おまけ
結婚をしてから少し経ったある日。
私はアルチュール様の家に二人で来ていた。
穏やかな午後。私は少し微睡みながらアルチュール様に話しかける。
「そういえば、どうしてアルチュール様の家には金木犀が植えられているのですか?」
金木犀の花はすぐ落ちるから掃除が大変だし、四季折々の美しい花を植える必要がある庭には、簡単に抜くことが出来ない樹は不向きな気がする。現に今だって、なんの花もつけていない金木犀は殺風景な印象を与える。
甘い紅茶を飲みながら考えていると、アルチュール様が「ああ」と声を漏らした。
「僕の好きな樹なんだよ」
「…………………………………………はい?」
「ごめん、ごめんってばガブリエル」
「もうアルチュール様なんて知りません。我が家の庭にも勝手に金木犀を植えたらいいんじゃないですか?」
「ガブリエル……」
ションボリとした声を出すアルチュール様に私の良心が罪悪感にザクザクと刺される。
自室の布団に包まりながら、私は言い過ぎたかもと一人、反省していた。
……うん、アルチュール様だってわざと隠してた訳じゃないし、早く仲直りした方が絶対にいい。今日の3時のおやつはチョコレートで、喧嘩したまま食べたくないし。
そう潔く思い直した私は布団から顔を出し、扉に向かった。
ドアノブをひねろうとした時、アルチュール様がなにかを呟いていて私はピタリと動きを止める。
「別に僕の好きなモノなんてどうでも良いのにな……」
「アルチュール様の馬鹿――っ!」
「痛ぁっ」
バンッと勢いよく扉を開けると、いい音を立ててアルチュール様の額に扉が当たった。
赤くなった額を押さえながら目を白黒させるアルチュール様に、私は指を指す。
「わ、私はアルチュール様のことが大好きなんですっ」
アルチュール様の顔がポッと赤くなった。その乙女な表情に私の顔も赤くなる。
「……ですから、ですから」
最初勇んでいた私は、段々力が抜けていき指を下ろした。腕がブラン、と揺れる。
じわ、と涙が浮かんだ。
「――アルチュール様の好きなモノをなんでも知りたいと思う私は、そんなにも貴方にとっては理解しがたいですか?」
アルチュール様は自分の気持ちにも、そして人の気持ちにも疎い人。そんなこと、ずっと前からわかってる。
だけど、私のことを『どうでも良い』と言われたみたいで、すごく寂しくなった。
私は、貴方のことならなんでも知りたいと思うのに。好きなモノでも、嫌いなモノでも。アルチュール様の心を形作ったモノなら、なんでも知りたい。
それに私のことも、いっぱい知ってほしい。
アルチュール様は目に涙を浮かべる私にサッと顔色を変えた。
「ごめん、ガブリエル」
「……私がなにに怒ってるか、本当に分かってるんですか?」
仲直りしたいのに、嫌な自分を止めることができない。次から次に、嫌な私が飛び出て来る。
そんな私から逃げ出したくて、私は走りだした。息を弾ませながら、がむしゃらに足を動かす。
その最中、一度だけ振り返った時。
アルチュール様は寂しそうに顔を俯かせていた。
◇◇◇
「奥様、今日はチョコレートですよ」
「……知ってるわ」
「でしたらどうしてそんな所に隠れていらっしゃるのですか?」
私が幼い頃から仕えてくれているメイドのアナは、困ったように笑っている。
自分でも、薔薇の生け垣ので隠れるように座り込んでいる姿は子供っぽいと分かっている。アナが小さい頃の私を見るような目をしているのはそのせいだろう。
咲きこぼれている花を見ながら、私はため息をつく。
「もうアルチュール様はいらっしゃるの?」
「いえ、今旦那様は家におりませんよ」
