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「いたっ……。ガブリエル、もっと優しく」
「十分優しいと思いますけど?」
情けない声を上げる彼に、少し棘のある返事をしてしまった。
それへの自責の念に駆られながら、私は彼の頬にアルコールに浸した綿をあてる。既に血は固まっているが、痛々しさは褪せる事なく、むしろ増していると思う。
彼の体に無数にある傷の一つ一つを見る度に、私の心がジンと痛んだ。ポツリと、言葉が漏れる。
「私が、あの時騎士科を勧めなければ……っ」
「なにか言った? ガブリエル」
私はこみ上げる激情を押さえる為に、アルチュール様の今度は手に綿をあてた。
「……なんでもありません。『早く良くなりますように』と祈っただけです」
「ガブリエルにそう言われたら、もう痛くなくなったよ」
ニコニコと虚勢を張る婚約者様に、私は上手に笑みを返せた自信がない。
◇◇◇
入学から半年が経ち、私たちは十五歳になった。
アルチュール様も毎日走り込みに素振り、と頑張っているらしい。まだ少し幼さがあった彼が、精悍な顔つきになった気がすると思うのは、婚約者の欲目だろうか?
でも、入学から一月目に私はとある不安を抱える様になった。
「……今日はどんな稽古をなさったんですか?」
「あはは、ちょっと手合わせしてもらったんだよ」
馬車に乗って帰る時に、アルチュール様の腕に傷があるのが分かった。それから私の屋敷で手当てをしてから帰るのが普通になった。
そう、普通に。
今日も今日とてアルチュール様を治療しながら、私はため息をつく。
彼は決して私に教えてくれないけど、どうしても我慢できなくて調べたら色々な事が分かった。
アルチュール様が、公爵家の坊っちゃんたちがサボっている事に苦言を呈したら目の敵にされたこと。それから、虐めが始まったこと。
抗議の手紙を送っても、こちらの爵位が下だからか相手にされないこと。
許せない。ふつふつと怒りが私の脳を焼く。
それと同時に生まれるのは、後悔。アルチュール様に特進科を勧めていたら、彼はこんな傷を作らなかっただろうという自責の念に押しつぶされそうになる。
半年経って、虐めは消えるどころか激化している気がする。そこまで考えてもう一度ため息をつくと、グキュゥという不可思議な音が響いた。
俯いていた顔を上げれば、耳まで真っ赤にしているアルチュール様がいる。
「ああ、ごめんなさい。もうそんな時間でしたね」
「あっ、違うんだ。いや違くはないけど……」
モゴモゴする彼を催促するような視線を送れば、観念したように「……最近お昼が食べれてないんだ」とアルチュール様が白状した。
「……何故ですか?」
声が震える。ピンセットを持つ手に力が入った。
「頼まれ事が、丁度ご飯の時間と被っちゃってね」
貴方は虐められている事を隠す。
そして、辛かった事をなんでもないように言う。
――だから私が、大袈裟に捉えるの。
「アルチュール様の家には連絡を入れるので、今晩は我が家で食べましょう」
「えっ」
「あと、明日から昼ご飯も一緒に取りましょう。私が騎士科までお弁当を持っていきます。大丈夫です、私の友人にも、騎士科の婚約者と食べている人がいますので」
アルチュール様の視線が下がった。
「ガブリエルまでご飯が食べれなくなるかもしれないし、お昼ご飯は別々の方が良いと思うけど」
「そうやって貴方を野放しにしたらまたお昼ご飯を疎かにするでしょう? これは婚約者として当然の務めです」
わざとツン、とそっぽを向きながら言えば、「しょうがないなぁ、ガブリエルは」と呆れたような声音でアルチュール様は言った。
私は相好を崩す。
「さ、行きましょうアルチュール様」
「もう?」
「ええ、もちろんです。今日の晩ごはんは照り焼きチキンですよ」
食堂に向かいながらメニューを告げると、アルチュール様のラベンダーのような淡い紫色の瞳に光が宿る。
それから、なにかに気づいたように動きを止めた。
「甘くないものも、ガブリエル食べるんだ」
私のこと、どっかの妖精かなにかと勘違いしていません?
