我が主
春までの期間全てを、私は怪我の治癒に費やしました。
ロレン様は私との距離を測りあぐねたまま、それでもここから逃げ出すことはせず、私の補佐を続けてくださいました。
そうして最も雪深い時期が過ぎ、雪も少なくなってき始めた頃。
「ふむ……獣人な……どう見ても人であるのだがねぇ」
久しぶりの雪の中、オゼロの領都カルヴァーレよりこの街へとやって来られた、オゼロ公エルピディオ様の第一声。
この地には荒野の更に奥に山脈を挟み、スヴェトランとの国境がございます。山脈という自然の防壁があるとはいえ、一応の注意は必要であると考えられたご様子で、対策に奔走されていたようでした。
少々お疲れのご様子で、表情にもどこか影がございます。
面識があるとはいえ、従者風情にわざわざ目通りを許してくださったのは、私が獣人であるがゆえでしょうか。
内心でそんなことを考えておりましたら、オゼロ公は、頭痛がするとでも言うように額を押さえ、唸るように「よもや……」と、言葉を続けました。
「このようなこと、想像だにしていなかった。
しかし、陛下はもう決断を下されたよ。其方ら獣人の手を握り、神殿との蜜月を絶つとな……。
で、あるからして、其方の身の安全は保証しよう。
我々は国の指示に従う」
それは、オゼロがレイシール様の敵にはならないと明言したことにほかなりませんでした。
これにより、私の懸念は全て消失することとなり、ロレン様もホッと小さく、気付かれぬよう息を吐いたのです。
越冬前に陛下からの密書を受け取ったオゼロでしたが、この冬の間を使い、裏の色々を調整していたのでしょう。
当然その内容は下っ端近衛でしかないロレン様には報告されず、内心ではヤキモキとしていたに違いありません。
獣人が関わっている以上、ことがおおごと以外になりえませんから。
私も、早合点しないで正解でしたね。ロレン様には感謝せねば……。
もし私が暴れ、オゼロを害しておりましたら、少々ややこしいことになっていたかもしれません。
ロレン様の言葉を簡単に信じるわけにはいきませんでしたし、あの時はそう考えざるをえなかったのですが、思いとどまって良かったです。
そんな内心はおくびにも出さず、私はオゼロ公に感謝を伝えました。
「オゼロ公爵様、死が見えておりました私を手厚く保護してくださり、誠に有難うございます。
この命を繋いでいただいた御恩、必ずやお返し致します。我が主も、オゼロに報いるとおっしゃることでしょう」
「なに。セイバーン殿に今までどれだけの恩恵をいただいて来たか、我々は忘れておらんよ。
……なにより、この北の地は、レイシール殿を誹る資格など無い。
長年の国の憂いだったのだよ、このことはな……」
成る程。
つまり獣人という存在を捨て石とする社会構造は、国の中枢では暗黙の了解であったということなのですね。
そんな予感はしておりました。
しかしそれが分かったからといって、何をどうとも思わなかったため口を閉ざしていたのですが。
「……恨んでおろうな」
そんな言葉を返されてしまいました。
いえ……正直私はなんとも。
「ご存知ないと思いますが……獣人というのは刹那的で楽観的な性質が強いそうです。
それ以前に、遠い過去のことなど我々にはどうしよもうもございませんし、今の社会構造が、今世の我々の預かり知らぬところで形作られていたことも理解しております。
なので私個人と致しましては、特に思うことはございません。
レイシール様の名誉さえ、穢されなければ」
私の言葉にオゼロ公は、瞳を見開き言葉を失いました。
「……恨んでおらぬと?」
「どこに生まれるかなど選べはしないのですから、致し方ございません。
それに私は、レイシール様に大抵のものをいただき、許され、受け入れていただいております。恨みを引きずる理由がございません」
過去に見当違いの怒りを主にぶつけ、彼の方に生涯消えぬ傷を刻みつけてしまった後悔もございます。
ですから私は、もうあのような失敗をしないならば、それ以外のことはどうでも良いと思える。
私の言葉にオゼロ公は息を吐き、少しほっとしたように表情を緩めました。
けれど「……世の獣人全てが其方のようには思うまいがな……」とのこと。
つまり、この方を今悩ませている懸念事項は、獣人絡みのことなのでしょう。
だから私が獣人と知り、私の意思を、確認しようとなさったのですね。
「神殿を敵に回し、其方らの手を握る。
……陛下はその決断を下された。だがな……其方らがそれを、受け入れる意思を持つかどうか、実際問題として、頭を抱えておるのよ。
北の荒野を持たぬ領地の者らには、この懸念は分からぬものなのかも知れぬが……」
成る程。
陛下の決断に否を叩き付けるつもりはないけれど、手を取るとした獣人側が、それを受け入れるとは限らない……。
二千年虐げられた恨みを振り捨てられると思えない。
