父と母の記憶
「ごめん。ソニア。お姉ちゃん。最後まで心配かけてばっかり。なんにもしてあげられなかった」
エルノアは目端に浮かんだ涙をぬぐう。彼女は、自分のことよりも、ただ、かわいい妹に姉を置いていくというつらい決断をさせてしまったこと、その重責を背負わせてしまうことだけを心配していた。
「でも、これでよかったんだよね。ふふ、お父さんとお母さんなんて言うかな」
目の前には、勝てるはずもない魔物の軍勢。待っているのは絶望的な死。そんな状況下にあってエルノアはいつにもまして、穏やかだ。そしてふと両親のことを思いだしていた。
十年前、エルノアはまだ五歳、ソニアは三歳。
両親がどこからともなく連れてきた、狼人の子供ソニアが、家族になってまだ半年もたたない頃。
その日、エルノアとソニアは、いつもと同じように、酒場に預けられていた。
酒場は、両親の所属する騎士団、呑龍騎士団の経営する酒場であり、拠点である。同じように何人かの騎士の子供たちが預けられており、親の帰りを待った。
日が暮れ始めると酒場は賑やかになる。留守番の騎士団員たちが、帰ってくる騎士たちに振舞う料理を大慌てで支度しているからだ。
エルノアは、邪魔をしないように、まだ環境に慣れないのか無口だったソニアと遊びながら、大好きな両親の帰りを待っていた。
突然、地面が揺れた。ダンジョンから比較的遠かった酒場も、棚から物が落ちテーブルがひっくり返るほどに大きく揺れた。
騎士団員たちは慌てて調理場の火を消し、揺れが収まるまで、ソニアとエルノアは抱き合った。
しかし、ことは揺れだけでは収まらなかった。
少しすると、二人の両親が帰ってきた。急いで帰ってきたのかみんな汗みどろで、髪は濡れて、べっとりと肌につき、息も絶え絶えだった。
玄関の扉を開けた時、父ロダンと母マリエーヌは青ざめていて、険しい表情だったが、おびえた自分を見て、すぐに柔らかな笑顔になったのをエルノアはよく覚えている。
そして何も言わず強く抱きしめてくれた。
「おかえりなさい、どうしたの? 汗臭いよ」
「ごめんな、エルノア、ソニア。父さんと母さんはまたお仕事に行かなくちゃならないんだ」
ロダンが言う。
彼は、大柄な金髪の男で、その顔にはどこか愛嬌があった。腰には二本の剣を帯びている。
「どうして? いや。一緒がいい。行かないで」
子供心に両親が遠くに行ってしまいそうな予感がしたエルノアは、駄々をこねて引き留める。
「そうだ。エルノアは騎士になりたいのよね」
困った顔をしたマリエーヌが思いついたように言う。
マリエーヌは、腕利きの魔導士。エルノアの赤みがかった茶髪と翡翠の瞳は彼女から受け継いだものだ。
「うん。お父さんやお母さんみたいな強くてかっこいい騎士になりたい」
「そうか。よし、なら、この剣をお前にやろう」
ロダンはそういうと腰の剣を一振りエルノアに渡した。鞘から抜けて、刃が出ないように固くひもで結んである。
「本物の剣だ」
エルノアは、当然その重たい剣を持つことはできず、寄りかかるように抱き着いた。
しかし、いつも、欲しいといっても危ないからと触らせてもくれなかった剣をもらっても少しもうれしい気分にはならなかった。父が渡したその剣は、幼いエルノアには、重たすぎた。
「じゃあ、お母さんからはこれを」
マリエーヌは腰のケースから数枚のカードを取り出し、エルノアに渡す。
「わあ。カードだ。これで私も魔法が使えるようになる?」
「お母さん似だもの。きっと剣よりも魔法のほうが得意になるわ。帰ってきたらいっぱい練習しないとね」
マリエーヌは寂しそうに笑った。
「いいかい。エルノア。これからきっと大きな困難や壁がお前を待ち構えている。つらくなったら逃げたっていい。誰かを頼ってもいい。道が切り開けなくたっていい。でも、あきらめるな。あきらめずにまた立ち上がれ。何度でも何度でも立ち上がれ。そうすれば、きっと後悔することはない」
「わかんないよ」
