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「ガブリエル、18歳の誕生日おめでとう」
「ありがとうございます、アルチュール様」
私は彼から剣を受け取った。アルチュール様から貰う二本目の剣も、一本目と変わらず重い。
そこから流れ込んでくるのは、アルチュール様の軌跡。
ルドルフたちと和解し、切磋琢磨した3年間が、この剣には詰まっている。
「ふふ、また宝物増えちゃいましたぁ」
「喜んで貰えたなら、良かったよ。……それから、これも」
そう言って、アルチュール様は大きなチョコレートケーキを運んできてくれた。
彼からはチョコレートケーキ。アルチュール様が誕生日の時はじゃがいものキッシュを渡すのが、私たちにとっての常になっていた。
私は瞳を輝かせながら、ケーキにぱくつく。
こんな日々がずっと続きますようにと願いながら。
でも、私の誕生日から半年後、戦争が起こった。
そして、アルチュール様は19歳になった1週間後に戦地へと赴いていった。
◇◇◇
戦争の発端は、他国からの侵略だった。
程々に大きくて、程々に平和ボケしている国。そう冷静に判断されたのだろう。
それは間違いではなく、純然たる事実だ。だが、我が国も抗う事をやめず、2年経った今でも戦争は終わっていない。
私は20歳になった。世の中に無数にあるモノサシの一つで測ると私は十分に『行き遅れ』と呼ばれる年だが、そう呼ばれた事も、そんな眼差しを向けられた事もない。
だって、私と同じ年頃の令嬢たちは、みんな未婚なのだから。
『あともう少しの辛抱よ』戦争が始まって一年位経った頃、アルチュール様が戦地へと赴いた頃、夜会先で名前しか知らない婦人にそう勇気づけられた。
その婦人は安い慰めの言葉を自信満々に言ってのけた後、曖昧に笑う私は見ずに、誘蛾灯に吸い寄せられるように次の令嬢の下へと旅立った。
次の令嬢が顔を引き攣らせているのを見ながら、私はあんな安い眼差しよりも、アルチュール様の眼差しが欲しいとぼんやり考えていた。
恒例の月に1回のお茶会、そこで彼はなんでもない事のように戦争に出兵する事を話した。いや、おどけた口調は彼の精一杯の虚勢だったのかもしれない。
『僕にもついに出兵のお鉢が回ってきたよ』
『――、――』
その時、私はなにを言ったんだっけ。アルチュール様は笑っていたから、酷い事は言ってないと信じたい。
戦争が激化すればするほど、国は黒く淀み始めた。毎夜のようにやっていた夜会は、今は誰もやらなくなり、お茶会を開く人もいなくなった。
戦地へと赴いた人も、赴かなかった人も、皆が必死だった。戦地に選ばれてしまった地で育った民を自領で受け入れる為に奔走する人。明日の生活を守ろうとお互いに助け合う人。
そして、大切な人を弔う人。
幸い国境付近で戦争は食い止められているが、この状態はいつまで続くのだろう。
一体いつまで、彼の無事を祈ればいいのだろう。
私は、屋敷の廊下で、ぼんやり窓硝子の向こうにある空を眺めていた。使用人には暇を出したから、広い屋敷は何処か淋しい。私はもう随分新調していないドレスを、今日も身に纏っている。
「ガブリエル、ご飯にしよう」
「……はい」
料理はお母様担当。掃除は私。お父様は領地の事。使用人がいなくなる時に決めた事は、今も尚続いている。
最初は味が濃かったり、薄かったり、野菜が固かったりしたのに、それがすっかりなくなったスープを口に運ぶ。
「……ガブリエル、そういえばお友達から手紙が来てたよ」
食事の最中、ふいにお父様がそう言った。顔を上げると、頰は僅かにこけ、髭も伸びたお父様がいた。自分でヒゲをそったら顎まで切ってしまってから、切る気にならないらしい。
「手紙、ですか?」
