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招かれざる訪問者

 哀れなるかな 災いなるかな

 迷い子よ 死者よ 罪人よ 悪魔よ

 永遠の暗黒を彷徨い 幻想の旋律に揺られながら

 いつの日か再び生命の驚異に目覚むまで





 朝方から降り始めた雨は凜として冷たく、重暗い街並みにポツポツと橙の光が入る頃にはほぼ霰の粒と化していた。つい今し方ビッグベンの鐘の音が夜も盛りの時刻を告げたものの、真冬じみた天候の悪さも手伝ってか道に人影はまばらである。当然ながら一日中訪れる者もなかったベーカー街の下宿兼事務所の窓には淡々と――まるで壊れたピアノの鍵盤を誰かが叩き続けているような――物憂げな音が滲んでいた。


 探偵シャーロック・ホームズは退屈しきってカウチに寝そべり、藍色のクッションを枕代わりにとりとめのない夢の中へ沈んでいた。もう火種さえ消えかけた暖炉の方へ投げ出された長い足には、天井から一筋の銀糸を引いて舞い落ちた小蜘蛛が巣作りを試みていた。


 シャーロックが重い瞼を開けたのは、事務所の扉の軋み、そして時限的にも訪れるはずがない訪問者の足音を聞き取ったからだった。

 唸りながら身を起こそうとすれば、ふいに氷のように冷え切った指先で襟の中をまさぐられ、肩口を押さえられる。優しく、強く、上体がまたカウチに倒れ込むまで。そして髪をぐしゃぐしゃと掻き回される。

 訪問者の正体はとうに誰それと勘付いていたが、その下心ある図々しい手つき以上に勘を確信に変えるものはなかった。今やはっきりと眠りから覚めたシャーロックは溜息を一つ吐き、その手を払った。


「人の頭をベタベタ触るな、馬鹿ロビン」


 暖炉の僅かな火が、窓から差し込む街灯の灯が、シャーロックの上にかがみ込むその中性的(バイセクシャル)な男の姿を薄闇の中に浮かび上がらせていた。自らは光を放たぬものの、他からの光明を映して輝く銀月にも似たプラチナブロンド。いっそ透明なまでに白い肌。黒絹のような睫毛。海より青く深い双眸。


「いいじゃないか頭ぐらい。減るもんじゃないし君は女の子じゃないし」


 男にしては高い声がクスクスという笑いと共に紅唇から零れる。


「第一声が文句なんてがっかりだね、二週間ぶりなのに。普通は『元気だった?』と聞くところなんだよ」

「元気も何もお前は死んでいるだろう」


 名はロビン。正しくはロバート・ハンチンドン伯。

 言動はまるで少年のそれだが、彼は齢二百を超えるヴァンパイアである。太陽の光を恐れるが故に日中は郊外の霊廟に引っ込み、豪奢な棺に身を納めているが、日没後には人の生き血を求めて街に現れる変わった亡霊(ゴースト)だ。

 ロビンは巷説そのままにしなやかな肢体を艶めいた夜会服で包み、「触るな」の抗議の声も知らぬ風で、カウチに寝転んだままのシャーロックの頬や鼻筋に垂れる黒髪をかき分けるのに余念がなかった。身動きをする度に袖口のカフリンクスがチラチラと光を投げる。


「全く、君は相変わらずの朴念仁だね。ロンドンの一等地に事務所を構えながら、戸口にも窓辺にもジャック・オー・ランタンを飾らないなんてさ」

「何だって?」

「馬鹿だなあ。もうハロウィンなんだよパンプキン君。少しは洒落っ気を出したらどうなんだい? そんなんだから依頼人が来ないんだ」

「……ハロウィン? もうそんな季節か?」


 シャーロックは思わず身を起こし、ロビンに真顔で向き直った。


 新聞は読むが世情には興味がないという彼には、祝祭など夢の中で見る夢のようなものである。失念していて当たり前だった。しかしまあ、知った所で何も変わらないとシャーロックは思う。悪霊を驚かす、或いは仲間と思い違いさせて彼らがもたらすであろう災難を避けようとはなかなかトンチが効いているけども、住居や人をそれらしく飾って菓子を配るだけのイベントと化しては仕方がない。自身も悪霊の一種であるはずの男が笑顔でそれを勧めていることを鑑みても効力の程は知れる。


「ハロウィンがなんだ。悪霊を避けたいなら俺はもっと別の方法を取る。ヴァンパイアには十字架、聖水、ニンニク、銀だ。そいつをずらっと敷地に並べておく。寝言には聖書の言葉を引用する」

「気分の悪い話をどうもありがとう。だけど僕はそういう話をしてるんじゃないんだよ」

「じゃあ何だ? 無駄だと知りながら事務所を飾り付けろと?」

「そう。人間ってのは馬鹿だからね、どれほど君が有能で頼もしい男なのかまるで分からないんだ。直感が鈍ってるし頭も弱いしで外見や評判からしか判断が出来ないんだよ。つまり、事務所を綺麗にしてないと頭の中身も落ちぶれたって思われる」

「扉も開けていないのによく此処が汚いと分かるな」

「さあ、どうしてだろう。ただ連中はそういうつまらない時だけ、一マイル先からだって嗅ぎつけるんだよね」

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