無限回廊
アオキはトレイの端にスマートフォンを無造作に置き、電話帳アプリから上司の番号を呼び出した。
耳元に、館内放送のような質感で『おかけになった電話番号は――』という無機質な音声が一拍だけ流れ、すぐにぷつりと途切れる。
そのときになってようやく、ディスプレイ右上の『圏外』の表示に気がついた。
上司へ繋がらないであれば、この異様な事態の報告などできない。
アオキは短く眉を寄せ、それでもコップの縁を汚さぬよう、慎重にひと口啜った。
「昨日のおじさん……だよね?」
声に顔を上げると目の前には少年がいた。
放心の余韻をまだ目の奥に湛えながらも、その立ち姿には決心の芯が宿っている。
隣で、彼の母親が無言のまま会釈した。
アオキは穏やかに目礼を返す。
「よく眠れましたか、タケシくん」
「……うん、少しだけ。母ちゃんが耳を、ふさいでくれたから」
「それは心強い護りでしたね」
昨日、彼は何度も「忠告した」と言ってこちらを見た少年だ。
アオキはコーヒーを置き、ゆるやかに姿勢を整える。
母親――ゴウノマキが小さく息を吸い、深く頭を下げた。
「先ほどは取り乱してしまい、申し訳ありませんでした。私はゴウノ・マキ、この子はタケシです」
マキは、よそよそしく言葉を続ける。
「ハセガワさん達がいる手前、すぐには声をかけられなくって」
「ご丁寧にどうも。……慣れていますよ、こういう扱いにはね」
「タケシを塾に迎えに行って、その帰りにここで晩ごはんを……。うっかり閉店時刻を過ぎてしまい、気が付いたら、取り残されてしまったんです……」
アオキは短く頷く。
「なるほど。では朝ですし、もうお帰りになれるのでは? ご覧なさい、昨夜の“面無し”という怪異たちも、今は普通の店員に戻っているようですし」
「おじさん、できないんだよ。オレたち、外に出られないんだ」
タケシの言葉に、マキが頷いた。
「もう、このモールで三日も過ごしています。最初はもっと人がいたんです。でも、夜が来るたびに“面無し”に襲われて……気がつけば、ハセガワさんたちと私達だけに」
その言葉を聞き、アオキは紙コップのコーヒーを飲み干すと、トレイの隅に残った最後のポテトを口へ放り込み、静かに席を立った。
「ひとつ、確かめたいことがあります。ご一緒に」
三人はエスカレーターを降り、正面玄関へ向かった。
外気と内気の境で、空調のため息とガラス越しの白光が混じり合う。
スーツ姿の通勤客やベビーカーを押す親子が、何事もなく入店し、買い物袋を提げた客は防犯ゲートを抜けて外へと溶けていく。
ドアは開き、外へ抜ける道は確かに存在する――。
少なくとも、彼らにとっては。
「昨日の朝もここに来たんだ。でも、母ちゃんとオレは、外に出られなかった」
タケシが、ひどく不安そうに声を絞り出す。
その横でアオキはポケットから百円硬貨を取り出し、親指で軽く弾いた。
硬貨は美しい弧を描いて空間を抜け、ドアの向こう側の世界に落ちる。
カラン、と乾いた音を立てて止まるのを見て、アオキは訝しげに眉を寄せた。
そんなアオキの挙動に痺れを切らしたのか、マキが、そっとアオキの肩に手を置いた。
「……一緒に、出てみましょう」
「……仕方ありませんね」
三人は、揃って出口へ向かった。
ガラスの前で、空気に含まれる温度がひとつ切り替わる。
風は確かに頬を撫で、靴底は外のタイルを踏んだ手応えを返していた。
しかし。
足裏にかけた重みが、ふっと裏返る。
視界が一瞬、水面のようにゆらぎ、気づけば自動ドアを背にしていたのだ。
背中には、先ほどまで正面から感じていたはずの外気の熱が、じわりと貼り付いている。
「……ね、言ったでしょ」
タケシの声は、小さな勝ち誇りと、それと同じだけの失望を含んでいた。
アオキは苦笑に近い薄い笑みを浮かべる。
「……まるで無限回廊ですね」
アオキはそう言って同じ試みを二度、三度と繰り返した。
だが、結果は揺るがない。
人は送り返されるが、硬貨や紙片は素直に外へ出ていく。
ガラスに映る三人分の像が、反射の角度でわずかに時差を生んで重なり、やがてきれいに一枚へ整列する。
まるで、写真を編集するかのように空間は強制的に「こちら側」へと置き換えられるのだ。
「厄介ですねこれは、いろいろと調べる必要がありそうです」
「調べるって、何を?」
「外に出る方法ですよ。このままでは、無断欠勤で私が上司に叱られてしまうのでね」
アオキは静かにそう呟くと、踵を返した。
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