鎖と餌
「鎖……って、何?」
ロレン様の疑問の声で、現実に引き戻されました。
息を一つ吐いて、私はまだ、命ひとつ分の働きもできていないのだと、実感致しておりましたのに……。
あれから更に私は、彼の方にまた、命をひとつ救われております。
私を獣人だと知っても、あの二人はそれまでの態度を覆さなかった……。それどころか、私が何者であるかを知ろうとし、私の尊厳すらも守ろうとしてくださった。
もう、命三つどころではない……。今レイシール様は、獣人全ての魂までもを背負い、救おうとなさっていた……。
なのに…………っ。
「本能的な縛りのようなものです。
個人差はありますが……獣人というのは、もともと群れで生活していて、その群れの頂点に従う習性が強く残っているのです。
狩猟民であった彼らには、血を残し、種を後世へと繋げていくために独自の基準があり、それが習性として身に染み付いているのですよ。
その基準において、主は絶対的存在です。
主に死ねと命じられれば死ななければなりません」
「なっ……っ⁉︎」
私の言葉に、憤慨をあらわにするロレン様。それを私は鼻で笑いました。
何もおかしなことではないです。
「貴女がただって同じでしょうに。貴女とて、王命とあらば命を賭けるのでしょう?
それに、獣人は狩猟民。私のような身体になった者は、狩りで役に立ちません。
働けないというのに、食わせるだけの手間は掛かりますし、守るためにも人手を割き、結果死人や怪我人を増やすことになる……。
ですから、撒き餌にするなり、打ち捨てるなり、効果的且つ邪魔にならないように……処理をするのは当然かと」
私のその言葉に、ロレン様は言葉を飲み込み、瞳を見開きました。何か言い返そうとしたのか、口元が戦慄き、そして瞳が強く、私を睨みます。
処理……と言う言葉が納得いかない顔ですね。ただ命に従い死ぬということが、どうにも受け入れ難いよう。
我々にだって意思はあります。避けられるならば避けたい。でもこれは……気持ちで分かっていても、逆らえないものなのです。
だからウォルテールは、過ちを犯すしかなかった。
血が濃い分、本能的な欲求も強かったはずです。
そして……本来ならばこのような身になってしまった私も、もう役になど立ちはしない……処理すべき存在。
「鎖……と、表現したのは、その、主従意識のことですね。
命を救っていただいた私は、それを命をかけてお返ししなければならないと、本能的に縛られた。
けれど彼の方は……しなくて良いと……自由にして良いと、私に命じました。
あの時私は、彼の方の鎖から一度は解放されているのです……。
私の古巣は、私を縛り、手放さないまま捨てたというのに、彼の方は……私を縛れたにも関わらず、自由をくださった」
私を獣人だと知った時、彼の方は、私を縛り直しました。
傍を離れてはならない。自ら勝手に死んではならないと。
でもそれは、私のための鎖。自ら持ち、望むことを禁じられていたあの方が、私のために繋いでくださった鎖なのです。
獣人の私を、人として扱い、人にするために、人生すら賭けてくださる方なのです。
「ですから私は、私の意思で彼の方を主としています。
誰に何を言われようと、私の主は彼の方で、私の魂も、あの方に捧げるのです。
こんな身になってしまいましたが……それでも私には、彼の方が唯一。私の全ては、彼の方に捧げたい……」
彼の方のためだけに生きているのです。
例え首のみになったとしても、彼の方の役に立ちたい。
だから私は、なんとしても、我が主の元に戻らなければ…………。
「…………それならさ……貴方はまず、何よりもその身体の傷を癒すべきだろ。
慣らすとかそんなのは、きちんと傷が癒えてから考えることで、無理をして急ぐことじゃない」
ふいにそう言ったロレン様が、私の膝の上にある盆を取り上げてしまいました。
「なっ……っ⁉︎」
「まず! その身体を、今の最大限、最高の状態まで、治さなきゃだろ。
無理をして、足の骨が歪んだまま繋がったり、寿命を縮めたりしたんじゃ、今以上に役になんて立てなくなる……。
足手まといになりたくないなら当然の我慢だと、ボクは思うけど」
言い返せませんでした。
さして腕力の戻っていない左手からも匙を奪われ、結局口の前に差し出されてしまい、それを前に固まった私にーー。
「なんだよ。言った意味分からない?」
「……わ、分かります……が…………」
こんな拷問、私には耐えられそうもないのです……。
そう零すと、イラッとロレン様の眉が、吊り上がりました。
「あぁどうせ拷問だろうよ⁉︎ ボクなんかにこんなことされるんだもんなっ!
