プロローグ ~ショッピングモールにて~
――チリチリ……ぱちん。
揚げ油の弾ける乾いた音が、静寂に沈みゆくフードコートに小さく灯るように響いていた。
週末のバーゲンセールが終わりを告げた大型ショッピングモールは、日中の喧騒が嘘のように静まり返っている。
三階層にわたる巨大な吹き抜けのガラス天井から射す西日はすでに勢いを失い、観葉植物の深い緑が大理石の床に長い影を落としていた。
客足の途絶えた各フロアのテナントからは、シャッターを下ろす準備を始める金属音や、店員たちの疲れた声がかすかに聞こえてくるだけだ。
光と影のコントラストが強まるこの時間は、世界の輪郭が曖昧になっていく前触れのようだった。
フードコートの隅、二人掛けのテーブル席で、母親は膝の上の紙袋をきつく抱えながら、向かいに座る息子に努めて穏やかな声で話しかけた。
「タケシ、大丈夫。今夜もあの人たちについていけば生き残れるはずよ」
その声には、自分自身に言い聞かせるような響きがあった。
彼女の目の下には消えない隈が刻まれ、その表情は長期間の緊張によって張り詰めている。
息子のタケシは、テーブルに置かれたゲーム端末の暗い画面を見つめたまま、小さく首を横に振った。
「あの人たち、僕らのことなんて何とも思ってないよ。母さんのことも、僕のことも、ただの……」
「タケシ」
母親の制する声が、息子の言葉を遮る。
これ以上、希望を削ぐような言葉を口にしてほしくなかった。
何度も繰り返されるこの絶望的な夜を越えるには、ほんのわずかでも光が必要だったからだ。
タケシは唇を噤むと、視線をフードコートの奥へと向けた。
彼の興味はある一点に注がれていた。
カウンター席。
青白い肌の男が、黒いスーツに同色の帽子を横に置き、季節外れの重厚な装いで腰掛けている。
彼は〈ポテ丸・武蔵〉と書かれた黄色い箱から、揚げたてのフライドポテトをまるで貴重な美術品を扱うかのように丁寧につまみ上げていた。
細い指先で余分な塩を払うその仕草は貴族の嗜みのようで、この終末的な静寂が漂うフードコートの空気とは明らかに位相が異なっている。
――このおじさん、何も知らないんだ……
タケシの胸に、奇妙な使命感が湧き上がった。
このままでは、また一人、自分たちと同じ悪夢に引きずり込まれる犠牲者が増えるだけだ。
タケシは椅子から音もなく立ち上がると、母親の制止を振り切り、カウンター席の男へと歩み寄った。
「おじさん、もうすぐ閉店ベルが鳴るよ。ベルが鳴ったら、ここの出入口凄い混むからさ、早く帰った方がいいよ」
真剣な眼差しでそう告げる少年に、カウンターの男はゆっくりと顔を向けた。
深い青の瞳には、天井のダウンライトが歪な菱形に映っている。
その視線はただ少年を見ているようで、その実、フードコートの隅々までを冷静に観察しているようでもあった。
「ご忠告、痛み入ります。ですが、ご覧の通りもう他にお客さんもいないようですし、慌てる必要もないかと」
男の口調は、どこまでも穏やかだった。
「違うんだ!そういうことじゃなくて……」
タケシが必死に言葉を募らせる。
「この〈ポテ丸・武蔵〉の芋は、都内でも五指に入る素晴らしい出来栄えでしてね。たまの休暇なのです。最後まで心ゆくまで味わいたい」
そう言って男は一本摘まみ、塩の結晶を芸術的に撫で落としてから、ゆっくりとひと口に運んだ。
そのあまりに場違いな優雅さに、タケシは言葉を失う。
この男には、自分が伝えようとしている危機感がまったく届いていない。
「……確かに、ここのポテトは美味しいけどさ」
タケシは少しだけ声のトーンを落とした。
「でも、今日は早めに切り上げた方がいい。このモール閉店すると雰囲気がガラッと変わるからさ。本当に、良くないものに変わるんだ……」
「なるほど、夜の雰囲気と言うのも、私は嫌いではありませんがね――」
カウンターの男が言い終える前に、突如として響いた硬質な声が、彼らの間に割って入った。
「おい、ガキ。余計なことをベラベラ喋るな」
中央の六人掛けテーブル。
筋肉質な体躯を安物のジャケットに押し込んだ不良風の男が、冷たい視線をタケシに向けていた。