お父様が差し出す手紙を、そっと受け取る。戦争が始まった頃、ラベリア様とマリア様と頻繁に手紙を交わしていたけど、最近ではすっかり途絶えていた事をようやく思い出した。
差出人は、ラベリア様だった。
『また二人とお茶会をしたい』
簡潔に書かれた手紙に、私は誰に向けるでもなく頷いた。
茶会当日。私は辻馬車を乗り継いで来た。もちろん、我が家のホコリを被った馬車を操作できる人がいなかったからだ。
ガタガタと荒い揺れに身を任せていると、何度目かのうたた寝の後ラベリア様の屋敷についた。
玄関に行けば、執事と思わしき男性に応接間に案内される。
応接間には既にマリア様がいた。
「久しぶりですね、ガブリエル様」
おっとりとした喋り方は、もう彼女の何処にも残っていなかった。それくらい密度の濃い時間が流れたのか、彼女は今、公爵令嬢であらんと気を張っているのか、判断がつかない。
「お久しぶりです、マリア様」
私も、自分が上手に笑えたかはわからない。
そこからポツリポツリと、言葉を交わした。
そうしている内に、ドアノブが捻られる無機質な音が響き、ラベリア様が入ってくる。
私たちは、息を呑んだ。
ラベリア様は、真っ黒な服を着ていた。
それは、彼女の身内が亡くなった事を雄弁に語っている。
「……ラベリア様」
乾いた声は、私とマリア様、どちらが発したモノだったのだろうか。
ラベリア様は、儚い顔をした。
「……お父様が、戦地で。部下を庇ったそうです。とても、お父様らしいと思いませんか?」
初めて、死を間近に感じた。
あの豪快に笑う笑顔が脳裏をよぎる。その笑顔になにか特別な感情を持つには至らなかったが、私の脳に次に浮かんだ人に、喉を詰まらせた。
水色の髪を風にたゆたわせ、ラベンダー色の目を細めながら私を優しく見つめてくれていた彼。
ぶわりと、全身のうぶ毛が立ち、目頭が熱くなった。だけど、ここで泣くのはお門違いだと自分を戒める。
そんな葛藤をマリア様もしたのか、応接間には暫し沈黙だけが支配した。
「二人共、そんなに怯えなくて大丈夫ですよ」
沈黙を破ったのは、紅茶に砂糖を放り込み、スプーンでくるくるとかき混ぜるラベリア様だった。
「今日、私は二人とお茶会がしたかったんです。ただ、それだけなんです」
メイドが扉をノックして入ってきた。カートの上には、三角の形をした茶色のケーキが三つ載っている。
ふと、チョコレートケーキを食べるのは久しぶりな事を思い出した。
私の19歳の誕生日、私よりも早く年を取る彼はもういなかった。20歳の誕生日、日々の生活で、余分なモノは削ろうと決めた時、甘味は一番最初に消えた。
久しぶりに見たチョコレートケーキは、どっしりとしていて、私は自分の喉が渇くのが分かった。
チョコレートケーキを食べない、それどころかフォークすら持たない私に、二人は不安そうな顔をする。
「ガブリエル様が好きと言っていたので取り寄せてみましたけど、なにか違いました?」
「っ……。いいえ、いいえ。このチョコレートケーキはなにも違いません」
ただ、彼が隣にいないだけ。
その瞬間。ポロリと涙が零れた。あまりにも突然で、だから私は涙を止める事も出来ず次から次に涙を零す。
――スープを食べている時、私はいつも吐いてしまいたくなっていた。
「か、彼は。今も、いまも寒い場所にいるのにっ、わた、私だけ、こんな幸せで。……辛いん、です」
彼がいない幸せを見出そうとした時、今の生活も酷いモノじゃないとふと思った時。私は猛烈に死にたくなる。
お腹を空かせて
寒い思いをして
暑い思いをして
辛い目にあって
死にそうな目に遭って
そんな風に辛い想いをしている彼を想うだけで、心臓がけたましく音を鳴らす。
彼の訃報が耳に入る前に死んでしまいたいと、何度願った事か。
うわああん、と大声を上げる私の背を、マリア様が撫でた。優しい撫で方に、一層涙が誘われる。
