アオキの実力
フードコートの空気が、水からゼリーへと変質するような重い圧力を伴って淀み始める。
「皆さん、……行ってきます」
オオタが絞り出した声は、崩れゆく世界の法則を貫く杭のように、乾いて響いた。
アオキは背後で始まった冒涜的な光景に一瞥もくれず、オオタと、その肩を掴むタケシを促して静かに歩き出す。
通路へ一歩踏み出すと、そこはすでに地獄の入り口だった。
テーブルや椅子が乱雑に倒れ、床には客が落としたのであろう買い物袋や食べかすが散乱している。
その障害物の向こうから、ぬらり、と顔のない店員が一体、また一体と現れた。
ぬるりとした皮膚が非常灯の光を鈍く反射し、かつて声帯があった場所からは、空気が漏れるような細い雑音だけが聞こえる。
「ひぃっ……!」
オオタが短い悲鳴を漏らす。
その視界を遮るように、床に転がっていたプラスチック製のトレイが宙を舞い、彼の胸元へ吸い込まれるように収まった。アオキが足先で器用に跳ね上げたものだった。
「オオタさん、気休めですが盾くらいにはなるでしょう。先頭をお願いします。警備員室への道は、あなたしか知らない」
アオキはただ、軽く屈伸し、指の関節をポキリと鳴らした。
執行の直前、呼吸だけを整える処刑人のように静かに。
「そ、そう言われましても……!」
オオタが狼狽えた視線を向けたその瞬間、通路の脇の暗がりから、従業員服の怪物が音もなく現れた。
オオタの真横。
その顔面があった場所を射抜くように、アオキの拳が音もなく突き抜ける。
ゴッ、と鈍い音が響き、面無しは糸の切れた人形のように沈黙し、崩れ落ちた。
「心配は無用です。あなたはいつも通り、いつもの歩幅で、目的に向かえばいい」
「ハッ、ハイッ!」
オオタは恐怖に引き攣った顔で頷き、アオキに促されるまま歩調を速めた。
直後、タケシが叫ぶ。
「アオキさん、前! あの名札、白くなってる……!」
“面無し”へと豹変した従業員が、関節を無視した奇妙な動きで距離を詰めてくる。
その手には、清掃用具入れから引き抜いたらしい金属製のトングが握られていた。
それが振り下ろされるより早く、アオキは懐に飛び込み、腹部に強烈な一撃を叩き込む。
肉の袋を殴りつけたような鈍い音。
面無しはくの字に折れ曲がり、動かなくなった。
「こ、こんなのを一体ずつ相手にしていたら埒が明きません……!」
オオタが泣きそうな声で呟いた。
「仕方ありませんね。では、まとめて退場していただきましょう」
アオキはポケットから取り出した懐中電灯のスイッチを入れた。
強烈な光の束が、暗がりの中で踊る。
「何を……! ライトなんて点けたら目立って……あっ……」
オオタのパニック混じりの声は、すぐに何かを悟ったような呻きに変わった。
「これでいいのです。彼らは走光性の生物と同じ。より強い光へと無意識に吸い寄せられてくる。これで、後方へ向かう数を減らせます。……ええ、一網打尽ですよ」
光に誘われ、通路の奥や脇の店舗跡から、ぞろぞろと面無し達が姿を現す。
その光景は、夜明けにハセガワたちが見た地獄の再現だった。
アオキの拳が閃くたびに、肉塊が沈黙する。
顔面を打ち抜かれ地面に伏すもの。
拳の圧に押され、吹き抜けの手すりを越えて落下していくもの。
腕や足を粉砕され、蠢くことしかできなくなるもの。
視界に入る最後の一体。アオキの掌底が、その肘関節を内側から的確に打ち据える。
ゴキリ、と骨が砕ける乾いた音が響き、腕があり得ない方向へと折れ曲がった。
肉塊がバランスを崩したその顎に、吸い込まれるようなアッパーカットが叩き込まれ、面無しは、巨木のように昏倒した。
「すごい……」
「おじさん、格闘技とかやってるの?」
オオタが圧倒される横で、タケシが興奮と恐怖の入り混じった声で尋ねた。
「多少、ボクシングを。たしなむ程度ですよ」
アオキはこともなげに答えたが、それが謙遜という言葉では済まされない領域にあることを、二人は理解していた。
次に彼らの前に現れたのは、イベントホールだった。
天井は高く、床は暗い鏡のように艶めき、使われていないステージと吊りトラスが長い影を落としている。
臨時販売の島台や立て看板が点々と立ち、そこを、おびただしい数の面無しがうようよと歩いていた。
白く塗りつぶされた名札が、群れの中で無数に光る。
「……これを抜けるのは、骨ですね」
オオタがトレイを握りしめ、呻く。
「時間はかけられません、致し方ありませんね」
アオキが応じる。
「母ちゃんたちが……」
タケシの呟きが、沈黙の中に落ちた。
そして考えるように黙り込むと、やがて閃いたように顔を上げた。
「アオキさん、倒すことばかり考えなくてもいいんだよ」
タケシは周囲に置かれた宣伝パネルへ駆け寄り、角度を一つひとつ慎重にずらしていく。
立て看板を三十度だけ傾け、デジタルサイネージの向きを変える。
反射が連なり、ホールの中央に一本の明るい光の帯ができはじめた。
「アイツら、光に引き寄せられる……」
「ですが、我々の姿が見えれば――」
「大丈夫。俺たちは、光が作った影の中を進めばいい」
タケシが最後のパネルを押し出すと、光の帯の脇に、影が濃く繋がる細い通り道が生まれた。
遠くの群れが、ゆっくりと光の道へ向きを変えはじめる。
「おじさんにばかり、頼ってられないから」
「……見事です」
アオキは短く賞賛し、タケシの頭を一度だけ、優しく撫でた。
三人は光に惑わされた群れの脇を、息を殺して駆け抜ける。
最後の関所は、警備員室へと続く職員用の細い通路だった。
薄暗いバックヤードには段ボールと空の台車が壁際に寄せられ、埃と湿気の混じった淀んだ空気が満ちている。
三人の足音だけがコンクリートの床に反響する閉塞感の中を進み、やがて【警備員室】と書かれたプレートの前にたどり着いた。
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