てっきりアルチュール様は既にガーデンチェアに腰掛けているのだと思っていたから、私は目を瞬かせた。
「今日はなにかお仕事あったかしら?」
「いえいえ、お仕事よりも大事なことをする為に旦那様は行かれましたよ」
「……?」
謎掛けをしているような心地になりながら、私は首を捻った後、ようやく立ち上がった。
「アルチュール様はいつ頃帰ってくるかしら?」
「もう少しだと思いますよ」
「じゃあ、チョコレートでも食べて待っていようかしら」
心得たと言わんばかりにアナが頷き、私はガーデンテーブルへと向かい出した。
辿り着いた私は、一人でガーデンチェアに腰掛けおもむろにチョコレートを摘んだ。
ぽいっと口にほおり込む。
そのままモゴモゴと咀嚼した。
ケーキで有名な『フリアンディーズ』は、普通のチョコレートも絶品だった。
美味しい、と二個目に手が伸びる。
だけど、なんだか急にお腹がいっぱいになって、私は手を引っ込めた。
代わりに手にした紅茶を口に運ぶ。いつもとは違い角砂糖を入れてない、甘さがない紅茶が、なんだか丁度良かった。
はぁ、とまたため息をついてしまう。
「――ただいま、ガブリエル」
そのため息に返事をする人がいた。振り向けば、アルチュール様がいつもと同じ柔らかい笑みを浮かべている。
その優しい笑顔にじんわりと嬉しい気持ちが広がった。だけど私は素直じゃなくてプイ、とそっぽを向いてしまう。
「なんの用ですか?」
「ガブリエルに見てほしいモノがあって」
優しく語りかけてくる彼に曖昧な返事を返す。そのまま紅茶を飲み始めた私に、彼は焦れたような顔をした。
「……ガブリエル」
「なんですか」
「ガブリエル」
「だから、なんなんですか――って、きゃぁ⁉」
紅茶を乱雑に置き振り返ると、ひょいとアルチュール様の腕によって持ち上げられた。私の腰に差し込まれた右腕のひんやりとした感触と左腕の温かさに、頰がカッと熱を持った。
私を持ち上げたアルチュール様はそのまま横抱きをすると歩き出す。
「ちょっと、何処に行くのですか」
「もうちょっとだよ」
答えになっていない。そうぶすくれながら運ばれていると、一つの部屋にたどり着いた。
いつもは応接間として利用されている、僅かな調度品が飾られている部屋だ。
その部屋が、物で溢れかえっていた。
「な、なにがどうなっているんですか」
「これは、僕が小さい頃から家にあった物だよ。家に行って、取ってきたんだ」
なんでそんな物をこんなに……と訝しむ私にアルチュール様は笑いかけた。
「これだけあれば、ガブリエルの知りたいことも知れるかなと思って」
そう言って、アルチュール様は小さなクマの人形を持ち上げた。
「僕は、なにを言ったら良いのかの判断が上手にできないから、ガブリエルに選んでほしい」
彼の優しさに有り難く思いながらも、私は喉が詰まった。
アルチュール様はつまり、物の記憶が読み取れる私の力を使って、記憶を見てほしいと言っているのだろう。私の力が、都合よく使われている気がして、悲しくなった。
おもむろにガラス瓶を掴んだ私に、アルチュール様が笑いかける。
「ガブリエルが選んだ物の話を、させて欲しいんだ」
「……? 私の力で物から記憶を読み取ってほしい、ではなく?」
私がキョトンと問いかけると、アルチュール様もキョトンとした。
それからゆっくりと私に笑いかけた。
「ガブリエルの力はとてもすごいけど、今日は僕に話をさせてほしいな。だって、僕の大切な思い出は、ちゃんと僕が伝えたいから」
固まる私に、アルチュール様は優しく笑ったまま囁く。
「僕の大切な奥さんに、沢山話を聞いて欲しいんだ。……駄目?」
「――……っ、駄目じゃ、ないです。沢山お話を聞かせてください!」