チョコレートケーキが載ったお皿をひっくり返してしまいそうな私の手を、ラベリア様が優しく掴んだ。案外強い力に、私の激情が一瞬凪ぐ。
「ガブリエル様、どうしてアルチュール様たちは戦っているのですか?」
ラベリア様の柔らかい声に、私は耳を傾けた。
「国を守るため?」
「もっと、本質的な事です。簡単な事です。――私たちの幸せを守る為に、彼らは今戦っているのです」
はっと、息をするのを私は忘れそうになった。
「それなのに、貴女が幸せを享受するのが怖いと泣いていたら、彼らはどう思うでしょう?」
マリア様も幼子に言い聞かせるように私に囁いた。
「……とっても辛くて、悲しいと思うに決まってますわ」
「そうです。だから、私たちは幸せでいなければなりません。それが、彼らの、ひいてはお父様たちの心の安寧にも繋がるのですから」
「心の、安寧……」
「向こうの世界でお父様は、幸せな人を見たらきっとこう言いますわ。『ああ、その笑顔が見れたならもう十分だ』と。
……私も少し前まで辛かったですが、その時ふと優しく笑うお父様が脳裏に浮かんで、ようやく心の整理が出来ました」
顔を上げると、ラベリア様の美しい瞳は濡れていた。
その瞳に、心臓を縛り上げていた拘束が楽になるのが分かった。
「……はい、ありがとうございます、ラベリア様、マリア様」
チョコレートケーキを口に運ぶ。甘くて甘くて、脳がクラクラした。
必死に口にチョコレートケーキを運ぶ私に、マリア様が微笑みかけた。
「それに、戦争はきっともう少しで終わりますわ。近々、我が国の王と戦争をけしかけた国の王が会議を開くらしいのです」
「その情報はどうやって……」
「ふふ、私は社交界や学園の全ての情報に精通していた事をお忘れですか?」
片目を瞑ったマリア様の笑顔に、私の頬も緩んだ。
「――だからきっと、あともう少しの辛抱ですわぁ」
「それは嬉しい情報ですわね、ガブリエル様、――幸せになりましょう、皆で」
「……はいっ」
そして、一ヶ月後。戦争をけしかけた国と協定を結ぶという、大きな被害を出した割には平々凡々な落とし所で、戦争は幕を閉じた。
そこから一週間くらいでメイドや執事もまたチラホラと戻ってきてくれて、屋敷に活気が戻って来た。少しずつ、戦争の傷跡が薄れていく気がする。
私は復興を手伝いながら、彼の帰りを今か今かと待っていた。
だけど、彼から初めて届いた手紙で、私の頭は真っ白になった。
『他に好きな人が出来た。婚約破棄してくれ』
◇◇◇
かなり久しぶりの馬車に揺られながら、私はアルチュール様の事を考えていた。スー、と涙が流れるのにも気に留めず、彼との思い出に耽る。
「……本当に、馬鹿な人」
もう一度同じ言葉を繰り返していると、急に馬車が止まった。
何事かと窓硝子を覗き込むと、馬にまたがったルドルフがいた。怪我をしてボロボロな姿だが、最初に出会った頃よりも凛々しく、まさしく騎士という出で立ちだった。
私は扉を開け、ルドルフに近づく。ルドルフも馬から降りた。
「ルドルフ様」
「ガブリエル嬢、本当にすまなかった……っ」
唐突な謝罪に、首を傾げた。ルドルフは頭を下げたまま、尚も続ける。
「アルチュールがあんな馬鹿な真似をしたのは、俺を庇ったせいだ……。本当に、本当にすまないガブリエル嬢」
「大丈夫です。全部分かっていますよ」
私の答えに、ルドルフは驚いたように顔を上げた。その額に、そっとデコピンする。
「これで、全部チャラです」
「……君にデコピンされたと知ったら、あいつに怒られちゃうな」
「うふふっ」
私は、彼にカーテシーをした。
「この国に住まう民の為にご尽力いただき、ありがとうございます、ルドルフ様」
「ああ、どうもありがとう。あいつをどうか、頼んだよガブリエル嬢」
「はい」
私は、ルドルフ様に背を向け馬車に乗り込んだ。
