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獣の鎖

 オゼロで意識を取り戻してからというもの。

 ロレン様は、私の世話をするという名目で私を監視しておりました。

 まぁ……逃げようとしたのを見つかってしまったのが不味かったですね……。おかげで四六時中付き纏われます。

 でも、ここにい続けるのは危険だと思いました。

 困ったことに、私が生きていると知れば、レイシール様はどんな手段を使ってでも、私を助け出そうとするでしょう。

 あの方は、育ってきた境遇にあるまじき、致命的な甘さを持った方ですから、私如き存在でも、人質として成り立ってしまう。

 私を生かしたオゼロの思惑が、その時はまだ分からなかったものですから、死を許されていない以上、取り敢えず逃げるしかないと思っていたのですが……。


「死ぬ気か馬鹿! 越冬中だぞ⁉︎」


 何度目かの脱走も結局見つかり、片腕片脚はこうも不便かと歯軋りしたい心地でした。

 この屋敷を囲う外壁すら越えられず、庭の端の木陰に逃げ込むのがやっとで、またこの女に見つかってしまう体たらく。

 死ぬ気かと怒鳴られましたが、死にたかった。あの方の足枷となるくらいならば死んだ方がマシです。

 その考えが顔に出てしまっていたのでしょう。ロレン様は怒りに頬を染めておりました。


「お前の主は、とんでもない極悪人だなっ。

 こんな怪我人にすら、休むことを許さないとは」


 私が逃げる理由が、レイシール様の元へ赴くためだということを、ロレン様は理解されていました。そしてそれに憤慨しておられた。

 今思えば……その私を尾行して、レイシール様の潜伏先をあぶり出そうという考えをしなかったこの方の言動に、違和感を持つべきでしたね。


「あんな山中に、たった一人を置き去りにして足止めさせる主だものな!」

「それは違います。彼の方はまだ意識も戻っておりませんのに」


 そう言い返すと、信じられませんね! とばかりに、腕を組み私を見下ろします。

 ピクリと眉が動いたのは、意識が戻らないと言った私の言葉に、少なからず心が揺れてしまったからだと今ならば分かるのですが、この時の私にはまだ彼女の機微は理解できませんでした。

 それよりも、レイシール様を誤解し罵倒されることが、私には耐えられぬ拷問で、許し難いことだった。


「私が自らしたことです。皆にも反対されましたが、我が主を守るにはそれしか他に道が無かった。

 彼の方は死んではならない。こんなことで、命を落として良い方ではない。彼の方の慈悲が、彼の方を死なせるなど、あってたまりますか!」

「はぁ?」


 私の脳裏には、かつて道端に蹲る私に手を差し伸べた、天使のように麗しいレイシール様の姿がありました。

 慈悲をいただいたのに、私はそんな彼の方を疑い、短剣を突き立てた。そのせいで彼の方は、右手を不自由にしたのです。

 そして今度は、獣人を庇って右手自体を失った。

 彼の方を不幸にする全てが、獣人の所業だなんて、今度は更に命までだなんて、そんなこと、あって良いはずがない!


 彼の方を守るためならば、私は自分の命など惜しくはない。だから私の命は、彼の方のために!