どうせならサヤさんとか、リヴィ様とか……ボクみたいなガサツで男みたいな奴じゃなく、可愛くて綺麗な人が良かったろうよ!
けどお前怖いって女中が逃げちゃうんだから、しょうがないって理解しろよな!」
成る程。
それは思い至りませんでしたね……。
ロレン様がわざわざここに残り私の世話をしているのは、私が脱走するからだけではなく、獣人であるという秘密を守るためだけでもなく、女中が私の世話を蔑ろにすることを懸念していたからですか。
「拾ったのボクなんだから、仕方ないだろ……。全部オゼロに押し付けるのも筋違いだし……こんな傷じゃ動かせないし……。
それに、ボクが帰ってたら、貴方だって困ってたんだ。万が一オゼロが陛下のお心に叛いたら……」
私が、庇護下を離され、秘密裏に害される懸念を、牽制するためでもあったのですね……。
「だからこれくらいのこと我慢しろ!」
ぐいと唇に押し付けられた、山盛りの匙。
誤解です……と、言うために口を開くと、それを中に突っ込まれました。
むせて咳をし、腹の傷に響いて蹲った私に慌て、ロレン様が私の背中をさすってくださいました。
「わ、悪い! 変なところに入った⁉︎」
「ちが……っ、ゴフッ、ゲフゲフ」
「一旦吐いていい! ほらっ、ここで良いから……悪かった、無理に突っ込んで!」
ここに吐けと両手を差し出してきたことに唖然としましたね。
いや、そうじゃなくっ……。
私が拷問というのは、この、状況のことで……。
「……ひ、人に看病されること自体が、レイシール様以来、なのです……。
まして、女性の世話になるなど……」
ずっとレイシール様しか念頭に無かった私に、正しい女性の扱い方など、判るわけがないではないですか!
けれどそう言った私にロレン様ときたら。
「男みたいなもんだろ」
「どう言おうが貴方は女性です!」
見た目とかの話じゃなく!
そう言い返しましたら、ロレン様がまた、赤く染まりました。
…………成る程。
こちらも理解できて参りました。この方も、女性扱いされることに、慣れてらっしゃらない……。
そう認識すると、妙に心が乱されました。
何と言えば良いのでしょう……もっと揺さぶりたいような……狩猟本能のような何か、です。
耳や首筋まで赤いのは、私の言葉一つが、ここまで彼女を動揺させているということで、その影響力に変な愉悦を覚えました。
そして自身を男のようなものだと言った言葉に、無性に反発したくなったのです。
この方は分かってらっしゃらない……。
死ぬはずであったろう私を、生かした意味が……。
「ここまで説明したのに……貴女はまだ……理解、していないのですか?」
口からそんな言葉が滑り落ち、目の前に差し出されていた両手のうち、右の手を掴んでいました。
それを布団に押し付けるように固定して、その手を軸に身を乗り出しーー。
「貴女も、私を支配できるのですが」
今考えても、どうしてそんなことを言ってしまったのか……理解に苦しみます。
「貴女も私の命をひとつ、掬いあげた。
それを、利用しないのですか?」
眼前に身を乗り出し、鼻が触れそうなほどの距離で、そう……。
「っ…………待て!」
号令のような待て。に、つい身を固めたのですが、すると逆の手が私の肩に伸び、私を寝台に押し付けました。
傷に響き、うっ、と、唸ると、手はあっさりと引っ込められ、空中であわあわと彷徨い、次に拳となって、私の顔の横に、ゴスリと振り下ろされて、寝台が軋みました。
「馬鹿にするのも大概にしろよ……怪我人に、そんなこと、するわけないだろうがっ!」
そんなこととは……。
少し考え、支配できるとか、利用しないのかとか、聞いたことに対しての返答かと納得。
「治せ! まず傷が塞がるまでちゃんと寝てろ! その他もろもろは全部その後だ、分かったな⁉︎」
「……貴女がそう言うなら」
「まだそれやんのか⁉︎ 次は顔、殴るからな!」
真っ赤なままで、すごまれましても……。
結局食事も途中で投げ出し、ロレン様は外に逃げ出してしまいました。
気配と匂いが遠ざかってから、私も左手で、自分の顔面を鷲掴みしましたよね。