彼の傍らには、会社員風の男と若いカップルの三人が、緊張した面持ちで控えている。
「ハセガワさん、時間です。あと数分で鳴りますよ」
会社員風の男が腕時計を睨みながら報告した。
ハセガワと呼ばれた男は、テーブルに置いたマグライトほどの太さの特殊な懐中電灯を無言で握りしめ、頷いた。
「分かってる。隊列は崩すな。チャイムが鳴り、奴らの動きが止まった瞬間に防火壁の向こうへ走る。いいな、躊躇は死を意味するぞ」
彼の言葉には、幾度もこの死線を越えてきた者だけが持つ重みと冷酷さがあった。
ハセガワは立ち上がると、タケシと母親の方へ歩み寄った。
その威圧的な態度に、母親は思わず息子の肩を抱き寄せる。
「ゴウノさん、あんたも息子も、これが初めてじゃないんだ。分かってるだろうが」
ハセガワは母親の耳元で、他の誰にも聞こえないよう低く囁いた。
「足手まといは切り捨てる。……しくじって死ぬのはあんただけじゃないんだ」
それは忠告であると同時に、明確な脅しだった。
母親は血の滲むほど唇を強く噛みしめ、ただ無言で頷くことしかできない。
ハセガワの言う通りだった。
生き残るためには、この男に従うしかない。
たとえ、ハセガワが自分たち母子を、いざという時のための「囮」としか見ていないことに気づいていたとしても。
タケ-シは、母親を脅すハセガワの横顔を、憎しみを込めて睨みつけた。
だが、その小さな抵抗は、巨大な暴力の前ではあまりに無力だった。
ハセガワはカウンター席の男を一瞥し、鼻で笑う。
「今夜の囮はあの旦那だ。何も知らずにフライドポテトを食ってる優雅な旦那が残ってくれるとはな。好都合だ。俺たちへのヘイトは散る」
そしてハセガワは「戻るぞ」と部下たちに命じ、彼は元の席へと戻っていく。
フードコートには再び、張り詰めた静寂が訪れた。
タケシは諦念と共に、カウンターの男に背を向けた。
「オレ……忠告はしたからな」
その小さな背中に、男は何も言わなかった。
ただ、軽く会釈を返すだけだった。
その指先でポテトを弾く仕草には、異様なまでの気品と、そして底知れない何かが滲んでいた。
やがて、その時は来た。
物悲しいメロディの閉店チャイムが、スピーカーから流れ始める。
次の瞬間、館内の全てのBGMが途切れ、世界から音が消えた。
蛍光灯が一斉に暗く鈍く震え、明滅を繰り返す。
巡回していた警備員の足が、まるで糸の切れた人形のようにぴたりと止まる。
カウンターで食器を下げていた店員の動きが、不自然な角度で固まった。
タケシが息を呑んだ、その永遠にも思える静寂の中で、それは始まった。
店員の顔が、まるで熱した蝋のように、ズルリと顎から溶け落ちた。
目も、鼻も、口も、かつて表情と呼ばれたもの全てが、意味のない肉塊となって床に染みを作る。
声帯があった場所からは、壊れたラジオのようなノイズが漏れ出した。
警備員も、他の店員も、次々と顔を失っていく。
それは、この世ならざる怪異の始まりを告げる、静かな発火に他ならなかった。
「今だ!走れ!」
ハセガワの怒鳴り声が、硬直した空気を引き裂く。
彼の仲間たちが、一斉にフードコートの奥へと通じる通路へ向かって走り出した。
フードコート中の面無したちが、ぎこちない動きで、そこに唯一残された人間――カウンター席の男へとゆっくりと向き直る。
その超現実的な光景に、タケシの足は恐怖で床に縫い付けられていた。
「タケシッ!」
母親の絶叫が響く。
彼女は息子の目を片手で覆い隠すと、もう片方の腕でその体を鷲掴みにし、鋼鉄の壁の向こう側へと力ずくで引きずり込んだ。
「見ちゃダメ!こっちへ、早く!」
母親の必死な声だけが、タケシの耳に届く。
重い防火壁が、唸りを上げて降下し、世界を二つに分断していく。
閉じていくわずかな隙間の向こうで、タケシが最後に見たのは、信じられない光景だった。
向かってきた面無しの一体が振り上げた刃を、カウンターの男がテーブルの上のケチャップ容器を軽く弾き飛ばして迎撃し、その顔面に命中させる。
怯んだ面無しの脇をすり抜けながら、彼は動じることなく、最後の一本のポテトを口へと運んでいた。
――あの人、反撃した……。今……
少年の小さな疑問は、重い錠が掛かる絶望的な金属音によってかき消された。