「まだお気付きでない? 私は獣人です。貴女がたの忌むべき存在ですよ。

 それをわざわざ助けるなど、貴女も馬鹿な真似をしたものですね」


 獣人だと言えば、私をこのままにはできないと思いました。

 無抵抗の怪我人だと思うから許しているのです。でも獣人は人ではなく、獣であり悪魔の使徒。人の情けを掛ける必要はございません。

 こんな不自由な身でも、全力で暴れれば、殺すしかないと、そう考えるだろうと。なのに……。


「動けるようになれば、私の牙は貴女の喉笛を噛みちぎりますよ!」

「……牙、生えてなかったけど」

「……牙などなくても噛みちぎれます」

「片腕片脚で? 右脚の骨だってまだちゃんと繋がってない。這いずって進むしかできないのに、ボクの首に届くわけ、その口が」


 見下ろされるのがこれほど屈辱的に感じたのは初めてでしたね……。

 レイシール様と同じほどの上背、確かに噛みちぎるには的が遠すぎました。

 鬼の形相だったと後で言われたのですが、その時はこいつを本気で噛み殺してやろうと誓っていました。

 心が後戻りできなくなる前に、殺してしまうべきだと……。

 けれどロレン様は、私のその形相にも眉一つ動かさず、呆れた口調で。


「……どっちにしても、もう少し動けるようになるまで身体を休ませるべきだろ。

 心配しなくても、レイシール様方が見つかったら、ちゃんと貴方にも知らせる……。だから焦って命を縮めるようなことは、しないでくれないか」

「は? あの方を拘束するなど、私が許すとお思いですか?」

「……いやゴメン、ボクの言い方が悪かったな……。

 レイシール様は保護対象だから、拘束なんてしない。陛下は貴方たちを保護せよとおっしゃったんだ」

「そんな言葉が信じられるとお思いで?」


 私から、レイシール様の所在についての情報を引き出すための嘘だと判断しました。

 けれどロレン様は、さも困ったというように眉を寄せ……。額を抑えて唸りました。


「密書はもう、オゼロ公爵様に手渡してしまったんだ。だから証明はできない……」


 ……密書は指定した相手にしか見せられないものですから、持っていても私に見せては駄目でしょうに。


「でもまだ、セイバーンのあの事件は伏せられていて、公になっていない。国としては、彼の方はなんの罪も、過ちも、侵していないことになってるんだ。

 そんな相手を拘束なんてするはずないだろ? 

