防火壁
――ピン、ポン、パン、ポーン。
朝を告げる柔らかなチャイムが、昨夜の惨劇を洗い流すかのように天井から降り注ぐ。
曇ったガラス天窓の向こうで夜の青が白に溶け、ワックスの残り香を帯びた床面に光の帯を走らせていた。
フードコートを囲むテナントのシャッターが、軋みながら半分ほど開く。
その内側で、昨夜まで顔を失っていたはずの従業員たちが、あり得ない角度に折れ曲がった腕をぎし、と鳴らしながら元の骨格へと収めていた。
皮膚の下で骨格の線が浮き、頬骨が起き、鼻梁が据え直される。やて目と口が順に彫り出され、胸元の名札には消えていたインクが再び走り、文字が形を取り戻していく。
血と油に汚れた制服は皺ひとつなく伸び、汚れはまるで逆再生のように吸い込まれて消えた。
何事もなかったかのように彼らは持ち場へ戻り、完璧な笑顔を貼り直す。
やがて、外界を隔てていたシャッターが完全に上がりきると、朝の喧騒が人の波となって押し寄せてきた。
店員たちはその波に向け、「いらっしゃいませ」と声を張り上げる。
昨夜の怪異を知る者は、この巨大な箱庭に閉じ込められた我々をおいて、どこにもいやしない。
アオキは、その一連の“修復”作業を、まるで観察記録でも取るかのように静かに見届けていた。
骸の山は跡形もなく消え去り、昨夜の生存者――ハセガワとその仲間たちは、フードコートの対角線上で身を寄せ合い、こちらを窺っている。
その視線には、恐怖と警戒心、そして理解不能なものに対する敵意が混じり合っていた。
だが、誰もアオキに近づこうとはしない。
アオキは彼らの視線を意にも介さず、一人、フードコートの奥へと歩き出した。
彼の目的地は、昨夜、世界を二つに分断したあの壁。
ハセガワたちが、まるでその存在を知り尽くしているかのように、一目散に逃げ込んでいった通路。
そこに設置された、巨大な防火壁だった。
フードコートの喧騒が背後で遠ざかり、通路の薄暗がりに足を踏み入れると、空気がひやりと変わる。
そこに鎮座する鋼鉄の壁は、今は天井の格納庫にその巨体を収め、ただ分厚いガイドレールだけが壁面に無骨な影を落としていた。
アオキはまず、そのレールに指を滑らせる。
冷たい鉄の感触。
油圧シリンダーや、壁を吊り下げるためのワイヤーの痕跡は見当たらない。
彼は壁の上部、天井の格納庫に視線を向け、レールの内側を指でなぞるような仕草をした。
「……なるほど。ラック・アンド・ピニオン式ですか」
防火壁の構造はそう見て取れた。
ガイドレールに刻まれた歯竿を、格納庫の歯車が直接駆動させているのだろう。
緊急時はブレーキ解除で自重落下、復旧時はモーターで巻き上げる。
単純だが堅牢な構造だ。
ハセガワたちは、この壁が「落ちてくる」ことを確信していた。
それは経験則か、あるいは何らかの情報を得ているのか。
アオキの視線は、防火壁のさらに奥、通路の突き当りで緑色の光を放つ非常口の誘導灯へと移る。
アオキは静かにそこへ歩み寄り、金属製のプッシュバーに手をかけた。
ひやりとした感触。力を込める。
びくともしない。
まるで内側から溶接でもされているかのように、絶対的な拒絶があった。
ドアの小窓から外を覗くと、薄暗いコンクリートの非常階段が下階へと続いているのが見える。
だが、この出口は、出口としての機能を果たしていない。
見せかけだけの、偽りの希望のように感じた。
アオキはプッシュバーから手を離し、思考を巡らせた。
そもそもなぜ彼らは外へ出ていかないのだろうか。
正面玄関は、今朝も一般客が何事もなく出入りしている。
彼らだけを阻む、何か見えない壁でもあるというのか。
それとも、昨夜現れたあの顔のない怪異が、何か関係しているのだろうか。
あれは一体何だったのか。
なぜ従業員たちだけが変貌し、なぜ人間を襲うのか。
彼らは、その怪異の存在に阻まれて、このモールから出られない
――あるいは、別の理由があるのだろうか。
『情報が足りない』
アオキは結論づけた。
推測を重ねるよりも、直接対象から情報を引き出す方が早い。
思考を巡らせているうちに、胃の腑が静かに収縮する感覚があった。
空腹。
極限状況を乗り越えた肉体が、当然の権利としてエネルギーを要求していた。
アオキは避難通路の薄暗がりに背を向け、フードコートの喧騒と光の中へと踵を返した。
目的は二つ。
朝食の確保と、生存者たちへの接触。
アオキは、従業員たちの顔と骨格が“修復”されていく一部始終を、静かに見届けていた。
そこに驚愕の色はない。『戻るのは彼らだけ、か』と心の内で一人呟き、〈ポテ丸・武蔵〉のカウンターへ歩く。
そしてモーニングセットを、昨夜自らが粉砕したであろう店員に向けて注文し、淡々と会計を済ませた。
通路側の席に腰を下ろし、紙コップのコーヒーを両手で包み込む。
静かな呼気で表面の熱を揺らすと、人の声と機械の作動音が重なり合い、世界が「通常運転」へと戻っていることをを丁寧に示していた。
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