万が一、その手を払われ、積年の恨みを晴らすと決起されてしまえば、神殿と獣人、双方を敵に回すことになる。
そう考えるのは当然だろうと思いました。
人というのはそうできておりますし、社会はそのように回ってきているのです。普通に考えれば、獣人は人の提案を受け入れがたく感じると思うのでしょう。
「レイシール殿が其方を囲い、獣人と知って尚、厚遇していたのはよく分かった。
神殿が我々の知らぬ策略を巡らせ、其方らを利用していたことも……。
だから今しか、これを正す機会が無いと言う、陛下の決断も分かるのだよ。
しかしだ。
彼らは我々の声を聞いてくれるのか? 信頼を得られると思えるか? その上でスヴェトランやジェスルのことも、この地にはある……」
よく作られた構造です。
今までどの国王も、これを崩すに至らなかった理由は、この歯車がかなり大きく、様々なものに噛み合っていたからなのでしょう。
ですが私には、それが問題とは思えませんでした。
何故なら、私は存じております。
「我が主が囲っていた獣人は、私と影の獣人たちだけではございません」
その言葉に、オゼロ公の視線がこちらを向きました。
「越冬が重なり、情報の伝達が遅れていらっしゃるのでしょうし、ロレン様にも込み入った話はされていないのでしょう。
時期を考えれば、我々がアヴァロンを追われてからさほど日数を空けず、陛下は伝令を走らせたのでしょうから」
そうですね? と、控えるロレン様に視線をやると、戸惑いつつもこくりと頷かれました。
レイシール様の遺書とやらにどれだけのことが書かれていたか、私には分かりかねますが、レイシール様ならば、その遺書が作用する状況は考慮していたでしょう。
ならば、囲っていた獣人の規模は記してはいないに違いありません。我々が行動するための時間……逃げるための時を、彼の方ならば必ず用意しようとされるでしょうから。
「アヴァロンには、多くの獣人がおりましたよ。住人や職人に紛れ、人として生活しておりました。
彼の方の影の一人であるスヴェン隊長の治める管理区域にも、獣人の隠れ住む村がございます。
レイシール様は既に、一部の獣人との間に絶対的な信頼を築き上げていらっしゃる」
唖然と口を開くオゼロ公と、ロレン様。
「あの方が王家の切り札です。
獣人との交渉役が務まるのは、彼の方しかおりません。
レイシール様の使う影には、元は荒野の狩猟民であった者も多く含まれる。言うなれば、北の伝手も、彼の方はお持ちなのです。
ですのでオゼロ公爵様には、この交渉を成し遂げたいお考えならば、レイシール様の保護を強くお勧めいたします」
そう言うとオゼロ公爵様は、また困ったように顔を歪ませ、唸りました。
どうやら、レイシール様への疑念は強まってしまったよう……。
しかし、納得もしたのでしょう。陛下が何故、この決断に至ったかを。
陛下に従うと口にした以上、オゼロはもう腹を括るしかないのですが、それ以前の問題としてレイシール様の安否はようとして知れないのです。
「万が一、レイシール殿がもう、来世に旅立たれていた場合は……」
「それはありません」
マルがこの地へと彼の方を導いたのは、それ相応の理由があるからこそ。潜伏場所が確保されているからこそでしょう。
彼も荒野の人間。あの不毛の雪原生まれなのですから。
「我々は荒野に逃れるつもりでおりました。ですから、荒野のどこかに……潜んでいる可能性が高いでしょう」
「この時期に荒野を捜索するのは無理だ。春にならねば……あんな目印も何もない地では、下手をしたら方向さえ見失う」
「ならば、セイバーンの獣人を頼るべきです。我々は鼻がきく。己が進んできた道は見失いません」
言葉を重ねましたが、オゼロ公の顔色は晴れませんでした。
それどころか、どんどん表情が翳ってしまうのです。
「…………難しいことを言うな。我々は、レイシール殿に剣を向けた。その姿を、あの街に居た者は見ているだろうに」
我々が、レイシール様捜索に手を貸すよう言ったところで、信じるはずがなかろうと。
あの騒動で命を落とした獣人も少なくない。その恨みを忘れ、手を貸す者がいるとは思えないと。
ですが私からすれば、それはおかしなことです。あの街の獣人らが、レイシール様のために身を捧げぬはずがない。
「レイシール様のためであるなら、彼らは動きますよ。
彼らは彼の方に愛され、守られていた自覚がございます。
なのに、それに応えぬはずがない」
命には命でもって償うのです。それが獣人。損得や後先など、二の次です。
「……たとえそうであったとしても、レイシール殿はどうだ。
あの街から……国から敵として追われたのだぞ。剣を突きつけられ、助けの手も伸べられず、命を失うかもしれないような状況で、追われたのだ。
それをおめおめと……今更掌を返したとして、我々を受け入れてくれるものだとは……」