夜の間、バックヤードに響いたのは、壁の向こう側から聞こえる断続的な悲鳴と、肉を叩き潰すような鈍い衝撃音、そして金属を引きずる不快な音だけだった。
母親は息子の体をきつく抱きしめ、その耳を塞ぎ、震えながらひたすら朝を待った。
ハセガワとその部下たちは、壁に背を預け、武器を手に持ちながら、彼ら自身もまた恐怖を押し殺しているようだった。
そして、夜明け。
天窓から濁った青の光が差し込む頃、消耗しきった表情でハセガワが命じた。
「……防火壁が上がる時間だ。みんな構えろよ。今日も『面無し』達が戻ってくれる補償なんてないんだからな」
母親はタケシを背後に庇い、固唾を飲んだ。
鉄扉が軋みながらわずかに開くと、鉄と油、そして焦げ付いた甘い臭気が凝縮された空気が、奔流となって流れ込んできた。
視界が開けた途端、誰もが言葉を失った。
若いカップルの女性は小さく悲鳴を上げ、その場に崩れ落ちる。
フードコートの中央には、おびただしい数の“制服姿”が、巨大な塚のように折り重なっていた。
それは夜の間に蠢いていた面無したちの骸。
血と油を吸い尽くした制服は黒く変色し、破れたマネキンのように関節をあり得ない方向へ折れ曲がっている。
その頂点に、昨夜カウンターにいた漆黒のスーツを纏った男が胡坐をかいていた。
彼の黒いスーツには返り血ひとつなく、胸ポケットから取り出した純白のハンカチで、指先の僅かな埃を優雅に払っている。
「……おはようございます、皆さん」
あくび交じりの声は、この世の終わりのような光景とはあまりに不釣り合いだった。
母親も、ハセガワの部下たちも、目の前の現実を理解できずに立ち尽くす。
ただタケシだけが、恐怖と安堵と、そして圧倒的な畏怖が内交ぜになった表情で、一歩、また一歩と男に歩み寄った。
「これ全部『おじさん』がやったの?」
「……えぇ、まぁ」
男はそう言って静かに立ち上がると、骸の山から軽やかに降り立ち、呆然とする一行と対峙した。
彼の視線は、リーダー格であるハセガワに真っ直ぐに注がれていた。
ハセガワは、この状況を率いてきたプロとしての自負と、目の前の男に対する原始的な恐怖との間で激しく葛藤していた。
彼は震える手で懐中電灯を握りしめ、絞り出すように叫んだ。
「……てめえ、一体何者だ。この状況……この面無しの山は、なんなんだ!? 何がどうなってる!! 説明しやがれ」
その敵意と混乱に満ちた問いかけに対し、カウンターにいた男は少しも表情を変えなかった。
彼はただ、ゆっくりと首を横に振ると、絶対的な落ち着きをもって、こう告げた。
「説明していただきたいのは私の方です。昨夜私に襲い掛かってきた彼らはいったいなんなのですか?」
「面無だよ……。ココの従業員たちは夜になると豹変して襲ってくるんだ」
「タケシッ!!」
遮ったのは彼の母だった。呼び止める声には明確に『得体のしれない者に、これ以上情報を与えるな』という意図が混じっている。
男は、その母親の意図を正確に汲み取ると、足元に転がる骸の山の中から一枚の名札を丁寧につまみ上げる。
そして、胸ポケットから取り出した純白のハンカチで、名札にこびりついた血と油を、まるで貴重な美術品を清めるかのように拭き取った。
その名札には、インクが滲み、ほとんど読めなくなってはいたが、かろうじて『アオキ』と書かれているように見えた。
男は、その名札を自らのスーツの胸ポケットに、まるで元々そこにあったかのように取り付けると、半歩だけ身を引いて見せた。
「これは自己紹介が遅れて申し訳ありません。私はアオキ。この道のプロです。よろしければ、このモールで何が起きているのか、お聞かせ願いたい」
「ふざけるなッ!!」
だが、そうやすやすと異質なものに対する敵意などきえはしない。
「てめえが何者だろうが知ったことか!! 俺たちに近づくな……!! それ以上一歩でも近づいてみろ、容赦しないッ!!」
アオキは、その殺意に満ちた言葉を浴びながらも、ただ静かに、困ったように少しだけ眉を寄せるのだった。
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