「…………お前は、何を、やってやがる…………」
自分で自分が分からないなど、初めての経験でした。
◆
そもそも何故私は、ロレン様を女性として扱おうとしているのか。
ご本人がおっしゃる通り、間違っても女性らしくなどない方です。
だいたい私も、かつてはともかくここ最近は、女性との接点を多く持っておりました。
職場にだって当然のように女性がいましたし、共に働いていたのです。なのに、今までその女性方を、女性として意識することはございませんでした。
だから多分これは、獣の鎖……。
本能による、縛りです。
ロレン様に命を救われた。そう認識していることが、彼女への意識に作用している。
いけないと思いました。
レイシール様は、もう私の中で、絶対的な主君です。そこを覆す存在など、許せるはずがない……。
このような外敵は排除すべきだ。
それにあの女は、常々レイシール様を敵視しておりました。今は彼の方を害しはしないと良いように言っておりますけれど、その言葉にだって保証など無いのです。
一網打尽にした後、秘密裏に処分しようとしている可能性だって拭えません。
レイシール様を害する全ては、排除します。
そのためなら私は……どんな手段だって、厭わない。我が主をお守りするためならば、鬼にだってなりましょう。
◆
傷の治療に専念することに致しました。
彼女の言ではございませんが、不自由となってしまったこの身が、更にレイシール様の足枷となるなど耐えられません。
いざという時にきちんと動ける状態を得ること。そしてオゼロやロレン様の油断を誘うことが必要と考えた結果の判断です。
「……何を企んでるんだ?」
「貴女が回復に努めるべきとおっしゃったのですが」
大人しくなった私を訝しげに見て、ロレン様は私に匙を差し出しました。
極力無心でそれを口に含み、咀嚼して飲み下す作業を淡々とこなします。
あのやり取りからひと月近く、無茶をして傷口を裂くなどということがなくなったため、回復は順調。何より治りが早いとのこと。
それには内心で「当然でしょう……」と、思っておりましたが、口にはしませんでした。
獣人の中には、たまに肉体的な損傷等に強い個体がおります。
別に失った部位が生えてきたりはしませんが、傷が塞がるのが多少速く、痛みにも耐性があるのです。
私にもそれがありました。まぁ……それもやはり、獣人の中では埋没してしまうほどの、突出したとは言い難いものでございましたが……。
「今日医師から、左腕の傷はもう充分完治しているだろうと報告をもらった。
だからこの苦行は今日が最後だ。良かったな」
匙を挑発的に振りつつ、皮肉げに笑ってそう言うロレン様。
「それはありがとうございます」
取り合わない私。
いっときは、私に接することに緊張を見せていたロレン様ですが、それも半月程で通常時に戻りました。
私もあれ以来、この方の手を煩わせないよう努めておりますので、会話は全くはずみません。
あれは……気の迷いにもほどがありました。
獣人を操ることすらできるあの手法を、何故私は、簡単に告げてしまったのか……。
できるならば、今直ぐこの方を殺して秘密を守りたかった。
しかし……武器一つ与えられていない私に、この方を仕留めるのは至難の技です……。
前に言われた通り、私の脚はまだ使い物になりません。きちんと骨の繋がっていないこの脚では、腰に縋るのがせいぜい。
甚だ遺憾ではありますが、この方は私よりも武に秀でているうえ、体格でも優っている……。その上今は、私を警戒しているのです。普通に仕掛けたのでは勝てる見込みがありません。
だから、まずは気を緩めるのを待つ。その間に身体の治癒に努める。と、したのです。
瞳を伏せ、淡々と食事に意識を集中させる私を見て、暫く不満気に口元を歪めていたロレン様でしたが……。
「……ま、いいけどな」
そう言いぷいと、視線を逸らしてしまいました。
夕食の後、本日は身を清める日。
これも結構な苦行でしたが、敢えて触れず、されるに任せています。
