後日のとある日のこと……1
あの時、失望感が無かったかといえば……当然、そんなわけではありませんでしたよ。
意外ですか? けれど私も一応、落胆はしたんです。
右腕が無い……。それは、あの方のお世話ができないに等しいことでしょう?
あの方も右手を失っている。
今まで以上に、補佐が必要な身体になってしまった。だのに、私まで左腕一本になってしまったのでは困ります。
とはいえ。
失ってしまったものは仕方がありません。
腕を失くした時点で戦意を喪失すると思われていたのでしょう、攻撃の手を緩めた男たちの隙をついて、落とした剣を左手で拾い、振るいました。
隙を見せる方が悪いんですよ。そもそもこちらを殺しにきている相手に遠慮する必要などないですし。
続け様に数人斬り捨てると、やっと我に返った残りの連中が押し寄せてきました。
そこからは無我夢中です。何をどうするか意識している余裕もなかったもので。
ただ無心で、効率良く相手を殺すことだけを考えておりました。
脚を落とされれば、木を支えにしました。
右眼を斬られ、更に脚を折られて立てなくなった時は焦りましたが、寄ってきた相手を同じ目に合わせ、膝をついたところを仕留めました。
途中からはあちらも冷静さなど欠いていたようでしたし、存外なんとかなりましたよ。
逃げれば良いのに、向かい続けて来てくれましたし。
一撃を入れれば私の生死の確認のため、いちいち止まる……戦い慣れていない者の典型的な行動です。隙ができると何故気付かないのか。
肉を切らせて骨を断つは、まさしく正しい。
お陰様で、誰ひとり、我が主の元には向かわせずに済みそうです。良かった……。だいぶん身を不自由にしてしまいましたから、これくらいの役には立っておかないと。そう思っておりました。
これが、あの方にできる私の最後の奉仕となりそうですし。
しかし、まだ動くのがいますね……仕留めておかなければ。
たとえ爪の先ほどであったとて、あの方に触れさせはしません。絶対に……殺しきる。
そう思ったのですが……。
「ば……馬鹿かあんた! 敵か味方かの区別くらい、つけろ!」
聞き覚えのある声に、我に返りました。
意識ははっきりしているつもりでしたが、私も思考が空回っていたのだと、そこでようやっと気付いたのです。
匂いを確認すると、むせかえるような血臭の中にやはり、記憶にあるものが……。
喋るためには、口に咥えていた剣を離すしかありませんでした。
「ロレン様。もう貴女だけですか?」
視界があまり、きかないもので……。
だけどそうやって、気を緩めてしまったのがいけなかったのでしょう。
急にかくりと腕の力が抜け、私の身は崩れてしまった。直ぐに立て直そうとしたのですが、もう、指先一つ動かす体力は残っておりませんでした。
「ちょっ、おい⁉︎」
慌てて駆け寄る気配がし、身を引き起こされました。
仰向けにされて、衣服を汚すでしょうに、頭を膝の上へ乗せてくれたのが、なんとなく感覚で分かりました。
敵か味方か……と、言うくらいですから、この方は味方であるつもりなのでしょう。そしてこの方が私にこうできるならば、もう……私は役目をやり遂げたということ。
レイシール様の憂いを、ひとつ祓うことができた……。
ふわふわとする意識の中で、これが私の、今生最後かもしれないと思いました。
それに等しい傷を負った自覚はあります。ですが、私は主に死を許されておりません。
許可なくば死ねないとは、なんとも厳しい命ですね。
けれど仕方がありません。とりあえず、今できる最大限のこととして、体力を温存するために休みましょう。
眠って起きればまた、多少なりとも動く気力が、回復しているかもしれない……。
「少し、休むだけなので、用が無いならば、お気になさらず……」