 だけど神殿はまだ貴方たちを悪魔の使徒だと言い追っているし、その主張を取り下げる気はないだろう。だから秘密裏に保護したいんだ。

 貴方が獣人だということも、まだ黙っておいてくれないか。ここで知ってるのはボクとオゼロ公、他は信頼できる数名だけだから」


 その言葉に驚いたのは、ロレン様が、私が獣人であるという発言を、さらりと流してしまったからです。

 この事実に驚かない理由など、ひとつしかございませんから。


「……私が獣人だと、知っていたのですか⁉︎」

「ここに使者として遣わされる時、聞かされたよ。保護対象の名前やその他、分かっていることはあらかた。

 貴方はレイシール様に、幼い頃から仕えている。共に学舎にだって出入りしてて、貴方が獣人だと気付いた者は、誰もいなかった……」


 そう呟いてから、ロレン様は眉間に皺を寄せました。

 そして、とても不可解そうな表情で、私に問うたのは……。


「ボクも、未だに分からないし、信じ難い。貴方が本当に獣人なのか。こうして見ていても分からない」

「私は獣人です」

「……レイシール様は、それをいつから知っていたんだ?」

「九年目までは知らずにおられました」

「……貴方が孤児だったというのも本当?」

「嘘偽りない真実ですが、それが何か」


 そこでロレン様はまた押し黙り……。


「じゃあ、貴方が本当に、レイシール様を刺して……」

「それもお聞きになった通りかと」


 孤児を拾い、看病した恩を仇で返されて、右手を不自由にした。

 なのに尚、そんな相手を従者にしたのですよ、あの方は。

 私の肯定で、ロレン様はまた困ったというように眉を寄せました。


「もっと嫌な人だと思っていたかったのに……ほんとにただのお人好しかぁ」


 ただのお人好しではございません。底が抜けております。私だけでなく、この国の獣人全てを背負う覚悟をされておりますので。

 そう思いましたが、それは口にしませんでした。


「じゃあ、サヤさんも本当に……何かを無理強いされたんじゃないんだ。あの人を慕って妻に……。

 貴族のくせに、異国の流民を、本気で正妻にしたのかあの人……」


 嫌がったのに承知するまで許さなかったって聞いたのに……と、ロレン様。

 それは正しいですが、正しくございません。


「サヤ様が婚姻を承知なさらなかったのは、ご自身の身の上ゆえです。

 レイシール様の立場を考え、身を引こうとなさっただけで、サヤ様はレイシール様を愛してらっしゃいますし、レイシール様も、そこを無理強いなどなさっておりません」

「もうこの際聞くけど、貴族の御令嬢を物凄い選り好みしてて、より好条件の相手を探してるってのも、ガセネタってことだよね……」

「サヤ様しか眼中に無いですので、選り好みではなく全拒否ですが?」

「あああぁぁぁ、それじゃボク凄いやな奴だったんじゃないか、なんだよもおおぉぉ」


 髪を掻きむしってそう言ったロレン様は、私の前にしゃがみ込んで頭を抱えてしまいました。

 途端に急所が近くなりましたね。この距離なら、喉を噛みちぎるのも容易でしょう。

 腕にグッと力を込め、身体をジリと前に。食らいつく、あの首に。噛みちぎったらその後は、彼女の剣で私も死のう。


 もし私に来世があったなら、そちらで命に背いたことを、謝罪致します……。


 そう決意しましたのに、襲いかかる直前にあちらから腕が伸び、あろうことかヒョイと抱き抱えられてしまい……唖然としました。


「ごめん、今はそんなことより……貴方のことだったよね。

 身体が冷えてしまうから、まず戻ろう……うわっ、ドロドロ……着替えないと」


 警戒心も何もなく、私を幼児のように抱き上げたロレン様は、そのまま私を横抱きにして、スタスタ歩き出してしまいました。

 暫く状況を理解できず、固まっていたのですが。


「な、なんの拷問ですかっ。私を屈辱で憤死でもさせるおつもりで⁉︎」

「そのまま抱いたらボクも汚れる……服乾きにくいし、手持ちも少ないんだから、我慢してくれ」

「だからといって横抱きはやめてくださいっっ」

「姫、恥じらいは無用です。お気になさらずこの私めに、身を任せてください」

「姫は貴女です!」


 売り言葉に買い言葉。咄嗟に言い返しただけのつもりだったのです。

 けれどロレン様は、それに何故か瞬間で、顔面を真っ赤に染めてしまいました。

 キュッと引き結ばれた唇が、一瞬だけ戦慄いて、そこに視線が吸い寄せられました。けれど次の瞬間、皮肉げに片端のみを吊り上げて……。


「……はっ、ボクにそんなこと言う奴の気がしれない……」


 咄嗟にそう言って誤魔化しましたが、横抱きにされた身には表情が隠せません。

 本人は、取り繕ったつもりなのでしょう。もうなんでもない様子を装っておりました。けれど顔の赤みは引かず、瞳は逸らされたまま。

 耳も首も赤く染め、無言でロレン様は足を進めました。

 そして私も……。

 あろうことか、その様子に目を奪われ、目の前に喉首が晒されているというのに、そこに食らいつくことをすっかり忘れていたのです。



 ◆



 違和感は感じておりました。