お腹もポヨってきたし食べる量減らすか……と私は密かに決意した。
◇◇◇
「ガブリエル様、なんだか今日は楽しそうですね?」
「わたくしたちと話してても上の空で、ちょっぴり寂しいですわぁ」
「あ、ごめんなさい。婚約者のアルチュール様と一緒に昼ご飯が食べれると思ったら嬉しくて……」
私をからかうように見つめるラベリア様と、眉を下げながらおっとり話すマリア様に慌てて謝罪する。
二人はクスクスと笑った。
事前に、今日一緒にお昼ご飯を取れない事は話しておいたので、純粋に揶揄われたのだろう。顔を赤らめながら頬を膨らませる私を宥めるように「ふふ、ごめんなさいねぇ。ガブリエル様があんまりにも可愛らしいものですからぁ」とマリア様が言った。
それから、ふと真剣な顔をした。
「でも気をつけてくださいね、ガブリエル様」
「……なにがですか?」
一瞬で、空気がピンと張り詰める。いつものふんわりとした雰囲気でついつい忘れてしまうが、彼女はやはり公爵令嬢なのだと実感する。伯爵令嬢の私からしたら天上のようなお方だ。
普段のゆったりとした喋り方を潜めたまま、マリア様は続ける。
「今、騎士科ではわるーい狼さんがいますの」
「わるーい狼さん、ですか?」
「ええ、孤独な狼さんが一匹。この狼さんはとても獰猛で賢いので、飼い慣らせる人がいないんですわ」
直感的に、アルチュール様を虐めている主犯である公爵子息だと思った。
「その狼さんに噛まれたらどうしましょう」
「……ガブリエル様には素敵なナイトがいらっしゃるから、きっと大丈夫です。ですが、もし狼さんを飼い馴らせたいと思った時、わたくしが今から話す事を思い出してくれたら嬉しいですわ」
「そ、それは一体」
「どんな凶暴な子も、自分より強い者にはひれ伏す、という事ですわ」
腕力でねじ伏せろ、という事だろうか?
首をかしげる私に、呆れたようにラベリア様が言った。
「つまり、『戦う勇気も必要だ』って事ですか?」
「そう、それですわぁ。さすがラベリア様」
マリア様が私の手を握った。
柔らかい白い手に、一瞬吸い込まれた心地がした。
「痛めつけられるのを甘んじるのは、ただの『餌』です。同じ『生物』として対等でいたいのなら、全てを恐れぬ豪胆さも必要なんですよ。
……もうこんな時間ですねぇ。騎士科のお昼ご飯の時間になったと思うので、どうぞ行ってらっしゃいませ」
ラベリア様にお弁当を二個持たせられ、マリア様に「さあさあ」と背中を押された。
見事な連携プレーに感動しながら、私はアルチュール様の所に向かいだした。
少し急ぎ足で向かえば、訓練場が見えてきた。
建物の陰から覗いてみれば、汗をかきながら剣の素振りをしているアルチュール様がいた。上半身裸で、私は顔を真っ赤にしながら手で目を覆った。
な、なんか腹筋とか割れててすごいかっこよかった……。もう一回見ても良いのかと思案する。
良いよね!? 婚約者だし、良いよね!?