言い終えた辺りで、多分意識を失ったのだと思います。
次に目が覚めた時私がいたのは、オゼロの手中でした。
◆
五体不満足になって早六年目。
自らの身体だけではできないことが多く、初めこそ苛立ちましたが、もう随分と慣れました。
衣服等も、私が片腕で着脱できるよう、サヤ様が色々と思考錯誤を重ねてくださいまして、基本的には一人で身に纏うことができます。が、義足ばかりはそうもいきません。
「痛くはございませんか」
「大丈夫です」
ウォルテールの朝の日課は、私より早く起き、自身の身支度を済ませ、私の義足を左脚に固定することから始まります。
彼も今の職務となって五年経ち、もういっぱしの従者となりました。狼の足に長靴を履けないことと、細袴から尾が出ていること。そして耳の位置以外は違和感もございません。
欠けてしまっている片耳には、耳を挟む形の耳飾りが付けられておりますが、これは貴族に仕える獣人の、身の安全を確保するためのもの。
獣化しても落とさぬよう、形の変わらない場所につけられています。
外見に獣の特徴が顕著に出ている獣人は、まだ色々と世間との摩擦も多いため、貴族が囲っていると表明することで彼の身を守っているのです。
被せ部分をすっぽりと脚に嵌めてから、ついている金具を太腿に装着しているベルトに固定。この固定が、片腕ではなかなかままなりません。
サヤ様は私が一人で身支度できるようにと、本当に色々苦慮してくださったのですが、やはりサヤ様の国のようにはいかないのでしょう。
私は足に嵌めるだけで、ベルトの固定は必要ないと思うのですが……。
「万が一、どこかに引っかかって外れてしまったら、転倒してしまいます。だから補助は必要です。
勿論、取れた方が脚を痛めない時は取れた方が良いのですが、簡単に取れてしまうのは怪我のもとです」
取れるべきだが簡単に取れてはいけないなど……それは単なる無理難題というのでは?
とはいえ、どちらにせよサヤ様が納得するまでさせるしかないことは重々承知しておりますので、その言葉は胸にしまい、思う存分試行錯誤を重ねてもらっております。
そして、もうひとつ……。片腕では入れにくいものが。
「それでは義眼をはめましょうか」
「お願いします」
まぶたを押し開き、そこに義眼を押し込みます。なのでどうやっても両手が必要です。
義眼ができる前は眼帯をして隠していたのですが、それだと執事長というよりは、裏社会の幹部みたいだと孤児院の子供が泣いてしまいましてね。
新たに孤児が入るたびそのようになって、テイクがいちいち大笑いするのも腹立たしかったのでこちらに致しました。
私の身繕いが完了しましたら、ここからウォルテールはレイシール様のお仕度へと向かいます。
私にはもう、お仕度の補佐はできません。サヤ様も男爵夫人としての職務や意匠師としての仕事が増え、従者という立場も持っているものの、そのように振る舞える時間は少なくなりました。それで現在、ウォルテールがレイシール様の筆頭従者を勤めております。
本来ならば、越冬直前まで北の地で過ごしていらっしゃるはずだったレイシール様ですが、先日大急ぎで戻られました。
と、言いますのも……。
サヤ様に神の祝福が訪れたからです。
いや、薄々そうなのではないかと思っておりましたが、サヤ様は確証のないことを口にすることを好まれませんから、急使に託した書簡には体調不良とだけ認めたのです。
ここ最近、サヤ様は仕事の合間にもうつらうつらとされることが増えておりました。
さもありなん。
共にあれる時は毎晩のように求められるのです。それは当然というものなのですが、それだけでもないように感じておりました。
サヤ様は武芸者です。
いくら毎夜であったとしても、房事にそこまで体力を削られはしないでしょう。