ようやっと本音を口にしたオゼロ公。
ですがそれは、より一層私には滑稽で、笑いを誘いました。
急にくすくすと笑い出した私に、二人はギョッとした視線を向けてきます。
「彼の方が度を越したお人好しであることも、ご存知でしょうに」
それで学習してくれる主であったなら苦労などしません。
だいたい、アヴァロンからも追放されたわけではありません。彼の方自らが離れる選択をしたのですよ。住人や事情を知らない部下を、これ以上巻き込まないために。
「裏切られたことくらいであの方が、その相手を切り捨てられる気質であれば、苦労はしません。
私の時もそうでした。
彼の方をこの手で刺したというのに、レイシール様は私を責めることひとつしなかった。
ウォルテールの裏切りすら、許し、命懸けで助ける選択をした……。
でもそれは、ただお人好しだからというわけでもないのです。
彼の方は……きっと我々には見えない、ずっと先を見通して、その選択をされている」
自覚は無いでしょう。
ですが、彼の方はご自分で思っているよりもずっと深く、ずっと奥まで見通しておられるのだと、感じる時があります。
本当に細い、微かな可能性を手繰り寄せるために、ギリギリの選択をされているのだと、感じる時が。
ですから私は、彼の方の決断には従うと決めております。
私は、いついかなる時も、彼の方を支え、その微かな可能性の先へ手を伸ばす、一助になりたい。
「私のこの命を賭けましょう。彼の方は引き受けますよ。あっさりと了承するに決まっております。
下手をしたら……もうそのように動いているかもしれません。
なにせ、じっとしていることのできない、落ち着きのない主なのです」
傷付けられ、蹲り、枯れそうなほどに泣き疲れようと、最後には必ず立ち上がりますよ。
そうして未来を見据える。そんな方なのです。
◆
私の言葉は、考えていた以上に早く、証明されました。
ある夜、眠っておりましたら、何故か叩き起こされたのです。
「起きろ! おいっ、寝てる場合じゃない!」
「……火事でも起きましたか?」
言わずと知れたロレン様です。そしていつもの医師ではなく、オゼロの医官が伴われており、何事かと思ったのですが……。
「レイシール様がいらっしゃった!」
……は?
「来たんだよ、あの人が自ら!
今はオゼロ公爵様と面会中だけど、すぐ支度しよう。会いたいだろ⁉︎」
生きておられることには確信を持っておりました。
でなければ、私は絶対に命を繋いでいない。私が生きているということは、あの方も生きているということだと、そう……。
けれど、やはり……。
レイシール様がいらっしゃったというその言葉は、格別でした。
「どうやって……」
「訪ねてきたんだよこの季節、この夜中にな! まだ荒野は雪まみれだろうに、くそっ、どうやって来たんだあの人はっ」
そんな風に悪態をつきつつも、心なしかロレン様の声は弾んでおりました。
そうして私に「取り敢えず医官の診察を受けな。了解が得られたら、面会を許してくれるって、オゼロ様が」と、おっしゃいました。
けれど私の耳は、その言葉を聞いておりません。
高揚してしまった気持ちのまま、私は上掛けを取り払っておりました。
我が主。
「………………従者服をください」
自然とそう口が動いていました。
身体の欠損のことも忘れていたのです。彼の方が来たならば、私の居場所はその傍。ここではないのだという気持ちが、強く動きました。
「行かなければ」
「ばっ……⁉︎ 待て、脚の骨、まだちゃんと繋がったとは言い難いだろうが⁉︎」
「私は彼の方の従者なのです」
「従者の前に怪我人だ! 待て、聞けよ!」
声を無視し寝台から下りたのですが、すぐに身体が傾いでしまいました。
左脚が無いのですから当然です。
机に右手をつこうとして、やはり右手も無く……そのまま机に身体をぶつけ、巻き込んで倒れてしまいました。
「言わんこっちゃない!」
慌てたロレン様が寝台を回り込み、身体の上にかぶさっていたものを退かせてくださいました。机の一本脚は見事に折れ、天板が私の上に落ちていたようです。
身を起こしたところに、ガタガタと扉を強く揺さぶるような音がしました。
いけない。こんな無様な格好、見られたくない。そう思ったのですが、すでに遅く……。
「ハイン‼︎」
そう叫び飛び込んできた方が。
燭台の頼りない灯でも存分に煌めいているはずの銀髪は、かつてのような燻んだ灰髪になっておりました。
時間をかけて鍛えたはずのお身体も、ひとまわり細くなり、左頬には記憶に無い、薄く刻まれた刀疵。まるでそこいらのごろつきのような服装。
私の記憶の最後にあった彼の方は、瞳を閉ざし、痛みと熱に翻弄され、表情を歪めておられました。
ですが今目の前におられるこの方は、周りの視線すら念頭に無いのか、成人男性にあるまじきことに、涙まで流し……っ!