私の意識が戻らぬうちは、どうせ好き勝手にいじり倒されていたのでしょうし、今更感もありましたから。
とはいえ、こればかりは女性にさせるのもな……と、オゼロ側も考えたようで、手伝いの方を寄越してくださいます。
本日も、どなたかの小姓と思しき二人の少年が、私の身をおっかなびっくり整えてくださいました。
「い、痛くない……でしょうか」
「問題ありません」
「ここ、大丈夫ですか?」
「えぇ、平気です」
私が隔離されているのはオゼロの別館の中の、本来ならば庭師小屋として使われるものであるそう。
あまりにも私の状態が悪く、予断を許さない様子であったため、医師二人が交代で泊まり込み、処置を行ってくださったのだそう。
その際に、管理しやすいようこの小屋へと移されたとのことでした。
まぁ……それは建前というものでしょう。
ロレン様の言葉からして、私を獣人と知っていたからこその隔離だったのだと思います。
万が一私が獣化し、暴れたとしても被害を最小限にするための。
無論私は獣化などできませんし、心配無用なのですが、獣人全てが獣化できるわけではないということを、彼らは知らないのでしょうし。
それ以前に、二脚になってしまった獣など、立つことすらできませんのに……周到なことです。
オゼロ側は、極力私との接点を作らぬようにも努めているようで、数日に一度の清めと、担当の医師の派遣以外は、殆ど接触してきません。
彼ら清め役の小姓が二人組で来るのも、万が一、私に襲われたとしても、対処できるようにと考えてのことでしょう。
「これ冷めてきちゃったね」
「お湯足そうか」
そんな話をしながら、片方が暖炉に薬缶を取りに向かいます。
本日派遣された二人は、歳の頃十二、三歳……と、いったところ。
まだ口調もたどたどしく動きも洗練されておりませんでした。
私が従者見習いとなったのも、同じくらいの歳です。
ずっと年上だと思っていたギルが、まさかの同い年と発覚して愕然としたのですが、あちらもあちらで私をレイシール様と同じくらいと考えていたようで、このチビが俺とタメ⁉︎ と叫ばれ、腹が立ったのを覚えています。
小姓の片割れが金髪の持ち主であったことも手伝って、つい旧友の顔が、脳裏を過りました。
ギルは……無事でしょうか……。
レイシール様が伝言を残されておりましたが、あれも大概頑固者ですし、気の短いところがございます。
とはいえ、ルーシーをはじめ多くの使用人を抱えた店主という立場ですから、早まった行動だけは取らずにいてくれたらと、願わずにはおれません。
なんとか自重していると良いのですが……。
そして何より、レイシール様。
今、どうされておいででしょうか……。
ユストがおりましたし、あの着の身着のままの切羽詰まった状況にしては、マシな処置ができたはずとのこと。
ずっと眠ったままであられましたが、それは失った血と体力を温存するためと、痛みを緩和する劇薬を投与したためだと聞いておりました。
身体を極力休ませるため、本来はあまり使用が好ましくないとされているその薬を、状態を見極めギリギリの量、与え続けていた。
おおかたそれは、私にも使用されたのでしょうし、こうして生きておりますから、彼の方もきっと、大丈夫。
……そう思っていなければ、気が変になりそうです……。
「いっ、痛かったですか⁉︎」
急に慌てた声となった小姓が飛び退いたため、視線を上げました。
どうやら私は随分と険しい顔をしていた様子。
「いえ、大丈夫です。
……申し訳ありません。どうしていようが、痛みはあるもので……。
貴方がたの処置が原因ではありませんから、お気になさらず」
そう言うとまた恐る恐る……不安そうに私の身に湿らせた手拭いを当てました。
湯浴みすらできぬ身ですから、これだけでも気が紛れて有難い。
……彼の方とは今、皆が共にあるはず。
逃げ切れているはず。ロレン様が何もおっしゃいませんから、そうなのでしょう。そうに、違いない……。
ならもう……意識を取り戻されたでしょうね……。