それに、レイシール様が旅立たれてひと月近く経つのに体力が回復しないなど……あろうはずもございません。
それに加え、他の者は気づいていないようでしたが、肌と髪がほんの少し、荒れているようにもお見受けできましたし、食欲も……。
しかしご本人が体調不良を訴えて来ることもございませんでしたので、こちらから口を挟むことも憚られ、身体の負担にならないような仕事を割り振る形で見守っていたのですが、メバックで倒れたとの知らせが入り、確信を強めました。
かねてからナジェスタ女師にはその可能性を伝えておりましたので、急ぎ確認を行いましたところ、私の読みは正しかったと判明したのです。
つまりきちんと確認が取れる前に急使を送っていたわけですが……全力で戻ってこられましたね、レイシール様は。そうなるだろうと思っておりましたが。
まぁそれは良いのですが……。
「サヤ、そんなもの運ばないでくれないか⁉︎」
「大きなだけで軽いですよ」
「そうじゃなく! 前が見えないようなものを運ばないでってことだよっ。もし転倒でもしたらどうするんだ⁉︎」
嫁一筋なのは誰もが承知しておりましたが、過保護が過ぎます。
まだお腹の膨らみも目立たぬうちからオロオロし通しで、いざ出産となった時この方は大丈夫なのでしょうか……。
それよりも早く、サヤ様がこの方を鬱陶しく感じて見限ってしまわないものか……。そんな風に考えてしまうくらい神経質になってしまっており、これはいけないと思ったもので。
「煩いです」
数日頭を冷やしてもらおうと、西の地へ放り出しました。
おりしも今は、越冬直前。今年の保存食の出来栄えを確認するため、誰か送らねばと思っていたもので、ちょうど良うございました。
散々文句を垂れつつレイシール様も旅立ってゆかれたのですが……。
あの調子では気付いていませんね。
やたらと出張仕事が入るのは、貴方がサヤ様を構いすぎるからなんですが。
もう少し増やした方が良いでしょうか……? ですが、そうすると今度は会えた時、今以上にがっつきそうなんですよね……。調整が難しい、困った主です。
◆
越冬最後の出張に主を叩き出した足で、私はサヤ様と共にメバックへと向かいました。
リヴィ様をお迎えするその日に倒れてしまい、ご挨拶がおろそかになったままであることを、サヤ様がお気になさったからなのですが。
「まぁそんなこったろうと思ってたけどよ……」
状況を聞いたギルはそう言い苦笑。
リヴィ様も微笑ましいですわねと笑っておられます。
そのうえでギルは、サヤ様を手招きして抱きしめて「おめでとう」と、言祝ぎの言葉を口にしました。
サヤ様はもう男爵夫人なのですから、抱擁などお控えください!……とは、思うのですが……ギルは兄も同然。サヤ様が嫌がっていないので殴るのは我慢してあげましょう。
その隣ではアギーの名を捨て、ただのオリヴィエラとなられたリヴィ様が、やはり優しい表情でサヤ様を見つめていらっしゃいます。
夫が他の婦人を抱きしめることには抵抗無いのでしょうか……。
「サヤ、本当にめでたいわ。私からも、祝いの品を贈らせてくださいましね?」
優しく微笑みそう言われたのですが、とうのサヤ様はというと……。
「ありがとう存じます……」
笑顔であっても、そこに気持ちが伴っていないことは、もう長いお付き合いをさせていただいている手前、伝わってしまうわけで。
リヴィ様は、そんなサヤ様の様子を、暫くじっと見つめてから。
「……身籠った時、人は不安になるものだと耳にしておりますけれど……。
サヤも、そうでいらっしゃるの?」
敢えて疑問として投げかけたのは、そんな単純な話ではないと考えておられるのでしょう。
「……不安……そう、ですね。考えても仕方のないことだと分かっているのですが……」