 そもそも私は、何故彼女の言葉をいちいち間に受けて、返事を返しているのかと。

 そんな義理はございませんし、無視してしまえば良いはずでした。

 けれど……この意識が働くだろうという予感もまた、しておりました。

 レイシール様の時も、そうだったのです……。


 道端に転がっていた私を、あの方は自ら担ぎ、寮に連れ帰った。

 垢じみて異臭すら放っていたろう私を、たったひとつきりの寝台に寝かせ、丁寧に身体を清め、ひとつひとつの傷を手当てしてくださった。

 熱を出した私をつきっきりで看病し、己は長椅子で仮眠を取るだけ……。屎尿など汚物の処理すら厭わずに。

 自分が食べるのと全く同じものを私に与え、食器の使い方すら分からない私に、何度も丁寧に、接してくださった。

 そんな風にただひたすら優しさを与えてくるあの方が、怖かった……。その行動の裏側にあるだろうものを、邪推して……。

 それまでの私の人生に、無償で与えられるものとは苦痛だけでした。だからこの人も、きっとどこかで裏返る。


 だから……。



 ◆



「拷問です……」


 まるで、あの時を再現されているような現状が。


 けれど私のその呟きを、目の前の相手は言葉通り受け止めたよう。自分に対する文句だと解釈し、怒りを露わにしました。


「何がだよ⁉︎」


 かつての彼の方とは違う反応にホッとしたのも束の間。

 彼女の持っていた匙が揺れ、具がが溢れて汁物に落ち、飛沫を飛ばしました。

 彼女はそれに慌て、椀を置いて汚れてしまった私の胸元を手拭いで拭こうとし……。


「やめてください」


 そう言った私にまた、怒りの視線を向けてきました。

 彼女には、私が現状の何を苦痛と感じているかが伝わっていない……。

 私は無言で彼女の手から手ぬぐいを奪い、自ら胸元を拭いました。

 そうして、怒り顔の裏に垣間見える不安に、深く息を吐きました。違います、そうじゃない……。


「……貴女がどうこうということではないんです……。

 私は、確かに身を不自由にして見えるでしょうが、手は残っておりますし、眼もよく見えています。

 なのに、赤子のように扱われるのは苦痛です……。食事も、自分で食せます」


 口ではそう言いましたが、自分で発したその言葉にイラつかずにはおれませんでした。

 わざわざ言い訳などしなくて良いはずなのに……。何故律儀に理由を述べているのかと、我ながら思っておりましたから。

 取り付く島のない私の言葉に、気分を害した様子のロレン様。

 しかし、私の言う通り、盆の上に椀を戻し、膝の上に置いてくださいました。


「ありがとうございます」


 礼を言うとそっぽを向かれてしまいましたね。どうやらだいぶん、気分を害してしまったのでしょう。

 誤解されたとて、構わないはずでした。それで私を一人にしてくれるなら、願ってもないことです。

 なのに暫くすると……なんとも言えぬモヤモヤした心情が、胸に溜まって苦しくなってくる……。それに耐えられず結局私は、口を開きました。


「……今後私は一生、この身体と付き合っていくしかないのです。

 ですから今必要なのは、できることをひとつでも増やすことでしょう。甘やかすのは時間の無駄です」


 私の返答に、ロレン様は眉を寄せました。


「その使える左腕だって怪我をしているのに?」

「匙を持つくらいのことはできます」

「片手では麵麭も千切れないだろ」

「噛みちぎれば良い」


 私は早く慣れなければならないのです。

 この身体がまだ使い物になるかどうか、確認しなければならない。

 なるならば、この身はレイシール様のものです。彼の方のために、残りの全ても使います。他が入る余地など無い。無いんだ……。


「……なぁ、レイシール様って、どんな方なのか、聞いても良い?

 どうしてそんなに、尽くそうとする……」


 その言葉だって、無視すれば良かった。

 なのに私は……まるであの時をなぞらえるような今につい、あの瞬間を思い起こしてしまったのです。


「私は……彼の方に命を三つ、いただいたも同然なのです……」



 ◆



 あの時も……彼の方に看病されながら、私は逃げる機会を窺っていました……。

 多少保つ食料は懐や寝具に忍ばせて、逃げる際に役立てようと思っておりました。

 抵抗しないと信じさせるために、あえて従順に接しました。

 それにまんまと騙された彼の方は、元から無かった警戒心を、更に緩めていった……。


「随分と良くなったね。もうそろそろ、寝台から出ても良さそうだ」


「まずは庭を少し散歩してみようか」と、そんな風に話していた彼の方が、こんこんと叩かれた扉に、視線を向けました。

 聞き慣れない低い声がし、あの方が少しだけ腰を浮かせた瞬間、私は咄嗟に動いていました。

 盗み、枕下に隠していた短剣を掴み出し、引き抜き、体当たりするようにして、全身でぶつかった。


 肉に沈み込む刃の感触が腕に伝わり、現れた男の叫び声と、耳元で「ハイン……」という、勝手に付けられた名を呼ばれ、慄いて身を引きましたら、腰に刺さった短剣を握った彼の方は、しばらく呆然と、それを見下ろしておりました。

