広がる狂気
「リナさん、大丈夫ですかな」
咳き込みながら身を起こしたリナは、首に残る生々しい爪痕を押さえて震えていた。
だが彼女の目はアオではなく、まだ暴れ狂うハルの方に向いている。
「アオさん、後ろ……!」
リナの叫びを受け、アオが咄嗟に横に飛んだ。次の瞬間、彼がいた場所の床をハルの手に持つ金属片が砕いた。
紙一重の回避だった。
ここは救護室、あらゆる薬品が置かれた場所、彼らの激しい戦闘の末、床一面に薬剤の瓶やらが転がっている。
アオは身をひるがえしながら、床に散らばる物の中から咄嗟にひとつをつかんだ。
それは注射器だった。
ラベルには〈AG-8鎮静剤〉と印字されており、アオはとっさに使うことを決め、ハルめがけて投げつけたのだ。
先端が鋭利なそれは、ハルの首筋に突き刺さる。
ハルはかすかに身じろぎし、低い唸り声を上げながら注射器を自ら引き抜いた。
しかしすでに薬液は注入されている。
薬液の影響か、ハルの動きが明らかに鈍くなった。
「ハルさん……!」
リナが泣き叫ぶ。
その声に答えるように、化け物となったハルは最後の力を振り絞って金属片を振りかぶった。
しかし足元がおぼつかない。
アオはその一瞬の隙に渾身の蹴りをハルの右腕に叩き込んだ。
「ギャッ!」
ハルの手から金属片が滑り落ちる。
アオは間髪入れず倒れていた扉の残骸をつかみ、ハルに向かって全力で振り下ろした。
鋼鉄の扉板は板目が裂けるほどの勢いでハルの体を直撃し、その華奢な体を床に叩き伏せる。
力無く横たわったハルの瞳から、次第に光が消えていった。
「あ……あぁ……」
リナは呆然とその光景を見つめた。
この任務の隊長であり、仲間であった人々の変わり果てた姿、その無惨な末路が、そこに横たわっている。
ハルとジョー。
救助隊の仲間だった二人が、人ならざる姿となり息絶えた。
リナの瞳から大粒の涙が次々とこぼれ落ちる。
「ハルさん……、ジョーさん……。どうしてこんなことに……。」
亡き仲間たちとの思い出が次々と去来していた。
厳しくも温かな笑顔で指導してくれたハル、どんな時でも冗談で場を和ませてくれたジョー。
それが今はもう戻らない現実を突きつけられ、リナは心が引き裂かれるようだった。
その彼女の隣で、アオは静かに息を吐いた。
頬には微かだが浅い傷が走り、スーツも返り血で汚れている。
だがそれ以上に、戦いの結末が彼の心を揺れ動かしていた。転生生物の脅威を排除する。
それが任務とはいえ、巻き込まれた人間たちの末路はあまりに悲惨だ。
しばらくして、リナはふらつきながら立ち上がった。
涙で濡れた目を拭い、呆然とした面持ちで尋ねる。
「……カイ……、カイは……?」
最後に残る仲間の名を口にしながら、彼女は救護室の入り口の方を見る。
ハルが破壊してしまった扉の向こうには、暗い廊下が続いていた。
カイ、救難艇で待機しているはずのパイロットは未だ行方が知れないのだ。
先程、ジョーは「カイとも連絡が取れない」と言っていた。
嫌な予感がリナの胸をよぎる。
「カイさんを……、探さないと。」
リナはかすれた声で言う。
その顔には恐怖と悲しみが混じり合っているが、それでも強い意志が感じられた。
ハルとジョーを失った今、せめてカイだけは無事でいてほしい。
その一心だった。
「行きましょう。」
リナの決意にアオは静かにうなずく。
もはやこの船に残された生存者がカイだけである可能性は高い。
だが同時に、転生生物による影響を受けている危険もある。
そう考えるアオの横でリナは壁に立てかけてあった細身の注射ガンを手に取った。
鎮静剤や薬液を打ち出すための銃器だが、今は残された薬剤がない。
しかし先端の射出針は十分鋭く、護身の役には立つかもしれない。
こうして二人は静かに救護室を後にした。
廊下には非常灯の赤い明かりが揺れている。
所々壁面にひびが入り、異様な光景となった船内を、リナとアオは足早に進んだ。
リナは震える手で通信ボードを操作し、カイとのチャンネルに呼びかける。
「……カイ、応答して。こちらリナ。聞こえるなら返事を……!」
しかし応答はない。ヘルメットの中のイヤーパッドからは、砂嵐のようなノイズが流れるだけだった。
「リナさん、あまり無理をしない方がいい――」
アオが気遣わしげに声をかけた。
リナの顔色は土気色に悪い。
首にはくっきりと爪痕が残り、肩も宇宙服越しに見ても腫れているのがわかる。
ジョーに押さえ込まれた際に傷めたのだろう。
「……大丈夫です。」
リナは弱々しく微笑んだ。
しかしその足取りはふらついている。
極度の緊張と心労、そして負傷による出血と痛みで、体力は限界に近かった。
それでも彼女が歩みを止めないのは、責任感からか、それとも茫然自失のまま突き動かされているからか、アオには判断がつかなかった。
ただ、その決意の火が消えてしまわぬよう、彼は黙って隣を歩き続けた。
しばらく進むと前方に大きなハッチが見えてきた。
鋼鉄製の隔壁に『DOCKING BAY』と表示がある。
救難艇との連結区画に違いない。
「カイ……いるの……?応答を返してください――」
リナがか細い声で呟き、扉の小窓に目を寄せた。
中は薄暗くよく見えないが、特に動く影はないようだった。
アオは慎重にハッチの開閉レバーに手をかけると、ゆっくりと力を込めた。
ギイィと軋む音を立てて扉が開いていく。
その瞬間
「警告。ドッキングポートで異常が発生しました。」
無機質な機械音声のアナウンスが、船内に響き渡っり、二人の背筋に、ぞわりと嫌な予感を走らせた。
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