瞳を潤ませながら頷く私に、ハンカチを渡すと、アルチュール様は「まずは手始めにそのガラス瓶から」と話し始めた。
「そのガラス瓶は飴が入っていたんだけど、大切にしすぎて全部溶けちゃったんだよね」
「あらあら、ふふっ」
「メイドが頑張って瓶を洗ってくれたんだ」
「これは誕生日に貰ったペンだよ」
「なんだか新品みたいに綺麗ですね」
「大事にしすぎて一回も使ってないからね」
「まあ、なにか言われなかったんですか?」
「『また来年新しい物をあげる』と言われたよ」
「……つまり、このいっぱいあるペンたちは……」
「そう、毎年貰って毎年もったいなくて使えなかったペンたちだよ」
「このクマの人形は、一人で眠れない時に母上に貰ったんだ」
「ふふっ、なんだか可愛らしいですね」
「うん。それで、僕たちに子供が出来たら、人形をプレゼントしたいんだ」
「クマにしようかウサギにしようか悩みますね……」
「ネコもいいと思う」
窓硝子から、茜色の光が差し込んでくる。ふと気づくと、もう日が落ちかけていた。
周りを見渡すと、彼の話を聞いていない物の方が少ない。
私は最後の一つである、白を基調としピンクで彩られたティーカップを手に取った。
「そう言えば、なんでピンク色のティーカップなんですか?」
男であるアルチュール様が使うには、少々可愛らしいが過ぎると思う。
首を傾げる私に、アルチュール様が「ああ……」と呟き気まずそうに顔を逸らした。
「その、昔街の雑貨屋に行ったんだけど、そこで出会った女の子にそのティーカップを勧められたんだ」
まさかここで私以外の女の影がちらつくとは。そのティーカップをこうして買っている所や、気まずげな表情からもアルチュール様がその少女に特別な感情を抱いていたのが分かってしまう。
胸がモヤモヤした私は、ティーカップの記憶を覗いてその少女が誰だか確かめてやることにした。
目を閉じ、意識を集中させる。
『ねえ、なにしてるの?』
『え? あ、ティーカップをなににしようか決めてるんだ』
『そうなんだ。……わたしはこれがいいと思う!』
『それピンク色だよね。僕、男の子なんだけど……』
『ううん、これが良いわ。だってあなたの秋の空みたいな髪の毛によく似合ってるもの。
ティーカップの白い部分にあなたの水色の髪が映ったら、まるで青い空にピンク色の花が舞ったみたい!』
金木犀のようなオレンジの瞳を持つ少女は、そう言ってふんわりと笑った。
「…………」
「ガブリエル?」
俯いた私の顔を覗き込むアルチュール様に、私は問いかけた。
「ねえ、アルチュール様。その女の子って貴方の初恋ですか?」
私の言葉に焦ったように顔を赤くした彼は、しばらく視線をウロウロと彷徨わせた末に「……うん、そうだと思う」とポツリと言った。
「――でも、ガブリエルの方が……っ」
「うふふっ」
アルチュール様の言葉を遮り私は立ち上がる。
そうすればもっと彼は焦った顔をするものだから、私はティーカップを丁寧に持ち上げながらクルリと振り返った。
「初恋の女の子と結婚できるなんて、アルチュール様は幸せ者ですね」
このティーカップに紅茶を淹れて、二人でチョコレートを食べよう。
そして、さっきのことを謝って、今度は私の話を沢山聞いてもらうの。
「ねえ、ガブリエル。今のって――」と後ろから追いかけてくるアルチュール様に苦笑を漏らしながら、私は軽やかな足取りで、このティーカップを渡すべく厨房へと歩き出した。
◇◇◇
今日は私の誕生日。
五つの柄の揃ったティーカップを並べながら、私はアルチュール様と共に皆が来るのを今か今かと待っていた。
最初に来たのはラベリア様だった。
