翌朝
――ゴウン、と重い金属音を響かせ、分厚い防火壁が静かに上昇していく。
その向こうに広がっていたのは、夜の惨劇が嘘であったかのように磨き上げられた、無垢な床面だった。
血の痕一つ、破壊の痕一つない、ただ静かで広大な空間。
夜の間にこびりついたはずの絶望は、ワックスの残り香と共にどこかへ消え去り、フードコートは再び無垢な表情を取り戻している。
壁の向こう側から現れたのは、アオキ、オオタ、そしてタケシの三人だった。
憔悴しきった表情で待っていたマキの視界に息子の姿が映った瞬間、彼女の張り詰めていた緊張の糸が、ぷつりと切れた。
「タケシッ!」
「母ちゃん!」
タケシが叫びながら駆け出す。
マキもよろめくように歩み寄り、その小さな体を力いっぱい抱きしめた。
「よかった……本当に、無事で……!」
「怖かったよ……でも、アオキさんが……!」
言葉にならない嗚咽が、親子の間で交わされる。
極限状況下で引き裂かれた二人が互いの温もりを確かめ合うその光景に、フードコートには束の間の、あまりに脆い安堵が満ちた。
そんな時だった。
片隅から、キャスターの回る規則的な音が近づいてくる。
現れたのは、無表情な清掃員の男だった。
彼は大型のダストボックスを押しており、その足取りには何の感情も読み取れない。
彼はミオが泣き崩れるその場所で足を止めると、まるで落ち葉を掃き集めるかのように、そこに「あった」はずのキタジマの体を、手際よくダストボックスの中へと収めていった。
「ちょっと、離して、キタっちを連れて行かないで!」
ミオが清掃員に詰め寄ろうとする。
「やめとけ、殺されたいのか」
咄嗟にハセガワがミオを制止する。
ハセガワは恐れていたのだ。
昼の彼らは完璧な従業員を演じているが、その無表情の奥には、昨夜あれほど自分たちを蹂躙した『面無し』が潜んでいる。
もし、ここで下手に刺激すれば、何が起こるか分からない。
昼と夜の境界が曖昧になり、この場で惨劇が再演されるかもしれない。
これまでの経験が、彼の本能が、危険だと警告していたのだ。
ハセガワのただならぬ気配と、腕を掴む力の強さに、ミオははっと我を取り戻し、その場に立ち尽くした。
「キタっちが……死んじゃった……」
魂が抜け落ちたような呟き。
ミオは、昨夜キタジマが息絶えた、今は何事もなかったかのように清掃されている床の一点を見つめ、ただその名を繰り返す。
いたたまれなくなったマキは、ミオの震える肩をさすることしかできなかった。
生存者たちの間に、「死」という取り返しのつかない現実が、再び冷たい霧のように立ち込める。
「キタっちが……」
「ああ、彼なら清掃員の方が、カートで運んでいきましたよ。ほら、あそこです」
アオキが、無感情に事実だけを告げる。
その声は、まるで検死官が所見を述べるかのように分析的で、人間的な温度を一切含まない。
その無機質な響きは、むしろ、昨夜見た『面無し』にさえ通じる、底冷えのする冷淡さを漂わせていた。
「おまえ……人の心ってもんがないのかよ……」
ハセガワが、吐き捨てるように低い声で唸った。
アオキはハセガワの言葉に少し笑みを浮かべ、清掃員の動向を見つめていた。
やがてシャッターが開き、何も知らない一般客たちが、朝の光と共に喧騒を連れてなだれ込んでくる。
清掃員は人の波をこともなげにすり抜け、キタジマを収めたダストボックスを押して去っていく。
泣きじゃくるミオのすぐ横を、楽しげな家族連れが通り過ぎる。
誰も、その大きな箱の中に、昨夜まで生きていたはずの若者がゴミのように詰め込まれていることなど気にも留めない。
この世界の「修復」システムは、完璧で、そしてあまりに残酷だった。
オオタがその光景に耐えきれず踵を返した、その肩を、背後から伸びてきた手が静かに、しかし強く掴んだ。
アオキだった。
「オオタさん、少しよろしいですか」
アオキの声は、周囲の感情の波から完全に切り離されていた。
「昨夜、あなたが使っていたカードキー。見せていただいてもよろしいですか?」
「え……あ、はい」
アオキの唐突な問いに戸惑いながらも、オオタは懐から一枚のプラスチックカードを取り出した。
アオキはそれを受け取ると、指先で埃を払うように表面を撫で、そこに印刷された情報に目を凝らした。
カードには、『警備部 主任 ムラカワ・ミツヒデ』という名前と所属が記されている。
「ムラカワさんですか――」
アオキはその名前と顔を頭に刷り込むようにつぶやくと、またオオタを見つめて問いかける。
「昨夜の警備プログラム書き換え、見事なお手並みでした」
アオキはカードから目を離さずに言った。
「まるで専門家のようでした。失礼ですが、どのようなお仕事を?」
オオタの肩が、微かに強張った。
「……ただのシステムエンジニアですよ。ビルの設備管理系――空調・照明・防災の中央監視や出入管理のシステムを作ってました。こういうシステムは何処も同じつくりなので、正直助かりました」
オオタはそう答えると、探るような視線をアオキに向けた。
「私も聞いていいですか……? アオキさん、あなたは何者なんですか? あの動きは、ただボクシングを少しかじった、中年というレベルのものではなかった。総合格闘技のチャンピオン、それとも特殊部隊員……?」
「そんな大層なものではありませんよ。私はただこのモールに訪れた休暇を楽しむ一般客。それ以外にありません」
そう言って、アオキはオオタにカードキーを返して振り向くと背を向けた。
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