そう言い表情をまた曇らせるサヤ様に、ギルとリヴィ様は顔を見合わせました。これは深刻そうだぞと感じたよう。
サヤ様は、普段から滅多に人に、弱っている心を見せようとはなさいません。
レイシール様の前ではまた違うようなのですが……まだ他の目がある状況で、このような気弱な言葉を口にするなど、なかなか無いことでした。
ギルの視線が私を見て、それからワドに人払いせよと手を払い、応接室からワドを除く全ての使用人を退室させました。
「……どうした? あの馬鹿がまたなんか暴走したのか?」
ルーシーも大概でしたね、そういえば……。
サヤ様のご懐妊が報告されてから、サヤ様の描いた意匠案を漁り、大量の子供服を自らの手で縫い始めてしまっております……。
ご自分の子とお揃いにするのだと、性別も分からぬうちから。
そうそう。ルーシーは既に、一児の母となっております。
夫はヨルグで、子の名はマリア。一歳とはいえ、まだヨダレを垂れ流す幼さですが、誰に似たのか脱走の常習犯です。
しかし怒れる者が片手で数えるほどしかおりません。愛くるしい瞳を潤ませて口をひん曲げると、まるでこちらが無体を強いているかのような罪悪感にみまわれるのです。
この一族は本当に顔の造形が異様なほど整っており、マリアは私ですら愛くるしいと思うほどに愛くるしく、もはや魔性です。
やはり金髪に碧瞳で、ヨルグの特徴が全く反映されませんでしたね。
まぁ、ルーシーの爆進は今に始まったことではないので話を戻しましょう。
サヤ様は俯き、口を閉ざしておりましたが……。
「ちゃんと……ちゃんとした子を産める、自信がありません……」
「まぁ! 何をおっしゃいますの⁉︎」
サヤ様の言葉に大きく瞳を見開いて、リヴィ様はおっしゃいました。
それにはギルも頷きます。
「んなん、世の母親全員が同じだろうが。
子が十月十日腹できちんと育つかどうかは、お前の生活もそりゃ、多少は影響するだろうが、ほとんどは神の采配だ。
貴族っつったって、そこは仕方ねぇ。気負わなくて良いんだぞ?」
けれどその言葉にサヤ様は首を横に振ったのです。
「違います……。
わ、私とレイは、子を授かる可能性は、極めて低かったんです。
私は授からないと考えていました。だって種が、違う……。私は、ここの者じゃないんですから」
その言葉の意味を正しく理解しているのは、リヴィ様もでした。
ギルのもとに嫁ぐと決まった時に、サヤ様の秘密は、彼女にも知ってもらうべきだろうとなったのです。
「確かに、種の違いを乗り越えて子を授かる例はございます。
例えば驢馬と馬。虎と彪……私の国には他にも色々な交配種がおりました。
でもその殆どは、種として存続する能力を有していない、一代限りのものでした。つまり……」
クッと口元を引き結んで、苦しそうにサヤ様が吐き出した言葉は。
「繁殖能力を持たなかったか、極めて低かった……」
それがとても重苦しく響きました。
その言葉でサヤ様が、セイバーン男爵家という血筋の重荷を、一心に背負っていると自覚していることを、我々は改めて理解したのです。
身分の無い世界から来たというサヤ様にとって、それは価値観の外のことだと考えておりました。むしろ、そのようなものに囚われる必要は無いと考えているものと。
それにレイシール様は、常々セイバーンの血を残すことには拘ってございませんでした。
それをサヤ様も、分かっていらっしゃるはず。ですのに……。
「だからたとえ……私が、正しく子を授かったのだとしても、その子に繁殖能力が無い可能性があります。
奇形も多いと聞きました……。
だから私は……せっかく授かったこの子でも、五体満足に生んでやれるかどうかすら……」
けれど。
「……サヤ。それも全部、考えることじゃねぇ」
