勇気
「ほう……やりますね、ゴウノさん」
盾を構えながら、オオタが感嘆の声を漏らす。
「昔、薙刀を習っていたことがあるの。学生時代の部活で習っただけですけど、結構覚えているものね」
「……いやぁ、心強い」
だが、多勢に無勢は変わらない。
バリケードもない剥き出しの空間で、彼らはじりじりと壁際に追い詰められていく。
一体、また一体と増えていく面無しの群れに、マキの薙刀仕込みの箒さばきも、次第に対応できる範囲を超えていった。
一体を突き放せば、死角から別の腕が伸びる。
懐に入り込もうとする個体を蹴り飛ばせば、その背後から新たな一体がぬらりと現れる。
まるで、悪夢の中に湧き続ける蟲のようだった。
終わりが見えない状況、ハセガワの怒声、ミオの絶叫、そして肉を打つ生々しく鈍い音が、フードコートの空間で不協和音となって反響する。
その混沌とした光景が、マキの脳の奥底にしまい込んでいたはずの、記憶の扉をこじ開けた。
――薄暗いアパートの一室。床に散らばるビールの空き缶。
――男の酒に焼けた濁声。振り上げられた手。
――頬を打つ衝撃。
――そして、部屋の隅で小さく震える、幼いタケシの姿。
「……ぁ」
視界の端で、一体の面無しがテーブルをなぎ倒した。
ガシャン、と金属が床を打つ甲高い音。
その音が引き金だった。
マキの世界から、フードコートの喧騒が急速に遠ざかっていく。
代わりに、以前夫だった男の怒鳴り声が耳元で蘇る。
――『てめえはいつもそうだ! 駄目な奴は何をやっても駄目なんだよ!』
目の前の面無しが、無機質に腕を振り上げる。
その光景が、暴力の記憶と完全に重なった。
恐怖が、体の芯から這い上がってくる。
かつて、何もできずにただ耐えることしかできなかった、あの無力感が、津波のように彼女を飲み込んでいく。
「はっ……ひっ……ぁ……」
突然、マキの呼吸が浅くなった。
喉が締め付けられ、空気が肺に入ってこない。
先日キタジマを受け止めた時と同じ過呼吸の発作だった。
世界がぐにゃりと歪み、握りしめていた箒の柄が、まるで遠い世界の出来事のように手から滑り落ちた。
ガタン、と音を立てて床に転がる。
糸が切れたように、彼女はその場にへたり込んでしまった。
「母ちゃん!」
タケシの悲痛な叫び声が、水中にいるかのようにくぐもって聞こえる。
そのマキの、あまりに無防備な背中に、一体の面無しが音もなく近づいていた。
その手には、精肉コーナーから持ち出したのであろう、肉厚な肉切り包丁が鈍い光を放っている。
それが、躊躇なく、振り上げられた。
絶体絶命、誰もがそう思った、その時だった。
「母ちゃんに――。さわるなあああああッ!!!!」
恐怖を振り絞ったタケシが、その小さな拳を握りしめ、面無しの顔面めがけて殴りかかった。
拳が、面無しの顔があったはずの場所にめり込む。
肉の袋を叩いたような鈍い感触。
面無しは、その唐突な一撃に、ほんの一瞬だけ動きを止めた。
「くそっ……! やっぱり、アオキさんみたいには……!」
タケシは吐き捨て、殴った反動で後ずさる。
だが、その瞳から闘志は消えていなかった。
タケシはすぐに両腕を上げ、喉元と頬を庇うように掌をわずかに浮かせ、半歩だけ身を落とした。
その構え、顎を引き、相手を真っ直ぐに見据える気迫は、ほんの一瞬、あの男――アオキの姿をそこにいる全員に想起させた。
だが、目の前の怪物に感情はない。
タケシの気迫など意にも介さず、面無しは再び肉切り包丁を高く振り上げた。
銀色の刃が、薄暗いフードコートの照明を鈍く反射する。
それが、子供の小さな頭めがけて、容赦なく振り下ろされた。
タケシの死を誰もが意識した、そんな時だった。
タケシのズボンのポケットが、内側から不自然に隆起したかと思うと、その布地を突き破るようにして、見慣れた黒いスーツの袖に包まれた青白い手が突き出したのだ。
その手は、振り下ろされる刃を、まるで落ち葉でも受け止めるかのように、こともなげに掴み止める。
異様な光景、フードコートに奇妙な静寂が訪れた。
ハセガワも、オオタも、ミオも、目の前で起きているあまりに非現実的な光景に、思考が完全に停止していた。
やがて、ポケットから肩が、頭が、ゆっくりと姿を現す。
それが、数時間前にパトカーで連行されたはずのアオキだと認識した時、彼らの混乱は頂点に達した。
アオキは、何事もなかったかのようにタケシのズボンのポケットから完全に姿を現すと、軽くスーツの皺を伸ばした。
そして、刃を掴まれたまま硬直している面無しの顔面目掛けて、強烈な一撃を叩き込んだ。
ゴッ、と骨が砕ける音が生々しく響き、面無しは糸が切れたように崩れ落ちた。
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