 部屋に駆け込んできた男が彼の方を抱きとめ、何か叫んでいましたが、その声は私の耳を素通りしていき、ただ手の感触……肉に分け入る感触ばかりが、脳裏を占めていました。

 刺した。死ぬ。殺す。ただひたすら私を侵食しようとしてきたこの人を。今まで与えられなかった、私には与えられないはずのものを、押し付けてくるこの子供を。

 叫ぶ男の言葉に頷いていたその方は、そのうち視線を、私に。


 身が竦みました。


 殺せと、その口が動くだろうと思ったのです。なのに……。


「大丈夫だよ」


 微笑みすら浮かべて、そう……。

 あの瞬間に、私は解き放たれ、そして新たな鎖に繋がれました。


 ボタボタと血が落ちる床。短剣を突き立てたまま運ばれる彼の方は、自分を抱き抱える大人に私のことを「怒らないでやって」と、そう言っていて。

 この方が、私のこんな仕打ちを身に受けて尚、私の命を救おうとしていることに、愕然としました……。


 結局私は殺されることも、役人に突き出されることもなく、快適とすら言える小屋に放り込まれて数日過ごしました。

 意味が分からない処置でした……。雨風を凌げる場所で、食事まで与えられ、拳一つ振るわれない時間と空間。

 そこに居続けるだけの数日間は、今までの人生で最も生きやすく、最も辛い拷問でした。


 彼の方の優しさの裏には何も潜んでいなかった。ただ本当に優しいだけだった。そんな存在を、私は傷付けてしまった。

 今どうしているだろうか……痛みに泣いているのだろうか……それとももう、来世へ……。

 そう考えることは恐ろしいことでした。あれは失われてはならないものなのに、なんということをしてしまったのだろうと、ひたすら悔やみました。

 会いたい……無事かどうか、確認したい。


 だけどそれは、もう叶わぬ望みでした。

 私は彼を害したのです。

 今後待っているのは、死か、断罪か、運が良くて贖罪……。どちらにしても、もう彼の方に触れることも、名を呼ばれることも、近づくことすら許されないでしょう。


 そう考えることは、身を引き裂かれるような苦しさと、悲しみを伴いました。

 けれど、妥当な罰だとも思いました。

 主を害したという、本能の苦痛。

 そう、あの瞬間……大丈夫だよと、許されてしまったあの瞬間に私は、彼の方を我が主に相応しい方だと、そう認識してしまっていたのです……。


 獣人という種は、主に従う本能があります。

 群れで生活し、狩猟を行い生きていた頃の名残りだと、後にマルに聞きましたが、そんな理屈などより先に、そうだということは理解していました。

 私が死を意識した瞬間に、彼の方は私を許した。それによって私は、彼の方に心の一部を縛られました。


 私は、古巣でも、同じものに縛られていました。

 それから解き放たれた瞬間に私は、自らの手で、新たなそれを台無しにしてしまった……。


 けれど……私のしたことは、私が考えていたよりもずっと、ずっと、罪深いものでした。

 その後、訪れた男に殴り飛ばされ、あの子供が、生涯完治しない傷を負ったと聞かされたのです……。


 普段なら、殴られれば、それ以上に殴り返していたでしょう。

 けれどその時は、そんな気持ちにはなれなかった。

 私は殴られて当然でした。友を傷つけた私を、この男は殴ったのです……己の欲望のためではなく、友のための拳で、涙でした。

 彼の方の生きてきた境遇を、涙をこぼしながら男は語りました。

 この男の言うことが嘘でないことは理解しておりました。私の古巣も、似たような場所でしたから……。

 他人のために涙を流す。こんな関係があるのだと……その様子をただただ、眩しく思いました。

 ですが私には、縁のないものだと理解しておりました。獣人の私は人の世に紛れても、所詮獣人ですから……。


 本来なら何も言わず、姿を消すべきだと、分かっていました。もう彼の方を煩わせないことが、せめてもの罪滅ぼしだと。

 けれど本能が主を求め、彼の方をもう一目だけと望みました。せめてちゃんと生きている姿を、確認したかった。

 気付けば会わせてほしいと告げてしまっていました。

 そして到底叶えられまいと思っていた私のその願いは、何故か聞き届けられ……。

 小屋を出され、そのまま連れて行かれた先。


 その部屋の寝台で彼の方は……包帯で固定された手を文鎮のように使い、膝の上に大きな本を広げていました。

 訪れた私たちに朗らかに笑いかけ、男の病の快復を喜び、私に……。


「元気そうで良かった」


 そう言って、笑い掛けたのです……。

 白い布で覆われた手。深く抉られた腹の傷だって、未だに痛みを伝えているに、違いないのに……。


 心臓に杭を撃ち込まれた心地でした。今すぐこれを胸から抉って、差し出したかった。

 けれど私の心臓如きでは、この方の不自由になった手を贖うことなどできない。腹の傷を塞ぐことも、できないのです。

 こんな無垢な方に、私は一生の傷を負わせてしまった。

