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「アルチュール様、お久しぶりです」


 返事はない。


「まだ婚約破棄の書類には、私名前書いてないです」


 これにも。だけど私は、構わず話し出す。


「だってねアルチュール様。私、貴方がいなくてもきっと幸せになれると思うんです。だけど、貴方がいない幸せは、少しだけ……寂しいと思ってしまうんです」


 扉の奥で、誰かが動く気配がした。


「だから、私の幸せの為に、婚約破棄しないでください」


 そう言えば、ようやく言葉が帰ってきた。


「僕にはもう好きな女性がいる」

「それって私の事でしょう? でしたらなんの問題もありません」


 微かにアルチュール様が笑う声が聞こえた。こっちは真剣なのに。


「でもね、やっぱり僕は無理だよ」

「――それは、私に迷惑をかけると思っているからですか?」

「……っ」

「私は、右腕と左足がある、私に迷惑をかけない貴方が好きなわけではありません。アルチュール様が好きなんです」


 扉の奥から、深いため息が聞こえる。


「なんでその事を知っているの? いや、知った上でどうして僕と一緒にいたいと言うんだ。『好き』? そんな気持ちで僕と一緒になる事を選んだら、きっと君は後悔する」

「だとしても、私は引きません」

「なんでっ」


 彼を見据えるように、扉をひたと見つめた。


「人生の中で、絶対に引いちゃいけない時が何度かあるとするならば。――私にとって、それは今だからです」

「ガブリエル……」

「ここで引いたら、私は一生後悔します」


 声を精一杯張り上げる。


「貴方を一人にした事を」


 扉の奥から、息を飲む音が聞こえた。

 私は扉に縋り付き、言葉を紡ぎ続ける。


「それにっ、なんなんですかアルチュール様は。さっきからずっと、私の事ばっかり。そういう貴方の方こそどうなんですか」

「……どういう事?」


 ああ、やっぱり貴方は、自分の気持ちにとても疎い。だから私が、ちょっとずつちょっとずつ。気づくきっかけをあげたい。


「――私に婚約破棄を突きつけて、今アルチュール様は幸せかと、そう聞いているのです……っ」


 貴方はとっても馬鹿な人。

 だって今、貴方はようやく。


 自分が泣いている事に気づいたのでしょう?


◇◇◇


「……ガブリエル。僕は、僕はね。君と一緒に、生きたかった」

「知っています」


 少し時間が経ってから、アルチュール様が話し始めた。その声は湿っぽい。


 私は、扉の前で座り込みながら彼の言葉に返した。


「だから、毒矢を受けた時、迷いなく僕は足を切って、ルドルフに腕を切らせた」


 毒が体に巡って死ぬのを防ぐ為。彼はそんな選択を迷いなくしたのだろう。


「終戦した時、『帰れる、君の下へ行ける』と心底安心した。……そうやって安心したら、前の感覚が戻ってきた」

 

 その感覚とは、戦争に赴く前の感覚だろうか?


「君は腕と足のない僕をどう思うのか、怖くなった。受け入れてくれなかったら? 受け入れてくれたとして、先の未来で僕を邪魔に思ったら? そこに至った僕は、君から逃げる事を選んだ」