だから、ルドルフ様が私の背を見つめ「あいつが君を諦めるなら俺が……だなんて、一瞬でも考えたのが馬鹿だったな。君はアルチュールを、まだ諦めていないのに」と言った事には気が付かなかった。
馬車はゆっくりと動き出す。ルドルフ様に手を振ると、彼もそっと返してくれた。
アルチュール様の屋敷についた。使用人やアルチュール様のお父様たちは私を温かく出迎えてくれ、アルチュール様に会いたいと言えば涙を流しながら案内してくれた。
「君に役割を押し付けるようで申し訳ない。だがきっと、今のあの子には君の声しか届かない」
「でも、無理だと思ったら無理をしなくて良いのよ。私とお茶をしましょう?」
「ありがとうございます。でも大丈夫です。役割を押し付けられたなんて事、一度も思った事ないので」
私がそう言い切れば、絞り出すようにアルチュール様のお父様とお母様は「ありがとう」と言った。
「それから。あの子に騎士の道を勧めてくれて、本当にありがとう」
「あの子が毎日楽しそうなのを見て、私たちは自分が恥ずかしくなったわ」
アルチュール様の扉の前に来ると、二人は声を合わせて「今も昔も、あの子を信じてくれて、ありがとう」と頭を下げた。
私も声を震わせながら感謝を述べ、頭を下げると二人は穏やかな顔をして去っていった。
二人が去った後、静かになった廊下で私は胸元から一枚の手紙を出した。
それは、戦争が始まってから彼が初めてくれた手紙。私からは何通も送ったが、足枷になりたくないと返事は不要としていた。
だから、初めて来た手紙に覚えたのは歓喜ではなく恐怖で、そしてその予想は当たった。
「……馬鹿なアルチュール様」
『――おい、アルチュール。もう三十回は書き直してるだろ。一回休め』
『でも、これを書かなきゃ』
『俺がお前の筆跡に似せて書いてやるよ』
『ありがとう、ルドルフ』
『これで礼を言われても、嬉しくなんかない。こんな手紙に時間をかけるなら、ガブリエル嬢に会って話してこいよ』
『それは、できないよ』
左手で筆を握っていたアルチュール様は、ふーとため息をついた。
『利き手じゃないとこんなに文字を書くのは難しいんだな。こんなヨレヨレの字じゃ、ガブリエルは聡いからすぐ気づいてしまうよ』
『……ガブリエル嬢は、どんなお前もきっと愛しているよ。右手と左足がなくなったのがなんだ。君に会えないほうが、よっぽど彼女は辛いと思うぞ』
アルチュール様はその問いかけには答えず、ただ笑っていた。
『それに、義手と義足を使えば……』
『それでも、ガブリエルに一生迷惑をかける事になる』
そこだけ、妙にきっぱりと彼は言った。
『だから、彼女には僕なんか忘れて幸せになって欲しいんだ』
ルドルフ様の声が震えた。
『俺を庇ったせいで、お前が。あともう少し耐えれたら戦争は終わったのに。俺が毒矢で射られそうになったからお前が……っ。本当に、本当にすまないアルチュール』
『謝りっこはなしだと言っただろうルドルフ。君だって、僕を庇って腕に一生消えない傷跡を負った』
彼らはお互いに笑い合うと、ルドルフ様がアルチュール様から筆を受け取った。
『お前の字に完璧に似せるのは難しいから、短い文でいいか? こんな二十何行も書いたらバレる』
『しょうがない、我慢するか』
『「愛してる」って書き加えとくか?』
『絶対にやめてくれ。決意が鈍る』
お互いにポンポン言い合いながら、便箋に端的な文章が書かれた。
そしてその便箋は封筒に丁寧にしまわれ、私の下へ来た。
私は言葉を零す。
「ありがとう。貴方が記憶を覗かせてくれたから、彼を一瞬でも疑わずにすみました」
まあ、彼に本当に振られたとしても、諦める気は毛頭なかったけどね。
私は扉をノックした。
返事はない。だけどそれで構わない。
だって彼は絶対に、耳を傾けているから。扉の記憶を覗かなくとも、それは確信できた。
私のこの力は、きっと優しい貴方に嘘をつかせない為にある。