勇んで出ようとした私の手を、誰かがクイと引いた。
「お前誰だよ。ここは女の場所じゃないんだぞ」
「……それは失礼しました。婚約者のアルチュール様を呼んだらすぐ退出しますので、ご容赦ください」
私は金髪の男――アルチュール様を虐めている男と一致する情報を持つ男に鳥肌が立った。虐めの主犯格である公爵子息のルドルフだと思われる男は、鼻を一つ鳴らす。私の腕を掴んだまま。
「おい、あいつに渡すくらいなら、その弁当俺が食ってやるよ。お前もその方が嬉しいだろ?」
「それはできません。私はアルチュール様に食べて欲しいのですから」
彼の顔つきが変わった。
獣をいたぶる目から、喰い殺す目へと。
「おい、俺はエルバレト公爵家の者だぞ!? 立場を弁えろよ!」
「あら。公爵家では女性の腕を乱暴に掴むのが作法なのですか?」
ひたとルドルフの瞳を見据えながら言えば、顔を険しくした彼の手に、力が入った。
鍛える事を知らない私の細腕が悲鳴を上げる。
「いた……っ」
「なんなんだ、お前は! 調子に乗ってるんじゃないぞ!」
「――ガブリエルに手を出すのはやめてください」
七年間、聴き続けた声が私の耳をなぞった。
振り向かなくてもわかる。アルチュール様が私の後ろにいる事に。
その事実だけで、凄まじい程の安堵が広がった。
「はっ、偉そうな口を聞くんだな、アルチュール。婚約者が側に来た途端正義のヒーロー気取りか?」
「ガブリエルから手を離してください、ルドルフ様」
私の腕を掴むルドルフの手に、そっとアルチュール様の手が重なった。――そして、素人の私でも分かるくらいの強い力でルドルフの腕を握りだした。
「が、ぁ……っ」
「早く」
「くそ!」
パッと私の手を乱雑に離すと、足早にルドルフは去っていった。
ふん、小物だな。と掴まれた腕を擦りながらルドルフに舌を出していると、唐突に腰を掴まれ、クルリと体を回された。
さっきまで私の後ろに立っていたアルチュール様と、向かい合う形になる。
「ごめん、ガブリエル。僕が不甲斐ないから君に怖い思いをさせた」
「いいえ。貴方が謝る必要はありません。むしろ、私の危機に颯爽と駆けつけてくれて嬉しかったです!」
「そう……?」
少し照れたように頬を赤らめるアルチュール様に、心臓がキュンと音を立ててから、私はとある事実に気づいた。
「……アルチュール様、お伝えしなければならない事があるんですけど」
「伝えたい事?」
「はい。――服を、着てください」
彼は上半身裸のままだった。
厚い胸板と綺麗に割れたお腹に鼻血が出そうになるのを必死に堪え、なるべく冷静に聞こえるように伝えると、アルチュール様は顔を真っ赤にした。
「ご、ごめんガブリエル!」
ちょ、そんな乙女みたいな反応やめてください。ガン見してる私の方が変態じゃないですか。
心の中で思わず突っ込んでしまった。
それからアルチュール様は走って訓練場の方に行き、上にラフなシャツを着て帰ってきた。
◇◇◇
「……すっごく美味しそう」
裏庭のベンチに腰掛けた私たちはお弁当を開いた。
今日はサンドイッチと、その他色んな具をお弁当に詰めてもらった。
「早速食べましょう、アルチュール様」
「うん」
アルチュール様が大きな口ではぐっと、ハムとレタスと茹で卵が挟まったサンドイッチを食べた。もう半分位なくなってて、気持ちいいくらいの食べっぷりに嬉しくなる。
私も厚いベーコンが挟まったサンドイッチを食べた。ベーコンのジュワッとした美味しさに、さっぱりとした千切りキャベツとまろやかなマヨネーズソースが加わってとても美味しい。時折ピリッと胡椒が効いていくら食べても飽きない。
しばらく頬張っていると、気づけばアルチュール様は他の具をフォークを使って食べていた。
トマトやブロッコリー、パスタを順々に食べていた彼の手が、ある一点を見て止まった。
「これは……」
そう言って彼がフォークで刺した不格好なモノの説明をしようと私は口を開こうとした。