「アルチュール様、貴方は馬鹿です」

「うん、ごめんガブリエル」


 でも、彼が不安に思う気持ちに、私はようやく共感出来た気がする。


「……私ね、アルチュール様。貴方の義手と義足楽しみですよ。だって、そうすれば貴方との大切な思い出を、いつまでも思い出せますから」

「どういう事、ガブリエル」


 家族にも、友達にも秘密にしていた私の力。

 それを切り出すのはアルチュール様といえど緊張するらしい。私は冷たくなった指先を手のひらで包んで温める。


「私、物から見える世界を覗かせてもらえるんです」


 暫しの沈黙が落ちる。その静かさに駄目になりそうになっていると、ようやく声が聞こえてきた。


「じゃあ、まさか剣が欲しいと言ったのも……」

「はい、剣自体も魅力的ですが、一番は貴方の姿をいつまでも見ていたかったからです」


 「だから」と私は言葉を重ねる。


「色々な幸せな思い出を、いつまでもいつでも私に見せてください」


 私は努めて明るく言いながらも、指先は冷たいままだった。

 こんな言葉で、彼が思い直してくれるかなんて分からないから。



 そうやって神経を尖らせていた。だから、アルチュール様の小さな声に、私は気づくことが出来た。


「ありがとう、ガブリエル。――愛してる」


 心臓が一際大きく音を立てた私は、そんな心臓を落ち着かせるように、ゆっくりとドアノブを捻った。


 扉の向こう側では、カーテンがゆらゆら風に吹かれていた。不規則に彼の顔に日がさしている。

 アルチュール様は車椅子に座りながら、私にそっと笑いかけた。


「久しぶり、ガブリエル」

「はい、久しぶりですねアルチュール様」


 もうそこからは激情に身を任せた。私はアルチュール様に駆け寄り、彼を強く強く抱きしめる。


「アルチュール様、アルチュール様……っ」

「ごめん、本当にごめんガブリエル」


 お互い子どものように涙を流す。私は彼の胸に頭を押し付けグリグリとした後、顔を上げた。


「おかえりなさい、アルチュール様」

「ただいま、ガブリエル」


◇◇◇


 それから、アルチュール様は義手と義足になった。最初は上手く動けず大変だったが、今では慣れたものだ。


 その証拠に、私が車椅子に乗るようになってからも、彼は自身の足で立っている。


「ねえ、アルチュール様」

「なんだい、ガブリエル」


 アルチュール様の美しい水色の髪はすっかり白くなってしまって、ほんの少しだけ寂しいような気もするが、今の彼も私は大好き。


「私の隣に来てください」

「分かったよ。僕の可愛い奥さん」


 椅子を引いてきて彼が隣に腰掛けた。私は彼の右腕に抱きつく。

 しわしわになってしまった手では上手く腕を握れず苦戦したが、アルチュール様が私の手をそっと握ってくれたから、私はようやくホッと息をついた。


 冷たい腕の感触に身を委ねていると、「まったく」と上から苦笑交じりの声が降ってくる。


「本当に僕の右腕が好きだね。なんだか妬けちゃうよ」

「ふふっ、じゃあ貴方の左手は、私の頭を撫でてください」


 私の言う事に律儀に従ってくれるアルチュール様は、慣れた手つきで私の頭をそっと撫でた。

 その感覚にうっとりしながら、私は目を閉じる。


 結婚式をした。ウエディングドレス姿の私にラベリア様は涙ぐみ、マリア様は笑っていた。アルチュール様はルドルフ様になにかを言われていた。

 私も、少しでも気を抜いたら涙が零れてしまいそうだったけど、お化粧が濃かったから必死に我慢したのを覚えている。


 子どもが私のお腹に宿った。屋敷中大騒ぎで、お父様も使用人もアルチュール様もとても過保護で、お母様に至っては妊娠の経験があるのに誰よりもオロオロしていた。

 最初は吐き気が止まらなくて、なにも食べれなかった。アルチュール様が「このままじゃガブリエルは死んじゃうのではないのか……!?」と医者に掴みかかってお父様に取り押さえられていたのをよく覚えている。

 そんな時結婚式以来会っていなかったアルチュール様のお兄様とその嫁であるお姉様がやって来て、私に色々な食べ物を置いていってくれた。

 なんでも、お姉様が妊娠初期の時食べられた物のようで、私もそれなら食べられた時、皆ホッと息を吐いていた。

 そして、とてつもなく長い痛みの末に生まれた子は男の子だった。男の子を震える手で抱き上げたアルチュール様は大粒の涙を流していて、私はぼんやりとしながら彼の「ありがとう」という言葉を聞いていた。


 風邪を引いてしまった。「おかあたま」と最近私を名前を呼べるようになった息子のノアは、熱で苦しむ私に一輪の花をくれた。

 その後、ノアは風邪が移るといけないからと使用人に連れられていった。チョコレートと聞いた瞬間、熱で苦しむお母様には気にも留めなくなった息子に複雑な気持ちになりながら、私は花瓶に生けられた一輪の花を見ていた。

 そこに、アルチュール様が帰ってきた。彼は「風邪が移ります」とつっけんどんに言う私に苦笑しながら、ミルク粥を口に運んでくれた。そして、私の額の上に乗っていた温くなったタオルを冷たいのに変えてくれた。私が眠るまで、手を繋ぎ続けてくれた。

 その次の日、私の体調が良くなると同時にアルチュール様が熱を出した。


 ノアが騎士科に入りたいと言った。ノアは私たちに止められるのではとビクビクしていたけどとんでもない。すぐに快諾すると、騎士になりたいとカミングアウトされた私たちよりもノアは驚いていた。

