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鬼起怪解 ~エンマの部下の、むちゃくちゃ強い青鬼(アオキ)さん  作者: Jester Hide
グラプトライト ~Break the Dream~
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エピローグ ―あれから―

あれから十五年の歳月が流れた。


後楽園ホールの熱気が、リングを照らすカクテル光線の中で渦を巻いている。

割れんばかりの歓声と野次。

その中心で、ゴウノ・タケシは静かに呼吸を整えていた。


日本タイトルを懸けた最終ラウンド。

彼の顔は腫れ上がり、巧みなラフファイトによって刻まれた無数の傷から血が滲んでいる。

だが、その瞳は、嵐の夜の灯台のように、静かで、揺ぎない光を湛えていた。


相手は、野獣のような猛攻とダーティーなテクニックでKOを量産してきた無敗のチャンピオン。

消耗しきったタケシの体に、ルール違反ギリギリの肘や頭突きが容赦なく叩きつけられる。

観客席の最前列で、母であるマキが固く手を握りしめ、祈るように息子を見つめていた。


「タケシ! 足を使え! 距離を取れ!」

コーナーポストの下から、ハセガワの野太い声が飛ぶ。

かつての粗暴な面影は薄れ、今はタケシのセコンドとして、誰よりも的確に、そして熱く指示を送っていた。


ロープ際に追い詰められ、意識が遠のきかけた瞬間、タケシの心に葛藤が生まれる。


――こいつと同じように、俺もラフに戦うか?

――無礼には、無礼で返すまでだ……


そう考えた彼の脳裏に、あの日の光景が鮮やかに蘇った。

顔のない怪物たち。

鳴り響くアラーム。

そして、絶望の淵で聞いた、あの静かな声。


――マナーが人を強くするのです。


そうだ。恐怖や怒りに心を食い尽くされれば、人は獣になる。

だが、礼節を、誇りを失わない限り、心は決して折れない。

タケシは、朦朧とする意識の中で、かすかに笑みを浮かべた。

「おいタケシ! 聞こえているのかッ!! 返事をしろ、タケシ!!!!」


焦燥に駆られたハセガワの声が、リングの喧騒の中で響く。

だが、タケシはゆっくりと顔を上げると、腫れ上がった瞼の隙間から、静かにハセガワを見返した。

その口元には、不思議なほど穏やかな笑みが浮かんでいた。


「……聞こえていますよ、ハセガワさん。何度も言わなくても」


「なんだと……?」


「不思議なんです」


タケシは、まるで他人事のように、自身の状態を語り始めた。


「体はもうボロボロで、骨が軋む音さえ聞こえる。目の前は血で赤く滲んで、ハセガワさんの声も、観客の歓声も、まるで遠い世界の音のようだ。なのに……頭の中だけは、まるで嵐の後の静かな湖みたいに、最高にクリア(冷静)なんです」


ハセガワは、タケシのあまりに落ち着いた様子に、言葉を失った。


「ハセガワさん。何が、人と獣を分けるか知っていますか?」

「……あぁ?」

「理性ですよ」


タケシは、マウスピースを外し、血を吐き捨てながら言った。


「あのチャンピオンは、俺にとっちゃただの獣だ。ルールを無視し、欲望のままに拳を振るう……マナーのなっていない獣なんですよ」


タケシの瞳に、確かな信念の光が宿る。


「獣の牙は鋭く、爪は速い。でも、それだけだ。先の先を読み、一瞬の隙を突く……それは、恐怖を理性で乗り越えた人間にしかできない芸当だ。あの人に、そう教わった。だから見ていてくださいよ。これから、獣が人に勝てない理由を、あのリングの上で証明してみせますから」