 孤児にとって、身を欠損するということは、近い将来の死を約束されると同義でした。

 そんなことは許されない。この天使は失われてはならない方だ。


 まず、何をすれば良いのだろうと、必死で考えました。

 そして隣の男に小突かれ、謝罪だろうがと促され、急いで膝をつき、頭を床に打ちつけ、償わせてほしいと訴えました。

 なのに、あろうことかこの方は。


「気にしてない」


 そう言ったのです。


「ちょっと不幸な行き違いがあったけれど、それだけのことだよ。僕は気にしてないから、ハインも気にしないで。

 それに、不安になって当然のことだったと思うんだよ……。

 急に知らない場所に連れてこられて、部屋からも出さなかった。その事情だって、きちんと説明していなかったしね……」


 それが私を守るための判断だったのだということは、容易に想像できました。

 この方はずっと、私のために……私のためだけに、動いていた。


「だからハインは、気に病まないで。怪我が癒えたなら、君は自由にして良い。好きにして良いんだよ」


 鎖が絶たれた瞬間でした……。



 ◆



 私は自由というものを、知りませんでした。

 いえ、自由ではあったのです。けれどそれは、私が得たものではなく、結果的に有るものでした。

 だから咄嗟に分からなかったのです。

 存在の価値が無いせいで、有った自由。それをまた得ることの意味が。


 黙ってしまった私の耳に、隣からの深い溜息。見ると先程の男が、そんなことだろうと思ったよ……と、諦め混じりに、首を掻いていました。

 私の視線に気付いたのか、男は困ったように眉を寄せながらもーー。


「だから、お前はお咎め無し……ってことだよ。

 お前を役人に突き出すこともしないし、手や腹のことも罪に問わない。好きなところに行って良いってことだ。

 けどレイ……自由っつってもな、こいつ孤児なんだから……このままじゃ浮浪児に戻るだけだぜ」

「あ、そっか」


 その指摘に、ようやっと気付いたという顔になった天使は、どうしようかなと首を傾げました。


「浮浪児に戻すのは……また、ひどい目に遭うかもしれないし……」

「だろ? だからまぁ……当面、うちで使って、何かしら身に付けさせてから、自立させるってことで手討ちだな……」


 もうすぐ夏の長期休暇だし、丁度良いだろ。と、男は言いました。

 二人の話すことの意味がよく分からず、黙っているしかない私は、二人を見比べることしかできません。

 男の言葉に天使は、痛みなど忘れてしまったかのような、極上の微笑を浮かべてみせ。


「本当⁉︎ ギル、良いの?」

「良いも何もねぇよ、それ以外の選択肢ねぇじゃん……ったく、兄貴説得すんのもどうせ俺なんだよなぁ」


 嫌そうな素振りを見せつつも、頬を赤らめて、満更でもないという風に、ぶちぶちと言い訳みたいな文句を並べます。

 内心は……きっと私を快く思っていないでしょうに……傷のことで神を恨むほどに心を乱していたのに、それを天使には見せませんでした。


「僕も一緒にお願いするから」

「あったりまえだろ、お前がこいつ拾って来たんだぞ。

 そんで、どうする? こいつ小せぇし……年もお前と同じくらいだろ。となるとまだ、体力的にもあんま使えねぇだろうし……当然読み書き出来ねぇよなぁ」

「おそうじ……とかは?」

「そういう雑事じゃなくてだな……仕事を教えてやらねぇと。誰でもできるようなことじゃ、食いっぱぐれるだろ」


 そんな風に話が進む中も私は、まだ言われた言葉が理解できておりませんでした。


 私は天使を補おうと思ったのです。この方を死なせないために、私が、手の代わりになろうと。

 けれどそれは許されず、自由にせよと言われました。それはまた捨てられたということなのか……けれどこの二人は、私の使い道についての話をしています。

 戸惑っていたところ「失礼致します」と、別の声が話を遮りました。

 ずっと部屋の隅にいた、天使を抱え上げて運んだ大人の男でした。


「ギル様、当人を交えずその話を進めるのは、些か本末転倒かと……」


 静かな口調でそう言い、凪いだ瞳で私を見ます。


「事情が分からず、混乱の末にレイシール様を害したことを考えますと、この者は自らのことを勝手に他に左右されることが、不安に繋がるのではございませんか?」


 指摘に二人の視線が、私の方に向きました。

 その視線はどう見ても、私に対する警戒心が無さすぎるもので……。


「あぁ……、んー……。

 えっとなハイン……今話してんのは、お前がこの先、ちゃんと金稼いで食っていけるようにするってやつなんだけど」


 更に意味が分かりませんでした。

 そう呼んで良いとは言ったものの、当たり前のように名を名として呼ばれたことにも、心臓が跳ねました。

 なにより、金を稼ぐ、食っていく? 私は孤児だというのに、何を言っているのかと。


「嘘。意味分かんねぇ? 

