ムラカワ・ミツヒデ
ムラカワミツヒデ。
彼はかつて、誰の記憶にも残らない男だった。
いてもいなくても変わらない、風景に溶けて消える染みのような存在。
社会という巨大な機械の中で、ただ黙々と役割をこなし、感情をすり減らし、自分が生きているのか死んでいるのかさえも曖昧な日々を送っていた。
強者に虐げられるのではない。
彼は、そもそも認識すらされていなかった。
世界は彼を透かしてその向こう側を見ており、彼の心は誰の声も届かない、静かで冷たい深海に沈んでいた。
彼がシステム管理者として勤めていた、巨大なショッピングモール。
その警備室の片隅が、彼の世界の全てだった。
壁一面を埋め尽くす監視モニター。
そこに映し出されるのは、欲望のままに歩き回り、飽きもせずに同じ過ちを繰り返す、無数の人間の群れ。
ムラカワは、その光のない瞳で、ただぼんやりと光点の明滅を眺めていた。
冷たい雨が降りしきる夜だった。
閉店後の静まり返ったモール内で、彼は一人、モニターを眺めていた。
その時、彼の目に一つの光景が飛び込んできた。
バックヤードの薄暗い通路。
仕事を終えた若い女性従業員に、男性の先輩従業員が言い寄っていた。
最初は他愛のない口説き文句だったが、次第にその手つきは乱暴になり、女性が拒絶すると、男の目が歪んだ欲望にぎらついた。
それは、閉鎖された職場では起こりがちな、力関係を利用した醜い諍いのはずだった。
だが、モニター越しにその光景を覗き見ていたムラカワの体内に、今まで感じたことのない熱が奔流となって駆け巡った。
否応なしの高揚感。
心臓が早鐘を打ち、指先が痺れる。
彼は、ただの傍観者ではなかった。
この瞬間、彼は神になったのだ。
二人の人間の運命を、その手の中に握る絶対的な存在に。
彼は通報ボタンを押すこともできた。
警備員を向かわせることもできた。
だが、彼は何もしなかった。
ただ、固唾を飲んで、その劇的な瞬間の訪れを見守っていたのだ。
その夜の体験が、彼のすべてを変えた。
あの脳を焼くような興奮が忘れられず、彼は自らの手で「舞台」を演出し始める。
最初は、誰にも気づかれない些細な介入。
システム管理者としての権限という、見えない糸を巧みに操りながら。
週末のピークタイム。
駐車場のゲート表示を、「満車」から「空車」へシステムからほんの数秒だけ書き換える。
それは、後続車を袋小路へと誘う、悪意に満ちた罠となった。
客で混み合うエスカレーター。
大きな荷物を抱えた客が乗り込む、その瞬間を狙って緊急停止信号を送る。
大きな事故にはならずとも、バランスを崩した客同士の衝突が、ささやかな不和の種を蒔いていく。
彼の介入は、誰にも気づかれることのない、神の視点からの微調整だった。
だが、その小さな悪意は、恐ろしいほどの精度で人々の感情をささくれ立たせ、小さな悲劇を量産していく。
そのたびに、彼の心は、世界を意のままに操る万能感という名の麻薬に、深く、深く満たされていった。
やがて、彼の遊びは狂気的な領域へと足を踏み入れる。
人々の小さな不和を眺めるだけでは、もはや彼の渇きは癒されなかった。
ムラカワは、より濃密な、より決定的な悲劇を求め始めたのだ。
ムラカワは、システム管理者として得た顧客情報と、デジタルの闇を巧みに利用し、自らの「劇場」へと新たな役者を招き入れた。
地域の匿名掲示板に、彼は短い書き込みを一つだけ残した。
『今、〇〇(ターゲット)が、モールの中央広場で買い物をしている』と。
彼が事前に調査し、そのターゲットに熱狂的で危険なストーカーが存在することを知った上での、悪魔的な囁きだった。
彼はただ、監視カメラの向こう側から、二つの運命の糸が絡み合い、最悪の結末へと手繰り寄せられていくのを待つだけ。