身を欠損し、その衝撃と痛みにより熱も上がっておりました。居場所を奪われ、何もかも失って消耗しきった彼の方は……意識が戻った時、ちゃんと現実に、耐えることができたのでしょうか……。
失うこと、奪われることを教え込まれすぎて、もうギリギリのところまで追い詰められていた彼の方。
せっかくここ数年であの崖っぷちの状態から救われ、色々なものを得て、最愛の方とも結ばれた。
ようやっとこれからと、いう時でしたのに……。
それらの殆どを、また失ってしまった……。
これ以上の犠牲を出さないよう、故郷に別れを告げた時のお顔が、頭から離れません。
皆を生かすために、巻き込まないために口にした彼の方の言の葉を、皆は額面通り受け取ったようでした。
それを彼の方は、静かに受け入れていた。
けれど…………。
意識が戻り、いざ現実と向き合った時彼の方は…………それをまた、受け止められたでしょうか……。
◆
翌日より、ロレン様がおっしゃっていた通り、私は膝の上に盆を置き、食事を自ら行うようになりました。
そうしてみて分かったのは、思った以上に、それが難しいということ……。
少しでも腰を動かせば、盆はズレます。器を持てないので、安定性がすごぶる悪い。
食事を進めていけば重心が変化するので、食べ方によってはひっくり返してしまいます。
とはいえ。自分が望んだことでもありますし、これは私が一生繰り返していくこと。慣れるしかありません。
私の食事風景を、ロレン様はイライラした様子で監視されております。
時間が掛かるので腹立たしいのでしょう。
数日のうちは、私も状況を甘んじて受け入れておりましたが、だんだんと……気持ちがささくれ立ってくるのを自覚しておりました。
幼子でも苦にせずできるようなことが、もう私にはできない……。
衣服の着脱ひとつから不自由を強いられました。
不浄場にすら介添えが必要なのです。こんなに腹立たしいことはございません……私は本当に役立たずで、足手まといでしかなくなった。
こんな身を生かす意味があるのか?
ある日苛立ち紛れにそう考え、無いな……と、思い至りました。
これから逃亡を続ける生活になる可能性が高いレイシール様に、こんな身になった私は不要なのだ……と、そう考えてしまうともう、思考に歯止めは掛かりませんでした。
私は、彼の方の手の代わりとなるため、従者となったのです。
なのに私自身が、彼の方よりも不自由な身になりさがった。
どうしようもない虚無感を振り払うことができませんでした。
ここに囚われている私は、レイシール様を釣るための餌でしかない。
許されない。
そのような状況、あって良いはずがない。
ではどうすれば良いだろう。彼の方は私が自ら死ぬことを禁じてしまっておりますし、自害はできません。
彼の方が、私のために繋いでくださったこの鎖を、自ら引き千切るのは嫌でした。
武器も、衣服も……意識が戻った時には、手元にありませんでしたから、今の私に残された彼の方に頂きしものは、もうそれしかないのです。
ならば……。
殺してもらえるよう、仕向けるしかありません。
勿論、ただで死にはしません。彼の方の憂いを、ひとつでも多く、道連れにします。
◆
左手を思う状態となるまで鍛えるのに、また半月掛かりました。
長く使っていなかったものですから、上手くできるか甚だ不安でしたが、もし見つかってしまったとしても、特に困らないのだと気が付き開き直りました。
ロレン様の目を盗み指を動かし、手首を回して地道な鍛錬を積み重ねました。
身を清める日。私は従順なふりをしつつ、二人のうちの一人が、その場を立ち去る絶好の機会が巡ってくるのを待ち、淡々と、根気強く、何日も耐えました。
そして、私の世話に意識を取られている小姓へと手を伸ばす、絶好の機会は訪れたのです。
私も従者であった身ですから。
彼らがどこに何を仕込んでいるかは、我が事のように理解しておりました。
腰帯に挟み、隠された小刀。それの位置は、帯を見れば分かります。
まだ慣れていないうえ小柄な彼らは、腰帯に隠す小刀が目立たぬよう、位置を調整することにも慣れていなかった。
