杖を構える。
背後では対策班の隊員たちが防護壁を展開していた。
「くっ……っ! またこいつ、魔法通りにくいタイプだ……!」
攻撃魔法が着弾するたびに、異能体は靄のようにかき消えて形を変える。
火も雷も、手応えがない。対処が難しいタイプ。
「せめて一点突破で……!」
魔力を込め、強化呪文を唱え始めたそのとき――
「……どうも。お疲れさまです」
誰かが、警備ラインの隙間をすり抜けてきた。
黒のスーツ。細身の鞄。ネクタイを緩めながら歩いてくる男。
久住修一だった。
「……あーーーーっ!! だからなんで毎回くるんですかおじさん!!」
「いえ……ちょっと南の得意先に資料を届ける用事がありまして」
「資料どころじゃないでしょ!? 今、異能体が出てるんですよ!?」
「そうでしたか……それはそれは」
全然驚いていない。むしろ「ああ、やっぱり」みたいなテンション。
「って、え、ちょ、脱ぎ始めてる!?」
久住はスーツのボタンを外し、丁寧に上着をたたむ。
シャツの袖をまくり、ネクタイをポケットにしまう。
シャツの下には、昨日と変わらず、彫刻のような肉体。
無駄な脂肪は一切なく、盛り上がった広背筋と大胸筋がシャツを押し上げている。
「……やっぱり、ちょっと鈍ってますね。昨日の反省を踏まえて……」
その声は控えめで、丁寧で、妙に落ち着いていた。
「……あの、すみません。私が囮になりますので、正面からひきつけてください」
まるで業務連絡のように言うと、久住は一歩、靄の中へと踏み込んでいった。
靄がざわつく。
異能体が反応した。
それは、異能を持たない人間――それも無防備に見える男――が、自ら領域に足を踏み入れたことに対する、本能的な“敵意”だった。
ぐにゃり、と黒煙が形をなす。
角のような突起、牙のような影、脚のような伸びたもの。
形状を定めず、視認性を奪う“霧”そのものが襲いかかる。
だが――
「失礼します」
その一言と同時に。
ドンッ!!
低く、圧縮された音が倉庫街に響く。
霧の一部が、爆風のように四方へ飛散した。
久住の拳が、ただの空気を貫いたかのように見えた――だが違う。
拳は確実に“異能体の核”をとらえていた。
姿のない敵の中枢を、感覚だけで正確に見切り、貫く。
次の瞬間、もう一撃。
今度は掌底。反対の手が回転しながら叩き込まれ、異能体の霧が音もなく崩れる。
「……構成、単層式。外装は擬態。中核が弱いタイプでしたね」
淡々と分析しながら、久住は立ち位置を変える。
姿勢は乱れず、呼吸も一切荒れない。
「え……? 倒した……?」
魔法少女・カレンが、目を見開いて呟いた。
周囲にいた対策班の隊員たちも、言葉を失っていた。
「う、嘘でしょ……あの規模の異能体を、また……しかも、素手で……」
久住は、たたんでいた上着を拾い、ポケットからハンカチを取り出す。
崩れた霧の痕跡を、黙々と拭っていく。
「……危険物ではありますが、放置すると街に影響が出ますので」
誰に教えられたでもない、現場処理の手際。
まるで異能体の“後始末”に慣れているかのようだった。
「……あの、おじさん。やっぱり、絶対ただのサラリーマンじゃないですよね?」
ついに、カレンが震える声で尋ねる。
久住は手を止め、しばし考え込み――そして、ぽつりと口にした。
「……いやぁ……昔、海外出張で……ちょっと、いろいろありまして」
「……その“ちょっと”の中身が、世界一気になるんですけどぉおお!!」
* * *
数日後。午後六時。
淡い夕暮れの中、久住修一は、いつも通りスーツ姿で会社を出た。
丁寧に軽く頭を下げ、誰にも気づかれずにオフィスビルを後にする。
街路樹の影を静かに歩きながら、ジャケットの袖を整え、ぼそりと呟く。
「……明日は月末……伝票が溜まりそうですね……」
ただの経理部員。地味で無口な、冴えないサラリーマン。
どこにでもいるようで、どこにもいない存在。
その後ろを、そっとつけている人影がひとつ。
電柱の陰、帽子にサングラス。
誰がどう見ても逆に目立っているその格好で、魔法少女・カレンは小声で唸る。
「……絶対、なんか裏がある。あの人、絶対ヤバい経歴がある……!」
自分の中で膨れ上がる疑念と執念を抑えきれず、
彼女はこの数日、“久住修一”という存在を調べ続けていた。
過去の記録。学歴。履歴書。免許証。交友関係。異能登録記録。
どれもこれも、「ただの会社員」としか出てこない。
「むしろ、完璧すぎて怪しい……! 絶対、どこかで情報消されてる……!」
その時、久住がふと立ち止まった。
公園の脇、自販機の前。
カレンが身を縮める。
久住は、静かに缶コーヒーを買い、しばし缶を見つめてから――
「……やっぱり、ぬるいですね……」
独りごちて、そのまま歩き出した。
──日常に溶け込む、異常。
誰も気づかず、誰も知らないまま。
ただ、静かに、確実に、“誰かの脅威”を処理していく存在。
その背中を、カレンは見上げる。
震えるように、ぽつりと呟いた。
「……あれが、“最強の一般人”か……」
──そしてまた、彼女は思った。
「……あの人、今度いつ脱ぐんだろう……」
どこか違う意味で、気が抜けない日々が、始まっていた。
完
ムキムキおっさんのイメージは某ハンターの暗殺者一家門番の人