「お誕生日おめでとうございます、ガブリエル様。これ、私からのプレゼントですわ」
「まあ、ありがとうございます」
水色の宝石と、小さいパールがついたバレッタはとても可愛くて頬が緩んだ。
「喜んでいただけたようでよかったです。……でも、また後で渡すものがあるので楽しみに待っててくださいね」
「そうなのですか? とても楽しみです」
次に来たのはルドルフ様だった。
「お誕生日おめでとう、ガブリエル嬢」
「ありがとうございます、ルドルフ様」
「ルドルフ、さりげなくガブリエルの手を掴むのはやめろ」
挨拶をする為に私の手を取ろうとしたルドルフ様を制したアルチュール様は、そのまま楽しそうに話し始めた。
もう、と呆れながらアルチュール様の背をつつけば、二人共ハッとした顔をする。
「すまないガブリエル嬢」
「いえいえ」
「あと、誕生日プレゼントだが。形に残るものを贈ったらアルチュールから睨まれそうだから、残らない食べ物にしたよ。後で渡す」
「さすがにそんなに狭量じゃないけど……」とボヤくアルチュール様を私とルドルフ様で笑い合った。
最後にマリア様がやって来た。
「ガブリエル様、お誕生、心からお祝い申し上げますわぁ」
「わわっ、ありがとうございますマリア様」
マリア様から渡された白いタワーみたいな物を受け取ってよろけた私を、そっとアルチュール様が支えてくれた。
私の顔ほどの大きさがある白いタワーのような箱は、ひんやりと冷たい。
「すごいですね。これなにが入ってるんですか?」
「ふふっ、後でのお楽しみですわぁ」
笑って人差し指に手を当てたマリア様に、私も笑みを返した。
白いタワーは一旦アナに渡し、誕生日会場である庭につくと、先に案内していた二人は紅茶を嗜みながら待っていた。
「素敵なお庭ですわね、ガブリエル様」
「ああ、見事な金木犀だ」
二人が感嘆の息を漏らしているのは、ガーデンテーブルを囲むように植えられた金木犀。
今はオレンジ色の花が咲きこぼれている。
あの喧嘩の後、私は庭師に金木犀を植えるように頼んだ。
最初は『秋以外、殺風景になりそうですが、それでええんですかい?』と不思議そうにしていた庭師だったが、『アルチュール様が好きなんです』と言うと笑って『それなら頑張んないといけませんなぁ』と言ってくれ、すぐに金木犀の苗を植えてくれた。
それから、我が家の庭にも金木犀の香りが広がるようになった。
私たちが席につくと、ラベリア様とルドルフ様とマリア様が使用人を呼んだ。
カートを押しながらやって来た使用人たちは、何故か皆一様に複雑そうな顔をしている。
首を傾げると、カートの上に乗っていた銀色の大きな半球体の蓋を取った。
――最初に絶句したのは、誰だったか。
そこには、生チョコレートのタルト、チョコクリームのシュークリーム、チョコマカロンの小さいタワーが出てきた。
さっきマリア様がくれた白いタワーの箱の中には、小さいマカロンのタワーが入っていたのかと、私は変な所で納得した。
皆で微妙な雰囲気が流れる中、アルチュール様が気まずそうに手を挙げる。
「実は、僕も……」
これまた複雑そうな顔をして使用人が持ってきたのは、チョコレートクリームのケーキ。
私たちは顔を見合わせた。
最初に、ルドルフ様が肩を震わせた。次に、ラベリア様が手で口を覆った。そのまた次にマリア様の口角が上がった。
今度はアルチュール様の口から押し殺したような笑い声が漏れ、私の大きな笑い声を皮切りに、庭中に笑い声が響いた。
金木犀のオレンジ色の小さな花が四方八方に咲く庭の中で、私たちは散々笑い合った後、ゆっくりチョコレートを食べ始めた。
次の日、私のお腹がタプン……としたのは想像に難くない。