幼いエルノアには、父の難しい話は分からなかったが、一文字たりとも忘れたことはない。
「大丈夫よ。エルノアは、きっと立派な騎士になれるわ」
「プリンセス・シュバリエにもなれる?」
「ええ、頑張れば、きっとなれるわ。父さんと母さんの子なんだから」
「なら、なるよ。私、プリンセス・シュバリエになる!」
「お母さんとの約束よ」
マリエーヌは翡翠の瞳で、無邪気に笑うエルノアをまっすぐに見つめ、その小さな頭を優しくなでた。
そして、三人は再び抱きあう。
「いい子にして待っているのよ。ソニアはあなたが守ってあげるの。もうエルノアは立派なお姉ちゃんなんだから」
なにが起こっているのかよくわからないのだろう。マリエーヌに撫でられた幼いソニアは無邪気に笑っていた。
エルノアはソニアを預かると強く抱きしめた。
「じゃあ、行ってくる」
ロダンたちは、そのまま戦場へと向かった。
勝算などなかったのだろうと今のエルノアにはわかる。
絶望的な状況の中、騎士としての責務を全うし、家族と町をその身を賭して守る不退転の覚悟の背中が、エルノアの見た最後の父と母の姿だった。
「うん。きっとお父さんならいっぱい褒めてくれる。お母さんは、どうだろう。怒られちゃうかも。どうだったかな。もう思い出せないや」
悲しくも大事な父と母との思い出からエルノアは戻ってくる。
両親の記憶は年を重ねるごとに思い出せなくなるが、それでも二人がかけがえのない存在であったことはわかる。
「ソニアには悪いけど一足先に会いに行くね」
もはや怖いものなど何もない。エルノアは腰のケースからカードを引き抜き、魔物たちに向かって構える。
「さあ、その前に、少しでも足止めしないと。私の最強の魔法。とっておきを見せるとしますか」
エルノアは自分の中のわずかな魔力をかき集め、カードへと流し込む。
額に汗をにじませながらも、なんとか魔法陣の起動に成功する。薄れて消えかかっているが、これが
エルノアのせい一杯だ。
「『閃光』!」
エルノアの声とともに起動した魔法陣は、視界が真っ白になるほどのまばゆい閃光を放った。
突然の光に、魔物たちは目を押さえ、よろめき一瞬立ち止まる。
「やった。大成功!」
エルノアの使った魔法『閃光』は、攻撃魔法でも何でもない。ただ強い光を放つ。それだけの魔法だ。だが、ほとんどの魔法が使えないエルノアが唯一使える魔法でもある。
なんらダメージを与えるようなことはないが、一瞬だけでも魔物たちの目をくらまし、魔物の軍勢の行軍を止めることができた。
「「グオオオオオォォオオオオ!」」
魔物が動きを止めたのもほんの十数秒。魔物たちは、何度か瞬きして、目をこすり、視界のもやを取り払うと、雄たけびをあげ、再び行軍を開始する。
だが、この数秒で、ソニアはより遠くへと走れる。それで十分やってくれるだろうとエルノアはソニアを信じている。
「情けないけど、私にできるのはここまでかな」
エルノアは一度、剣に手をかけ、引き抜くことをやめた。
自分の弱さは自分が一番よく知っている。攻撃魔法は使えない。ましてや、いくら剣術を鍛えても身体強化の魔法が使えなければ、意味がない。
知り合いの騎士たちからも、才能がない、やめたほうがいいと何度も言われた。みな、それを善意で、自分のために心の底から言っているということがわかっている分、余計につらかった。それでも エルノアは、おくびにも出さず、ひたむきに努力を続けた。
だが、自分が剣で魔物の軍勢に斬ってかかろうとも一秒もその進軍を止めることはかなわないだろう。
ならばいっそ、ここで自分の首を掻き切って、その血の匂いでもって魔物をおびき寄せたほうが、時間稼ぎにはなるかもしれない。
「お父さん、お母さん。結局、みんなを守る立派な騎士にはなれなかったよ」
立ち尽くしたエルノアはゆっくりと目を閉じる。
これで父や母に会えるのなら悪くない。この世に別れを告げようとしたエルノアを呼び止める声がする。