「うっ……」
痛みに身を屈めたように見せかけ蹲ると、慌てた彼は咄嗟に私を支えました。
「痛かったですか⁉︎」
本日の子は、私に対する戸惑いは少ないよう。有難いことに、すぐに身を寄せ支えてくださいました。
心の中では「申し訳ありませんね」と、詫びを述べ……。左手を彼の腹に滑り込ませ。
「少し脚の傷に響きまして……。もう、大丈夫です」
「いえ。配慮が足りなかったのはこちらです。
あの、一旦横になりましょう?」
「そこまででは……」
「いえ、背中側は終わりましたから、もう寝転がっていただいて大丈夫ですし」
優しいその彼の言葉に甘え、寝台に身を横たえつつ、手に握ったものは寝具の間に潜り込ませました。
もう一人が慌てて帰ってきて、私の傷口に血が滲んでいないかを確認していく作業。痛いことにした左脚の断面は、当然ながら何も問題ございません。
「…………痛いと感じてしまうだけなのだと思います」
「それは……当然です。当然のことですから……」
「申し訳ありません。貴方がたにはなんの落ち度もございませんのに……」
そう言い場を誤魔化し、少し一人にしてもらえるかと、哀れを乞いました。
適当に掛布の下へと突っ込んだだけの小刀を、見つけられてしまうと厄介ですから。
小姓らはその言葉を素直に聞き入れ、さっと場を片付けて出て行きました。
念のため医師を手配しましょうかと気を利かせてくださった声にも、必要ないと返事を返し……。
彼らが出ていき、音も匂いも遠去かってから、掛布の中へと手を滑り込ませました。
……王都の孤児をしていた頃は、これで金品を掠めていたのです。
レイシール様の従者となってからは、使う機会もなかった技でしたし、懸念を拭えませんでしたが、なんとかなりましたね。
これで武器は手に入れました。
後は……死に際を見極めるだけです。
◆
寝台の隙間に、小刀を隠しました。
万が一小姓らが落とし物を探しに来ても、見つからないよう……周到に。
そうして、殺される相手を吟味することに致しました。
とりあえず、ロレン様は仕留めるつもりでした。けれど、できるならばオゼロ側にも一矢報いておきたい。
私を彼の方の餌にしようなどと目論んだことを、後悔させてやらなければなりませんから。
レイシール様は、とても心を砕き、オゼロの領民のために尽くしました。
確かに木炭の秘匿権を有償開示としたことは、オゼロにとって痛手だったことでしょう。
しかし、それ以上の富を約束したも同然だったはず。今も尚、誠意を持って対応に当たっていたはず。
なにより、オブシズに絡む一連を紐解いたのは彼の方です。レイシール様なくして、オゼロの憂いは晴れなかった。その恩を、仇で返そうなど……。
これ以上彼の方が、傷付く所は、見たくなかった……。
本来なら、獣人を抱えることを咎められるのは、レイシール様ではない……。
荒野を持つ北の領地、その全ての領主こそが、責められるべきでした。
獣人を贄にしてしか成り立たないような領地運営を、何百年と続けている……。獣人を囲っているのは、セイバーンだけではないのです。
なのに、彼の方を生贄にして難を逃れようなどと……そのようなことが、許されて良いはずがない……っ。
北の地に生まれた私は、知っていました。
この北の地域がどうやって成り立っているか。我々獣人が、どのような位置付けであるかを。
私のような者を殺さず放逐するのも、獣人の血をこの地に重ねるためでしょう。
獣の血の薄い私ですが、私を形作った胤と器は、かなりの血の濃さを有しておりました。
私には現れませんでしたが、その血肉が惜しい……私の子や、孫にもしかしたらという思いが捨てきれない。
ですから、私を荒野に放牧したのです。
獣人の中で生きてきた私が、人の怖さを教え込まれてきた私が、この地を離れられるはずはない。そう思っていたのでしょう。
実際そうやって、荒野で血を残し野垂れ死ぬ獣人は、多かったでしょうから。
私の場合も、たまたまだったのです……。
運良く荒野を離れたことが、私の運命の歯車を、大きく狂わせた。
◆