 そして、よく励む事を条件に騎士科に入ったノアはグングンと成長していった。剣の大会で優勝だって何回かしたことがあるし、何人もの女の子に告白もされたらしい。

 そんな折り、恋人ができたと紹介された。最初は「何処の馬の骨だか知らない奴に……っ」と思ったが彼女は侯爵令嬢だった。めちゃくちゃ凄い馬の骨だった。

 彼女は春の日差しのようでとても愛らしかった。


 そんな彼女と、ノアは十八歳の時結婚した。


 それから――



「アルチュール様」

「どうしたんだガブリエル。何処かに行きたい?」

「いいえ、貴方がいるここが一番好きですので大丈夫です」

「それは良かったよ」


 アルチュール様、私は一つだけ嘘をつきました。貴方の義手も義足も、私には必要ありませんでした。

 だってほら、こうして目を閉じるだけで貴方との輝かしい日々を思い出す事が出来る。最近歳のせいか微睡むことが多くなったけど、アルチュール様たちとの思い出を振り返っていると、自然と寂しさがなくなる。

 一つだって忘れていない。私の中で、記憶は息づいている。


「明日は、なにをしましょうかねぇ」

「庭に沢山の金木犀の花が咲いているらしいから、見に行かないか?」

「まあ、とても素敵なお誘い。……でも」

「『でも』?」


 不思議そうな顔をするアルチュール様に、私はしわくちゃの顔で笑いかけた。


「とてもいい香りがするので、今日も行きませんか?」

「それはとても素敵なお誘いだね」


 アルチュール様が私の車椅子を押してくれ、ガーデンテーブルに辿り着いた。

 真っ白なガーデンテーブルを囲むように、金木犀が生えている。

 金木犀を彼が好きだとは、結婚してから知った。それから慌てて庭師に金木犀を植えるようお願いしたのだ。


 いい香りが、庭中に広がっている。


「金木犀の花は、いつまで経っても綺麗ですね」

「そうだね」

「私はこんなに白髪が増えて顔もしわくちゃになってしまったのに」


 ため息をつく私の頭に、アルチュール様がそっとキスを落とした。


「僕は君の雪のように白い髪も、君がよく笑ったからこそ出来たしわも大好きだよ。……それにほら、君にも変わっていない事がある」

「まあ、それはなんですか?」


 アルチュール様は私の目の前で跪いた。私と視線が合う。


「君のその、金木犀の花のように素敵なオレンジの目。出会った時から、ずっとその瞳に魅了されてきた」

「ふふっ、初めて知りました」

「初めて言ったからね」


 笑い合いながら、アルチュール様は立ち上がりガーデンチェアに腰掛けた。

 タイミングよく、メイドが紅茶を置いてくれる。


 その紅茶の一つに、彼が角砂糖をポチャポチャリと二つ入れた。


「はいどうぞ、ガブリエル」

「ありがとうございます」


 私に白を基調とし、ピンクで彩られたティーカップを渡してくれたアルチュール様は、今度は自分の紅茶を手に取った。

 私は「あっ」と声を上げる。


「紅茶の中に金木犀が入っていますよ、アルチュール様」

「本当だ」


 慌てる彼に私が笑みを零すと、アルチュール様も照れたように笑った。


 それから紅茶を飲み干した私たちは、あまり外にいると体に障るからと部屋に戻った。


 寒いからと薪を焚べた暖炉の前で、二人で寄り添い合う。窓硝子の向こうでは、僅かに雪がちらついていた。

 

 最近寝ている時間の方が長くなった私は、落ちそうになる瞼を必死に押さえながら、アルチュール様に今では日課となった言葉を問いかけた。


「――ねえ、アルチュール様。私と結婚して、今幸せですか?」

「ああ、もちろんだよ。君と結婚して、幸せじゃない日なんて一瞬もなかった」


 それなら、よかった。

 アルチュール様の答えに満足した私は、ようやく瞼を下ろした。


貴方と生きていく度に、宝物は増えていく。

それはきっと、これからも。



最後までお付き合いいただきありがとうございます。★★★★★の評価、ブックマーク、感想などをしていただけるととても励みになります。

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― 新着の感想 ―
[一言] 時代に翻弄されながら愛することを止めない人たちの素敵な素描でした
[一言] しみじみと素敵なお話をありがとうございました。 この短さでこれだけの内容が詰まっていることに驚きます。 きっと年老いた彼は足の痛みもあるだろうと思うけど、彼女の前では素知らぬ顔で車椅子を押す…
[良い点] 素敵ない優しいお話でした。 ボロボロ泣いてしまいました。 ずっと幸せでありますように!
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