サヤ様の言葉を、ギルが遮りました。
膝の上で握られていたサヤ様の拳を、ふたまわりも大きな手が包み込み、逆の腕が肩を抱き寄せ……。
「今お前が言ったことも全部、世の母親が全員同じって言ったことに含まれてるし、考える必要なんざねぇよ」
歳を重ね余計に色気が増したと言われる整った顔が、ニヤリと口元を歪めてサヤ様を覗き込みます。
「だってな……よく考えてみろよ。
お前しか嫌だっつって駄々こねて、お前を無理矢理娶ったのは、レイだぞ」
ギルのその言葉に、くすりと笑ったリヴィ様も、そうよねと微笑みを深め。
「どう見ていたってレイ殿が、サヤに夢中なんですもの」
「そうだぞ。お前は散々拒否ってたのに、結局我を通したのはあいつなんだよ。
折れないお前を諦めなかったのは、あいつにとって、血の存続なんかよりよっぽどお前って存在が大切だったんだろ。
それによく考えてみろ。血が重要なら妾でもなんでも娶りゃいいんだ。
なのに未だあいつ、お前しか無理じゃねぇか」
それには頷くしかございませんでしたね。
本当にあの方は……全くサヤ様しか眼中に無いのです。
実際第二夫人を望む声はまだまだ多うございますのに、全部サヤ様への惚気で撃退しております。
あまりの執着に、昨今はサヤ様に同情する視線すらあると、サヤ様は気付いていないのでしょうか……。
正直病的なほどですよ、あの方の執着は。
獣人の主従の縛りもかくやという拘りっぷりで、だから私が苦慮して、出張仕事を大量に作り出す羽目になるんです。
「でもっ、レイは……子供、好きだし……私が授かったと分かった時だって」
「そりゃ喜ぶだろうよ。授からないって言ってたお前がずっとそのことを気に病んでたの、あいつが理解してねぇはずねぇんだ。
でもあいつが喜んだのは、お前が楽になれるって思ったからだろ。
子を授かったことも当然嬉しいだろうが、それはお前の子だからだよ。セイバーンの血が続くからじゃない」
その言葉に、またサヤ様は瞳を俯けました。
戸惑う様子を見せる姿に、今度はリヴィ様が言葉を重ねてくださいました。
「サヤはご存知ないかもしれないけれど……レイ殿は今日まで、貴女の目がない所でだって、貴女の立場を蔑ろにするような発言ひとつ、許しはしなかったのよ?
最近は王都に貴女を伴わないことが多かったけれど、それは貴女を守るためであったし、貴女と離れることに一番苦しんでらっしゃったのはレイ殿でしたもの」
リヴィ様のその言葉に、表情を歪めるギル。
そういえばそれに一番振り回されたのはギルですね……。愚痴の吐口として。
「あー……な」
「王都にいらした当日から帰還日を指折り数えてらっしゃったわ」
「王都からではございませんよ。出発直後からその状態です」
口を挟んだ私に、リヴィ様がまぁっ。と、おっしゃって笑い崩れました。
サヤ様とギルも苦笑するしかございません。
ひとしきり笑ってから、ギルはやっと落ち着きを見せてきたサヤ様から身を離しました。
これ以上続けるなら殴ろうかと思っていたのですが残念です。もしくは私の殺気に勘付いたのでしょうか。
そして少し考える素振りを見せてから……。
「それにあいつが子供に対するこだわりがあるのは多分……自分の幼少期が原因だろ。
あいつ自身、子供らしいことには恵まれてなかったからな……」
その言葉に、サヤ様の視線がギルに向かいました。
「学舎に来た時なんざ、遊び方ひとつ知らねぇような状況だったから」
「そう……なんですか?」
「やれと言われたことしかやらなかったしな……。姫鬼とか合戦とか、今思えばやり方を知らなかったんだろう。突っ立てるだけで、直ぐ捕まってた。
初めて冬の長期休暇に招いた時だってな、俺が風邪ひいて寝込んでたら、あいつ何してたと思う?