カンッ! と最後のラウンド開始を告げるゴングが響き渡る。

タケシは静かに立ち上がると、ゆっくりとリングの中央へと歩を進めた。

満身創痍を装うタケシの姿を見てチャンピオンは勝利を確信し、とどめの大振りな一撃を放つ。

その、獣じみた欲望に満ちた一瞬の隙を、タケシは見逃さなかった。


体を沈み込ませ、チャンピオンの拳を紙一重でかわす。

そして、全ての想いと理性を乗せた、美しく、クリーンな右のカウンターが、チャンピオンの顎を寸分の狂いもなく撃ち抜いた。

スローモーションのような光景の中、巨体が糸の切れた人形のようにキャンバスへと沈んでいく。


ゴングの音が、ホールに響き渡った。

熱狂する観客。

泣き崩れるマキ。

リングサイドで、ハセガワが雄叫びを上げてガッツポーズを作る。

レフェリーが高々と掲げたタケシの腕は、あの夜、母親を守るために握りしめた小さな拳の、確かな続きとなった。


試合後の喧騒が少し落ち着いた頃、タケシは一人、控え室で汗を拭いていた。

コンコン、とドアがノックされる。

入ってきたのは、見慣れない配達員風の男だった。


「ゴウノ・タケシ選手ですね。ファンから、差し入れを預かっております」


男はそう言うと、小さな紙袋をタケシに手渡し、深く一礼して足早に去っていった。


不審に思いながらも紙袋の中を覗き込んだタケシは、思わず息を呑んだ。

入っていたのは、揚げたてのフライドポテトだった。

誰からの差し入れかは、分からない。だが、その懐かしい塩の香りが、タケシの胸に温かい何かを灯した。

タケシは熱いポテトを一本、ゆっくりと口に運ぶ。

しょっぱい味が、涙の味に混じって、静かに口の中に広がっていった。


====冥界====


――そこは、時間の流れさえも曖昧な場所。

その空間の中心に、黒曜石の巨大な机が鎮座していた。

表面には銀河が渦を巻いているかのように、淡い光の帯がゆっくりと流れている。

玉座のような椅子に腰かけたエンマは、一心不乱にペンを走らせていた。

夜空を溶かしたような長い髪には、星屑が瞬き、その厳格な横顔を照らし出す。

彼女が描いているのは、ありとあらゆる世界の、ありとあらゆる生物のスケッチ。

それは記録にあらず、審判にあらず。

ただ、忘れ去られゆく魂の形を、この時の澱みの中に留めるための、孤独な儀式であった。


その静寂の中に、アオキは音もなく佇んでいた。

現世での任務を終え、冥府へと帰還したのだ。

その手には、一枚の古びた新聞が握られている。

インクのかわりに、遠い記憶の香りが立ち上っていた。


「……珍しいではないか。お前が現世うつしよの出来事に関心を持つなどと」


背後から、荘厳で、しかしどこか退屈そうな声がした。

エンマだ。

アオキは、読んでいた新聞の一面に指を落としながら、静かに応じた。

「ええ。なかなか見ごたえのある若者が出てきましてね」

その指が示す先には、リングの上で誇らしげに拳を突き上げる、一人の青年の写真があった。


アオキは新聞を畳むと、音もなくエンマの傍らに立ち、彼女の手元を覗き込んだ。

羊皮紙の上には、黒い粘板岩に刻まれた筆記体のような、奇妙な化石のスケッチが描かれている。


「珍しいですね。あなたが動物以外のスケッチをなさるとは」

「これはフデイシだ、バカ者がッ」


エンマは、ペンを止めることなくぶっきらぼうに答えた。


「はて、フデイシとは?」

「その生物の骸が、あたかも岩に筆で字を書き付けたかのように見えることから、人がそう名付けたのだ。とある地の言葉では『書かれた石』――グラプトライトとも呼ばれているな。……オルドビス紀からシルル紀にかけて、古の海を漂っていた群体生物よ」


エンマは、まるで昨日のことのように語る。


「奴らは、枝のような構造体に無数の個体が連なり、海中の有機物を濾し取って生きていた。単体では脆弱だが、群体となることで初めて意味をなす、か弱い魂の集合体といったところか」


その説明に、アオキは何かを思い出したように、静かに続けた。


「そう言えば、“人喰いショッピングモール”の一件の彼……ムラカワでしたか。彼も確か、群体生物に転生させたのでしたね」


エンマの手が、ぴたりと止まる。


「確かエンマ様はこう仰っておりました。『あの陰険な男の歪んだ自我など、群体という大河の中に注ぎ込めば、たちまち希釈され無になるだろう』と」


アオキは、まるで昨日のことのように、エンマの言葉を正確に諳んじてみせた。

そして、わずかに口の端を吊り上げて続ける。

「まさか。ムラカワの歪んだ自我があっという間に群れの全てを支配下に置き、劣悪なリーダーになってしまいましたがね」

「……ムラカワの歪んだ記憶が群体全体を汚染し、人々を捕食するようになるとはな。私の、采配ミスだ」


不機嫌さを隠そうともしないエンマの言葉に、アオキはただ静かに耳を傾けていた。


「しかし、お前なあ」


エンマは、ペンを置くと、苛立たしげにアオキを睨みつけた。


「あれ、どうやって倒したんだ? あの空間は、奴の歪んだ精神が創り出した集団催眠……いわば、奴の『夢』の世界だったんだろうが」

「ええ、その通りです」

エンマの問いに、アオキはこともなげに答えた。


「ですので、彼に『死』という強烈な概念を、直接植え付けて差し上げたまでですよ。この拳でね」


アオキは、軽く自身の拳を握って見せる。


「まあ、あの世界ではキタジマという若者も、思い込み一つで命を落としていましたからな。あるいは、と思った次第です」


エンマは、呆れたようにため息をついた。


「……もし、倒せなかったらどうするつもりだったんだ?」


「ええ、その時は」


アオキは、ごく当たり前のことのように言った。


「超法規的措置として、夢の外にいる彼の本体を、物理的に粉砕するまででした。その場合、夢に取り込まれた者たちの意識が戻る保証はありませんでしたがね」


アオキは、悪戯っぽく微笑んだ。


「まあ、結果オーライというやつです」

「……えげつな」


最後までお読みいただき、ありがとうございます。


もし少しでも内容が面白かった、続きが気になると感じていただけましたら、ブックマークや、画面下部の『☆☆☆☆☆』を『★★★★★』に変えていただければと思います。


ブックマークや星の評価は本当に励みになります!


どんな小さな応援も感謝します、頂いた分だけ作品で返せるように引き続き努力していきます。


これからもよろしくお願いします。

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