凶刃
ハセガワたちが防火壁の降下位置手前に作った即席バリケードは、押されるたびに数センチずつ床をきしませて後退していた。
歪んだカートの車輪が不快な音を立て、盾にしたトレイや看板が小刻みに震える。
ハセガワは左右の隙間と背後の顔ぶれを一瞥で数えると、奥歯を噛み締めた。
「くそっ、まだか……!」
軋む買い物カートのフレームに全体重をかけながら吐き捨てる。
バリケードの向こう側で、ぬらりとした無数の面無しが蠢き、その圧力がじわじわとこちらを押し潰そうとしていた。
金属の軋む音と、かつて声帯があった場所から漏れ出る空気の抜けるような雑音が、フードコートの淀んだ空気を満たしている。
「嫌っ、来ないで……!」
ミオの甲高い悲鳴が上がる。
カートの隙間からぬっと伸びた手が、ミオの足首を掴んでいた。
「ミオッ!!」
キタジマが叫び、必死にその腕を引く。
だが、肉食獣の顎のような力で掴まれた足は、じりじりと群れの中へ引きずり込まれていく。
「離しやがれッ!」
ハセガワが、盾にしていたプラスチックトレイの角を、その伸びた腕の関節めがけて何度も叩きつける。
ゴッ、ゴッ、と鈍い音が響き、ようやく手が離れたが、その隙に別の二体がバリケードを乗り越えようとぬらりと体を乗り出してきた。
「タケシ……」
マキは、ただその名を胸の中で呟きながら、モップの柄を槍のように突き出した。
先端が肉塊のあった場所にめり込むが、手応えはない。
スポンジを突くような不気味な感触だけが腕に返ってくる。
恐怖で心臓が凍りつきそうだった。
それでも、彼女は一歩も引かなかった。
ここで自分が崩れれば、送り出した息子は帰る場所を失ってしまう。
その一心だけが、震える両腕を支えていた。
「なんで、防火壁は落ちないんだよッ!!」
「俺が知るわけないだろッ!!」
「キタっち、助けて――」
「みんな、集中しなさいッ!!」
もう限界だった。
バリケードは今にも決壊し、全員がこの肉の津波に飲み込まれるのは時間の問題だった。
絶望が、じっとりとした汗になって全員の肌にまとわりつく。
そんな時だった、頭上のスピーカーから、ノイズ混じりの声が響き渡った。
『皆さん、聞こえますか! オオタです! 今、警備員室にいます!』
場違いに響く声に、誰もが一瞬動きを止める。
『アオキさんが、たった今そちらへ向かいました! ですが……彼、「10秒で戻る」と言っていましたが、物理的に不可能です! ここからでは、どう考えても十分はかかる!』
十分。その数字が、生存者たちに新たな絶望を突きつけた。
この地獄が、さらに十分も続くのか。
『ですが、方法はあります!』
オオタの声が続く。
『バリケードの内側にいる“面無し”を……防火壁降下ラインの外側に押し出すことができれば、すぐに壁を降ろせます! そうすれば……みなさん助かりますよ!』
「押し出せだと? 無茶苦茶言うな!」
ハセガワは天に向かって怒鳴り返したが、その目は内側に入り込んだ数体の面無しを睨んで離さない。
彼は自分に言い聞かせるように低く吐く。
「……クソがッ! やるしかねえっていうなら。やってやる。やってやるよッ!!」
ハセガワの中で、何かが吹っ切れた。
恐怖を怒りに、絶望を闘志に無理やり変換し、彼は再びこの地獄のリーダーとして吠えた。
「こっちは俺が押さえる! キタジマ、ミオと連携して奴らを外へ叩き出せ!」
「そんなこと言ったって、こいつら殴っても怯まねえんだぞ!」
だが、極度の恐怖は、ハセガワの指示さえもミオの耳に届かせなかった。
「もう嫌ッ……!」
金切り声を上げ、完全にパニックに陥った彼女は、手元にあったプラスチックトレイを、すぐそこまで迫っていた面無しの一体に、ただ拒絶するように投げつけた。
――ペチッ。
あまりに間の抜けた音が、フードコートの喧騒の中で虚しく響き、トレイは力なく弾かれた。
その、子供の癇癪にも似た幼稚な抵抗は、しかし、致命的な引き金となる。
投げつけられた面無しだけでなく、その周囲にいた数体のぬらりとした顔が、まるで号令でもかかったかのように、一斉にミオへと向けられたのだ。
そして、その中の一体が、ゆるりと腕を上げた。
その手には、鮮魚コーナーから持ち出したのであろう、柳の葉のように細長くしなる鋼の刃が握られている。
鈍い銀色の光が、非常灯の明滅を反射して、ミオの恐怖に歪む瞳に不吉なきらめきを映し出す。
『あっ!! ミオさん危ない!!』
オオタの悲鳴のような実況が響く。
面無しが踏み込み、その凶刃がミオの顔めがけて振り下ろされた。
「危ないッ!」
キタジマは、反射的にミオを突き飛ばした。
次の瞬間、彼の腹部に肉を断つ鈍い音が響く。
「あ……」
キタジマの口から、声にならない空気が漏れた。
彼は、信じられないという顔で、ゆっくりと自身のお腹を見下ろす。
そこには、彼のパーカーの色をみるみるうちに黒く変えていく、おびただしい量の血が、じわり、と広がっていた。
やがて、その瞳から力が抜け、まるで糸が切れた操り人形のように、前のめりに崩れ落ちる。
どしゃり、という鈍い音が、ミオの耳にこびりついた。
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