延々、庭で雪人形を作り続けてたんだぜ? 他に何すりゃいいか思い浮かばなかったって」
私と出会う前のことですね。
「身体が凍えて震えても、延々そうしてたんだよ……。
飽きたら部屋に入りゃいいのに、そんなことも考えなかったんだ。
多分……俺が、本ばっか読んでないで体動かせって言ったのを考えて、そうしてた……。
ほら、あの頃のあいつは要求されることしかできねぇような状況だったから」
その言葉に、表情を曇らせたサヤ様は、俯いて自身の腹を見ています。
「勿論、世の子供全員が恵まれてるわけじゃねぇよ。
実際孤児は食うや食わずで、遊ぶとか以前の問題の中にいるわけだし……。
だからあいつの子供時代が、特別だったわけじゃねぇってことも分かってる。
本人もそれは、理解してんだと思うぜ。
だから特に何か言ったりもしないだろうが……まぁ、気にとどめておいてやってくれ」
確かに……。
貴族であるレイシール様は、住居環境としては他より恵まれていたのだと思います。
ですが……精神を壊すような境遇を、ただ食べるに困らなかったことひとつを取って恵まれていたとは、言いたくありませんでした。
何をすることも許されない状況。自ら何か行動するどころか、思考することすら認められず、ほんの些細なことで罰を受ける。
そんな張り詰めた状態にただ身を置き続けるしかできないという日常は、想像が及びません。
考えてはならないということは、逃げることも許されない。
本当は嫌なことを、拒否することも叶わない。拒否どころか、嫌だと思っていることを知られることすら許されないのです。
もし何か失敗してしまえば、領民や父親がどんな目に合うか分からない。それに怯えながら、それを悟らせることも許されない。母親にすら、隙を見せられない……。
そんな境遇の中であの方は、どうやって慈しみの心や優しさを、保っていたのでしょう……。
レイシール様の執着は、時に病的だと申しましたが、まさしくそうなのだと思います。
きっと未だに慄いていらっしゃるのです。離れているうちに失ってしまうのでは……奪われてしまうのでは……壊されてしまうのではという恐怖に。
そしてそれを我々に悟られないように振る舞う。けれど堪えきれない一部が、サヤ様への執着として現れるのでしょう。
あの方はよく笑い、騒ぎ、まるで憂いのないように暮らしてらっしゃいます。
唯一と決めた妻を持ち、勤めを持ち、生活に苦労もなく、民にも獣人にも慕われている。
あの方は世間には、並外れた判断力や決断力を持つ稀有な才能の持ち主と思われています。
よくきく鼻と遠くまで見通せる目と、よく聞こえる耳をお持ちなのだと、言われます。
獣人を使い、一度は政界どころか、国からも追われかけた。なのに華々しく生還して、今や国の重役。
けれど会ってみれば、どこか間の抜けた青年にしか見えない。
だから、出し抜けるのでは……。一旦を掴み甘い汁を吸えるのではと考える輩が、後をたたない。
手がける事業を悉く成功させ、まるでこの国の経済を牛耳るかの如く立ち回る。
まだ二十代という若さで。それはそれは恵まれて見えるのでしょう。
でもその実態は……。
失わないため、奪われないため、壊されないために、目を皿のようにして見て、耳にして、嗅いで、必死で胸に掻き抱いて爪を立てている、ただの臆病者でしかない。
幼い頃に囚われていた檻を抜けてもなお、その時のやり方が、身体に染みついたままなのです。
まるでその時の束縛から解放されたかのように振る舞っておいでですが、実態はただ、状況が裏返ったにすぎません。
その裏返った反動で、なにひとつ切り捨てられない。些細なものひとつからも、目を離せない。
だから全力で、必死で、身を削って爪を立て、崩れなくなるまで支えているのです。
失いたくない一心で。
でもだからこそ、離れていても失わない、奪われない、壊されないことを、体に叩き込むしかない。
荒療治であっても、レイシール様を苦しめることであっても、そうするしかないのです。
子を授かったことが、彼の方にとって吉となるのか、はたまた……。
もしかしたら、サヤ様も薄々感じているのかもしれません。
もし授かった子を失ってしまったり、不自由がある形で産んでしまった場合、レイシール様は、それに耐えられないかもしれないと……。
ちょっと他で忙しくしておりまして、後日談の更新遅くなってます、申し訳ございません。
時間ができるのを待っているといつまでも更新できそうにないので、週に一話程度となりますが、後日談を綴っていこうと思います。
今までのペースは維持できなくて申し訳ないですが、楽しんでいただければ幸いです。