第172話 私だって
私に選択肢なんて無い。
もう、なにもかも手遅れ。私の手は汚れきっている。後戻りなんて出来ない。
なのに父さんに見放されてしまった。
私の居場所なんて……もう……何処にも…………
「その娘は儂の手のものではない」
「鈴から出て行けっ!」
「往生際が悪いのぉ。こんなにもヒントを与えておったのに、まだ分かりゃぬのか」
「ヒント?」
「確かに儂の名は〝良部 鈴〟と書く。だが読み方が違う」
「読み方?」
「良部 鈴ではない。良部 鈴が正しい読み方なのだ」
「良部……鈴?」
「そうだ。イーブリンは海外読みといったとこりょかの。儂は国際指名手配犯だかりゃな」
「そうだったのですか」
「そういえば、名前のことは話してなかったか」
「はっ」
「ここまで言えば分かりゅだろうが、11260も、イーブリンの語呂合わせだ」
「…………嘘だ」
「嘘ではない」
「嘘だ、嘘だ嘘だっ」
「いい加減認めりょ。見苦しいぞ」
「うあ、ああああ、ああああああああああああ」
「マスター!」
「もう限界よ。ナースでも支えきれない」
「なんとかするのがナースの仕事でしょ!」
「無理なものは無理。ナースでは……ううん、私たちではもう無理」
「そんな……」
そんな……折角また会えたのに……
このままモナカが壊れるのを見ていることしか出来ないの?
凄くうつろな目で空を見上げて頭を抱えている。
「エイル」
いきなり私の方を向いてその虚ろな目で私を見つめてきた。とても怖くて、思わず顔を背けて下を向いてしまった。
「エイル」
モナカがゆっくりと近づいてくる。まるで死人が声を発しているかのような、恐ろしい声が近づいてくる。
「エイル」
地獄の門番が近づいてくるように感じてしまう。後ろめたさがそう感じさせているのかも知れない。
「エイル」
合わせる顔がない。
あのとき、連れてこなければよかった。時子に渡してくればよかった。
「エイル」
モナカなら受け入れてくれるかも……なんて、甘い夢を見ていたから。
足音が止まった。視界の隅っこにモナカの足が見えるほど近い。
「エイル」
無視、させてくれないのね。腹を括るしかないわ。
「……なによ」
絞り出さなければ声なんか出せなかった。それでも、掠れて弱々しい声しか出てこなかった。
なにを言われても仕方がない。それだけのことを……私は…………
「抱きついてもいいかな」
どんな罰でも受け入れて…………ん?
「マスター?!」
「モナカ?!」
「モナカ君?!」
「兄様?! わたくしならいつでも宜しいのでございます!」
え?
今……モナカはなんて言ったの?
「ごめんなさい」
「ダメなのか?!」
なんて悲しげな声をするの。
心が押しつぶされて今にもブラックホールになりそうじゃない。私の心まで引きずり込まれてしまいそうよ。
「そうじゃなくて、よく聞こえなかったから、もう一度言ってくれないかしら」
だって、有り得ないことを言われたような気がするんだもの。
「エイル」
「は、はい」
なにどもっているのよ。みっともない。
……ああ、もぅ。
「抱きついてもいいかな」
し、心臓がヤバいくらい跳ね上がった。
違う。絶対に違う。勘違いをするなっ。
お、落ち着いて……お願いだから落ち着いて、私の心臓。あああああああっ。
「えっと……今〝抱きついてもいいかな〟って聞こえたんだけど、聞き間違い……よね。は、ははは」
なんて都合のいい聞き間違いをしてしまったんだろう。きっと疲れているんだわ。
それとも、心の奥底に眠っていた願望を掘り起こされた? っはは。なんてキツい罰なのかしら。
「聞き間違いじゃないぞ」
「ふえ?! モ、モナカ?」
ほ、本当……に? ああ、心臓が、壊れちゃうっ。
これが罰だというのなら、心臓を壊すための罰だというのなら、なんて残酷で幸せな罰なのかしら。
「エイル、拒否しないで下さい」
「ナース?! なに言っているの!」
「今マスターの精神は壊れるか壊れないかの瀬戸際なのよ。ここで拒否なんかされたら確実に壊れてしまうわ。みんなだってエイルが〝ごめんなさい〟って言った後のマスターの声を聞いたでしょ。顔を見たでしょ。エイル、マスターのことが好きなら受け入れてほしいの」
モナカを、受け入れる?
「時子も、みんなも、言いたいことはあるでしょうけど、今だけは飲み込んでちょうだい」
モナカが、私を必要としている?
「やっぱりダメなのか?」
嘘……でしょ。
「お願いしますっ。マスターが選んだのは、タイムでも時子でもアニカさんでもナームコさんでも、フブキさんですらない。エイルなのよっ」
フブキですらない?
それこそ嘘だわ。モナカが私を選ぶなんて……
「警察に突き出すんじゃなかったのか?」
「父さんは黙ってて!」
「ご、ごめんなさい」
顔を上げてモナカを見る。
ダメっ、やっぱり見られないっ。
一瞬だけ見えたモナカの顔は、今にも泣きそうだった。雨の中、ずぶ濡れになって拾ってくれる人を待っている、凍え死にそうな子犬みたいだった。
本当に私を? そんな顔をされたら、断れないじゃない。
……違う。そんなことを言い訳にして逃げるな。私だって、モナカのことを……
次回、ただの日常風景