そして、ストーカーの刃がターゲットの体に突き立てられ、人々が絶叫し、血が流れ、命が失われていく様を、ムラカワは恍惚の表情で、ただ静かに鑑賞していた。
警察が彼の存在を嗅ぎつけ、その尻尾を掴みかけた時、ムラカワの描いた脚本が、警察の捜査網さえも手玉に取った。
ムラカワが仕掛けた別の事件の混乱に乗じ、捜査は攪乱され、ムラカワは全ての証拠が揃う寸前で姿を消した。
全国に指名手配されたムラカワは、その冴えない風貌を逆手に取り、偽りの身分証を手に入れると、「オオタ」と名を変えて社会の闇に潜伏した。
かつて神として君臨した男は、再び風景に溶ける染みとなったのだ。
だが、一度燃え上がった魂の火は、彼の体を内側から蝕んでいた。
不規則な生活、偏った食事、そして何より、かつての万能感を失った空虚な日々。
それらが彼の肉体を静かに、しかし確実に蝕んでいく。
事件発覚から三年目の夏。
ムラカワは、異国の安宿の一室で、誰にも看取られることなく、ひっそりとその生涯を終えた。
死因は、末期癌。
かつて人々の運命を弄んだ神の終焉は、あまりに陳腐で、孤独な病死だった。
彼の亡骸は、言葉も通じない土地で無数の名もなき者たちと共に、名もなき墓地に埋葬された。
かつて風景の染みでしかなかった男は、巨大な悪意の神となりそして最後は再び誰の記憶にも残らない、ただの染みとなってこの世から消え去ったのだ。
――だが、物語はそこで終わりではなかった。
肉体を離れたムラカワの魂が、冷たい無の空間を漂っていた。
意識はなく、ただ在るだけの存在。
その魂の前に、突如として巨大な門が現れた。
門は音もなく開き、抗いがたい力で彼の魂を内側へと吸い込んでいく。
次に意識が戻った時、彼は広大な空間の中心に一人、ひざまずかされていた。
床は磨き上げられた一枚岩のようで、果てしなく広がるその表面には、天井に広がる色を失った星々の光が静かに映り込んでいる。
彼の目の前には、黒曜石の巨大な机と、そこに腰かけた一人の女性がいた。
夜空を溶かしたような長い髪には、星屑が瞬き、その厳格な横顔を照らし出す。
「……ムラカワミツヒデ」
その声は、荘厳で、絶対的な響きを持っていた。
声を発した女性の名はエンマ。
エンマは、彼のことなど興味もないというように、手元の羊皮紙にペンを走らせている。
「貴様の罪は、ただ人を殺めたことではない。神を気取り、魂の理を弄んだことにある」
エンマは、顔を上げることなく、淡々と告げる。
「故に、貴様には相応の『舞台』を与えてやろう」
エンマが、すっ、と指を鳴らす。
すると、ムラカワの足元の空間が水面のように揺らめき、そこに一つの映像が浮かび上がった。
そ子には、無数の筆で描いたような姿の小さな生物が映し出されている。
「キサマはこれから、この生物の一員となるのだ」
エンマは、冷徹に宣告する。
「貴様は大勢の者を、見下し、弄んだ。ならば、その他大勢の一部となるがいい。己の矮小さを、その腐った魂に永遠に刻みつけるのだ」
エンマの言葉と共に、ムラカワの魂は足元の映像の中へと、悲鳴を上げる間もなく吸い込まれていった。
意識が薄れゆく中で、彼が最後に見たのは、自分を憐れむでもなく、ただ淡々と次の仕事に取り掛かる、あの女の横顔だった。
その美しく、そしてあまりに冷徹な姿は、かつて彼自身が夢見た、絶対的な支配者。
まさしく、『神』そのもののように映っていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
もし少しでも内容が面白かった、続きが気になると感じていただけましたら、ブックマークや、画面下部の『☆☆☆☆☆』を『★★★★★』に変えていただければと思います。
ブックマークや星の評価は本当に励みになります!
どんな小さな応援も感謝します、頂いた分だけ作品で返せるように引き続き努力していきます。
これからもよろしくお願いします。