 えっとなぁ……だから、お前をもう孤児に戻したくねぇんだって。

 だからお前に覚えさせる仕事は何が良いかって話をだな……。

 あー……お前、何か得意なことってある? もしくはやりたいことでも良い。

 とりあえずはなんでも良いから、言ってみろよ」


 得意は分かりませんでした。獣人であるため人より有利であることは多々ございましたが、それとて獣人の中では秀でているとはいえず、得意というものではなかったのです。

 ですが、やりたいことはございました。


「手の代わりをさせてくれ」

「は?」


 聞き返されたことで、それは望んではいけないことなのかと怯えました。

 けれど、この男はなんでも良いと……言えと言ったのです。

 もう一度、床に頭を打ち付け、身を伏せました。私が信用ならないのかもしれないと、そう思いましたから。


「手の代わりをしたい。もう、傷付けないと誓う。命を救われたのだから、命で返す」


 あのまま路地に転がっていれば、私は遠からず死んでいたでしょう。

 この方を刺した時も、殺されて当然だった。

 二つも命を救われているのです。なのに私は、この方の命を脅かした。

 命で償わなければ、償えないことです。命三つ分を私は、この方に与えられている。

 何より離れ難かった。彼は私が人生で初めて触れた、慈しみという、愛でした。

 しかし我が主と定めた人は、それを頑なに拒みます。


「そんなことはしなくても良いんだよ。僕は別にーー」


 やはり私はもう、お傍には……。

 沈みかけた気持ちに、また先程の大人が手を差し伸べてくださいました。


「レイシール様、こうされては如何でしょうか。

 彼は、長期休暇の間、貴方様の身の回りを世話するよう、私が仕込みます。その間に、今後の身の振り方を考えさせましょう。

 レイシール様におかれましても、傷が癒えるまでは色々と不自由でしょうから、補佐は必要かと。

 今まで通り、店の者に任せても良いのですが、店の者には店の仕事もありますので、彼がやってくれるならば、こちらも助かります」


 男の言葉に、天使は少し考える素振りを見せましたが、長期休暇の間ならばと思ったのか「はい」と、答えました。

 その返事を受けて男はもう一度、私に向き直りーー。


「ではハイン。

 レイシール様は、あなたに自由にせよと申しました。

 これは、あなたがあなたの気持ちを優先しても良いという意味なのは、理解してますね?

 そしてあなたは、レイシール様の手を補いたいと申しました。

 それが、あなたの得たい自由であることに、間違いはございませんね?」


 噛んで含めるように、言葉が紡がれました。

 そうして頷いた私の手を、大きな手が包み込みます。


「では、あなたがあなたの望む者になれるよう、私があなたを指導致します、私の名はワドル。本日よりよろしくお願いいたします。

 ですが、無理だと思ったならば、お言いなさい。いつでも辞めて結構です。

 何せあなたは自由なのです。やりたいことを学べば良い身ですから」


 念押しされ、表情が強張るのを見咎められたのでしょう。少し打ち合わせをしますと、一度部屋を連れ出されました。

 そして廊下の隅で、私に告げられたことは。


「あのような言い方をして、申し訳なかったですね。

 けれど、レイシール様のお心のご負担を減らすために、あれは必要なことだったのです」


 もう一度、私の手を取りワドルは、凪いでいるけれど、優しい瞳で私を見ました。


「これからあなたがお仕えするレイシール様は、何かを得るということをなさらない方です。

 ですから、あなたをご自分から傍に置くとは、絶対に仰らないでしょう。

 でもそれは……あなたが大切だからです。

 あなたを奪われ、壊されることのないよう、彼の方はあなたを遠去ける。

 あの方は、今まで、何もかもを奪われ、壊され、それに心を痛めてきた方なのです」


 傷ましそうに、眉を寄せて。

 まだ子供で、なにより彼の方を一度傷つけた私に対し、彼は丁寧に、話してくださいました。


「だからあなたは、彼の方の言葉の表面ではなく、心を見つめられるようにならなければなりません。

 彼の方の言葉のままを、その通りにこなすのは、あなたも彼の方も、傷付け孤独にすることですから。

 難しいことだと思います……。でもどうか、彼の方の心を、掬えるようになってください」

いつもご覧いただきありがとうございます。

今週も一話のみの更新ですが、楽しんでいただければ幸いです。

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