――だが、なにかが飛んできてそれどころではなくなってしまう。
「ガブリエルッ」
アルチュール様に抱きしめられた感覚がした瞬間、なにかが勢いよく打つかった音が響いた。
音が静まった後、アルチュール様に抱きしめられたまま周りを見ると、お弁当が地面に転がり無惨な姿になっていた。
「お弁当が……」
「おい、なにか大きな音がなったけどどうしたんだ?」
ポツリと呟いた後、下卑た笑みを浮かべながらルドルフと他3人の男子生徒がやって来た。
私は体を震わせながらも、お弁当を無惨な姿にした木刀にそっと触れる。
そして、この木刀を投げたのはルドルフたちだと直感した。
じんわりと目に涙を溜めながらぐちゃぐちゃになったお弁当を拾っていると、私からアルチュール様が体を離す。
ゆっくりと歩き出したアルチュール様を目で追うと、彼はルドルフたちの前で止まった。
ルドルフたちも、私も首を傾げてアルチュール様の動きに注視していると、彼が動く。
一瞬の後、大きな音と共に気づけばルドルフが地面に倒れていた。ルドルフの赤くなった頬と、アルチュール様が拳を握りしめている事から考えるに、まさか殴ったのだろうか? 普段穏やかな彼からは想像も出来ない姿に瞠目した。
「ガブリエルに謝ってください」
「お前っ、俺を殴るなんて、どうなっても良いのかっ!」
「ガブリエルに、謝ってください」
「そんな弁当ごときに、なんで執着してるんだよ! この貧乏野郎が!」
アルチュール様が、弁当を拾い集める私の手を制し、ぐちゃぐちゃになった具の一つをつまみ上げた。
「これは、このキッシュは、ガブリエルが作ってくれたものです」
「……? なんでそんな事が分かるんだよ。……ああ、ぐちゃぐちゃできったないからか? たしかにそんな汚いモノ、シェフは作れないもんなぁ!」
「違います」
アルチュール様は、ぐちゃぐちゃになったそれを躊躇いもなく食べた。「アルチュール様!? 汚いので食べちゃ駄目です! 吐き出してくださいっ」と声を荒げる私に、彼はゆっくりと微笑みかけ「うん、やっぱり」と言った。
「このキッシュには、じゃがいもが入ってます。僕がじゃがいもの入ったキッシュが好きなのを知っているのは、ガブリエルだけなんです」
胸が熱くなった。上手く息が吸えなくて、ヒュゥッと喉から音がなった。
そう。アルチュール様がじゃがいもが入っているのが好き、という事は、私しか知らない。だから恒例のお茶会の時も、ほうれん草が入ったキッシュしか出たことがない。
不格好なキッシュを、不格好だからという理由以外で私が作ったと気づいてくれたアルチュール様に、愛しさがこみ上げる。
その後もパクパクと地面に落ちたお弁当を食べる彼を必死に止めていると、罵声が響いた。
「お前っ、俺と勝負しろ! 俺が勝ったら、婚約者共々学園から出ていけ!」
取り巻きに支えられながら叫んだルドルフ。それは決闘の申し込みに違いなかった。
横を見ると、アルチュール様も険しい顔をしている。
「分かりました。では僕が勝った暁にはガブリエルに謝罪してください」
「はっ、いくらでもしてやるよ。勝てたらの話だけどな」
決闘は三日後に決まった。
ルドルフたちが去った後、私は密かに息を吐き出した。
私のせいだ。私が、お弁当を持ってきたから。アルチュール様とご飯を食べたいと言ったから。
――騎士科を、勧めたから。
特進科に行っていたら、もっと彼は幸せだったのかもしれないのに。
項垂れる私の手を、アルチュール様が優しく握る。
「ガブリエル、今日は美味しいお弁当をありがとう。ガブリエルのおかげで、今日はとても楽しかった」
「……っ」
何処までも優しい彼を見たら、知らず知らずの内に私の頬を涙が転がった。
ポロポロと声を殺して泣く私の背を、アルチュール様が困った顔をしながら擦ってくれる。
「大丈夫だよ。僕は絶対に負けないから」
その言葉になにも返さず、私は嗚咽を繰り返した。
私を恨まない貴方が、ちょっとだけ憎たらしくて。
だけどとびきり、愛おしい。