獣人が北の荒野で生きていこうと思えば、狩猟民となるしかございません。
我々獣人は、人とかけ離れた外見を持つ場合が多く、そこ以外に行き場など、ございませんでした。
私もまだほんの幼い時に見限られ、捨てられる未来しかなかったわけですが……とはいえ私にはとある事情があり、生かされ、暫く狂信者の根城に残されておりました。
そのとある……は、私を産んだ器です。
この器は情緒面に大きな問題を抱えており、まるで狂人のようでした。
その狂人が、私を抱き抱えている時は従順だったのだそうです。だから私は、彼女のお守りのために残されていました。
おそらく……なのですが、きっと私に胤の面影を見ていたのでしょう。
もう授乳を必要としなくなってさえ、乳を無理やり含まされていた記憶がございます。
私が四つになっても、五つになっても、彼女は私を赤子として扱いました。
私はというと、それに従順に従っておりました。
私という存在がかなり異質で、あの組織の中で宙ぶらりんになっていることは、他の方々の話から拾い、いつの間にやら理解しておりました。
けれど、耳にしていないふりをしていたのです。
馬鹿でなければ生き残れないことも、承知しておりましたから。
あそこの教育というものは、呪いを刻み込む作業から始まりました。
五つを迎えたら、誰かを主とするために生死の境まで追い込まれるのです。
本来は、自然と群れの頂点に意識が向くのでしょうが、あそこは正しい群れを形成していない歪な場所でしたから、その手間が必要だったのでしょうね。
どんな優秀な血も、その仕打ちにより亡くなりましたし、本当に生き残れるかどうかは、運でしかなかった。
私がこの死から逃れられたのは、血に染まった私を見た器が、発狂し暴れたからです。
もっと致命傷ギリギリまで追い込まれる予定であったところを、それにより救い出され、私はその時、器に助けられた意識から、私を産んだその器を主としました。
また、痛みや傷に対する耐性を持つ身であったことも、私が命を拾った理由でしょう。
世間でいうところの母という存在が私の主となり、私はより一層、彼女に束縛されました。
けれど……その関係は、長く続かなかった。
彼女が更に狂ってきたのです。
私を胤と間違うようになり、執拗に縋られました。確か七つか八つ……そこらの頃です。
幼き子供の私に男を求められても困りましたが、それを宥めるのもお守りである私の仕事でした。
更に彼女は、年齢を重ねすぎ、子を孕める身ではなくなりつつありました。
それにより器の価値を失い、私もお守り役を下ろされることになりました。
多くの獣の主であった彼女ですが、殺されることが最後の仕事でした。主の引き継ぎのためです。
私に縋り付く彼女は、私の目の前で骸となり、彼女を殺した相手が新たな主となって、その主はお守りを必要とはしておらず……私は荒野へと放されたのです。
獣の群れには継承という概念があります。
主より強さを示せば、その群れは新たな勝者のものとなる。
それによって新たな主となった人物に、私はなんの思い入れもございませんでした。
縛られていることは理解しておりましたが、目の前で主を殺された意識も強く残っており、反発心が優っていたのです。
おかげで捨てられることを、あまり痛く感じずに済みました。
とはいえ……誤算はありましたね。
私は、荒野の狩猟民となることができませんでしたから。
血が薄すぎて、人と間違えられてしまったのです。
おかげで、恐ろしくて仕方のなかった人の村や町へと足を向けるほかございませんでした。
まぁ、その結果……こちらの方が生きやすいと気付いたわけですが。
更なる幸運は、人の町に紛れた直後に起こりました。
冬の荒野で野宿は死と直結です。
孤児である私は当然、温かい寝床など持っておりませんでしたから、その日たまたま、馬車に堆く積まれていた飼い葉を見つけ、潜り込みました。
まだその町の事情にも精通しておりませんでしたから、それが行商団の荷だと気付かなかったのです。