そのまま私の前で膝を突き、両腕が私の首に回されたのです。
左手が、私の髪を乱暴に掴み、そのせいで頭皮が少々痛かった。
右手の感触はありませんでした。失ったまま……それでもこの方は、ちゃんと生きておられた。
少し遅れて入ってこられたサヤ様が、忍装束であったことに、この時間の来訪の意味を知り、けれどサヤ様も、まるで当初の目的など忘れてしまったかのように、両手を口にやり眉を寄せました。
私の様子を見て、失われたものを知り、それでも私の命がまだ今世に繋がっていたことに瞳を潤ませ、その場で顔を伏せて……。指の間から沢山の涙と、必死に堪えた泣き声が。
やめてください……。
そういう恥ずかしいのが嫌だったんですよ。
「お元気そうで宜しゅうございました。が。成人男子がなんですか、ひとーー」
人前で涙など……と、言葉を続けようとしたのですが。
「馬鹿‼︎ なんだも何もない!」
それより先にそう言葉を耳元に叩きつけられ、結局身を離してくれもしないレイシール様。
やめてください、鼓膜まで破れます。
「なんでお前……っ、馬鹿野郎っ、生きてるなら、知らせくらい…………っ。
一人で無茶くちゃしやがって……もう絶対、こんな献身は金輪際、許さないからな‼︎」
そう言っておりますが、この方だってそれなりに死戦を潜り抜けてこられたのでしょう。
駆け寄る際、身体を少し庇ったのを、私が気付かないとでも思っているのですか? 背中にある感触の違和感にも……。
頬の傷だけではない……きっと他にも沢山……。
表情ひとつとっても、今までとどこか、違います。
ただ優しくあれた時の貴方とは、違っていました。
きっと大きく重いものを、また背負ってしまわれたのでしょう……。
それでも……。
この方が優しさを失っているなどとは、思いません。
なにせ筋金入りの、お人好しですから。
そうこうしてる間に、遅れてオゼロ公が供を連れて訪れ「レイシール殿……」と、我が主に声を掛けました。
視線を上げて驚いたのは、数日前にお会いしたばかりだというのにオゼロ公は……何か酷く、老いてしまったかのように見受けられたことです。
疲れ果て、心を擦り減らしてしまったような。苦しみに、今も深く抉られているような……。
その声にレイシール様は、零していた呻き声を、ピタリと止めました。
そうして私に回す腕をほんの少しだけ緩め、身を離し……。
「…………エルピディオ様……。
ハインを保護し、命を繋いでいただいたこのご恩……必ずや報います」
「良い……。
其方には今まで、それ以上のものをいただいておるし、これは陛下の命。私への礼は不要だよ」
疲れ切った掠れ声に、しかしレイシール様は「いいえ」と力強く返しました。
サヤ様も、涙を堪え、強引に目元を拭い表情を引き締めます。
「報います。ハインの命は俺にとって、それだけの価値がある。
獣人だと知っていて、それでも手を差し伸べてくださったのでしょう?」
するりと手を離し、立ち上がったレイシール様は、私に背を向けました。
今まで見たことのない、縮んでしまったと思っていたお身体が、逆に大きく見え、左眼が錯覚を見ているのかと思ったほどです。
そうしてその背が、決意に満ちた声で「どんな形でも、構いませんか」と、言葉を綴りました。
「死なせない。国の不利益にもならない。そうできる策を、用意します。
ハインの命を救っていただいた御恩には、同じ命で報います。それが我々の流儀ですから」
そんな風に言っては、まるでご自身も獣人みたいではないですか。
呆れたものの、その背中は揺るぎそうもありません。
大きく、重いものを背負ってしまっても……この方はもう、崩れることはないのでしょう。
「そんなに都合良く、いくものかね?」
オゼロ公の、諦めたような……それでいて、小さな希望に縋るような、問いかけに対し、レイシール様は間髪入れず「やります」と、返事を返し。
「死なせません」
誰をとは聞きませんでした。
この方が決断をしたならば、私はその背を押すのだと、決めておりましたから。
少し遅刻しましたっ、申し訳ない……分量も若干短いんだけど……。
なんとか書き上げましたっっ。今週も一話だけですが、楽しんでいただければ幸いです。
では来週も、金曜日の八時以降を維持できるよう、頑張りますーっ!