その日、空腹で疲れ切っていた私はそこで眠り……頭を殴られ意識を取り戻してみれば、人の大人に囲まれておりました。
袋叩きにあい放り出されたのは、荒野から遠く離れてしまった後……。どことも知れぬ街でした。
一瞬は混乱し、来た道を戻らねばという衝動に駆られましたが、その意味は無いのだと気付きました。
どうせ私は荒野では生きていけなかったのです。人の町に紛れ込んで生きるしかないならば、どこだって一緒でしょう。
馬車に積まれた飼い葉に潜り込めば移動できると理解しましたし、利用しない手はありません。
そこからは積極的に使いましたね。積荷の中には食料もあり、くすねることもできましたから、快適でした。
見つかればとんでもない目に遭いましたが、鼻が効きましたので、要領を掴んでからはある程度危険回避できるようになり、へまも減りました。
そうして越冬前に紛れ込んだのが、王都だったのです。
ここの孤児の中で数年を過ごしました。
神殿に捕まってしまうという不本意な事件もございましたが、そういった危険もどうにか切り抜けられました。
冬だって、下水に逃げ込めば寒さを凌げると知った……臭いにさえ目を瞑ればですが。
そんな中で……新たな私の群れの一人が、貴族に引っ掛かりました。
人はひ弱です。とくに女の子供は脆かった。その少女は前の冬、私に下水の暖かさを教えてくれた、恩のある相手でもありました。
夏という時期。獣人であった私は痛みに対する耐性が強い。なにより……彼女はまだ、私より幼い……。
まぁ庇った結果死にかけましたが。
でもそれが、私の最大級の幸運で、レイシール様にとっては……。
◆
「おい」
匙が止まっていました。
死に方について考えるようになってから、あまり食も進まず……つい面倒臭く感じてしまい、食べきれず残すことも増えました。
「やっぱりボクに食べさせられてた方が捗るんじゃないのか?」
挑発なのか、皮肉げな笑みを浮かべたロレン様がそう言い「また食べさせてやろうか?」などと言ってきますが、無視。
イラつきついでに刺してやろうかと思ったのですが……オゼロとの接点を得てからでなければと、思いとどまりました。
でないと、道連れを増やせません。
「……私はいつまでこうしていれば良いのですか」
とりあえず状況の誤魔化しも兼ね、情報収集をしようとそう口にしてみましたが、途端にロレン様は挙動が怪しくなりました。
「…………越冬中なんだから、いつまでも何もないだろ……春までだよ」
「春になれば、私を解放してくださるのですか」
そう言うと、更に表情を曇らせます。
…………そうだろうと思っていましたとも。
私は、レイシール様を釣るための『餌』ですもんね……。
腹の底の闇に、火が灯ったと感じました。
春になったら……私を餌にレイシール様を誘き寄せようというのですから。
ならば機会を選んでいる場合ではないでしょう。
「…………と、とりあえずだな……ちゃんと食え。何をするにしても、傷が癒えてからだろ。
医師の許可が取れたら、庭を散歩して、体力と筋力を取り戻す段階に移れる。だから、今は耐えるしかない」
「もう我慢の限界なのですが」
「し、食事をちゃんと取れよ! 食べて、滋養をつけて、傷を治さなきゃ、春になっても寝たきりのままだって言ってんの⁉︎」
先延ばしの誤魔化しにはうんざりです。
匙を盆に戻すと、ロレン様は更に怒り顔になりました。
「食えっつってんのに!」
身を乗り出し、私の膝上にある盆へと手を伸ばします。
当然安定感の無い盆はそれだけで傾きました。ロレン様は慌てて逆の手を盆に伸ばし、私はその隙に、掛布の下に隠していた小刀へと左手を走らせ……。
いつもご覧いただきありがとうございます!
毎週一話更新だけど……一話が段々と長くなる現象が……(笑)ほぼ二話分でお送りしております。
さてっ。本日コンテストも七日からと判明しましたので、これからまた忙しくなると思います。
一話更新は極力続けていこうと思っておりますが、万が一更新できない場合は申し訳ございません。
ではでは、また来週お会いできるよう、がんばります。