姉の決意
「ソニア。私を置いて、逃げて」
「え?」
エルノアの言葉をソニアは一瞬、飲み込むことができない。
「ソニアの足なら、なんとか逃げ切れる」
「わかんない、お姉ちゃんがなんて言っているのか私、わかんないよ」
「ソニア……」
「どうして、そんなの嫌だよ。なんで、お姉ちゃんを置いていくの? 置いてなんか行けるわけない!」
混乱したソニアは、エルノアとつないだ手を強く握りしめる。
「わかってソニア。誰かが急いでこのことを伝えないとまたルクトラは大変なことになる。いま、それができるのはソニアだけ」
今はまだ早朝。ダンジョンには、エルノアとソニアの二人以外は誰もいない。
ダンジョンを外から監視している騎士たちが、この揺れだけで、スタンピードだと断定する可能性は低い。ソニア同様あり得ないと考えるだろう。確認に来るかもしれないが、それでは遅い。
すぐに対応しなければ、どうなるか。エルノアはよく知っている。だからこそ、素早く決断を下した。
「お姉ちゃんも一緒に逃げよう」
「ううん、私はここに残ってあいつらを足止めするよ。大丈夫。私だって少しは戦える」
当然、嘘だ。もちろん魔物の軍勢を足止めする意思と気概はある。しかし、エルノアでは、魔物の進軍を一秒たりとも止めることはできないだろう。
だが、魔法で、身体能力を極限まで高めたソニアの足にもついていけない。エルノアの足では、魔物の軍勢に追いつかれてしまう。
スタンピードの拡大を防ぐためにはなによりも情報の早さが命。足手まといのエルノアがここに残るのは、極めて合理的な判断であった。
「なら、私も戦うよ。あんな魔物くらい私なら」
ソニアは、迫りくる魔物をにらみつけ、魔力を高ぶらせ、燃え上がる炎のような赤い髪を逆立てる。
いかに合理的であろうともソニアの感情は、エルノアの自殺行為を許容できない。ソニアはエルノアを守るためならば、勇気を絞り出し、一人で魔物の軍勢に立ち向かうことも恐れない。エルノアを失うことはそれ以上の恐怖だ。
「ありがとう。でも、ごめんね」
「お姉ちゃん……」
エルノアは、ソニアの前髪をなで、零れ落ちる涙を指でぬぐい、微笑む。
「ちょっと臆病なところはあるけれど、ソニアは強くて賢い自慢の妹だよ。私なんかよりもよっぽど立派な騎士になれる。だから、みんなを守らなくちゃ」
「お願い、お願いだから一緒に逃げて。私は騎士になんてなりたくない。お姉ちゃんが騎士になるんでしょ。私はただお姉ちゃんと笑って暮らせればそれで……」
声がかすれ、言葉が続かない。ソニアは、まったく力の入っていない拳で、エルノアの胸を叩き、縋りつく。
エルノアはただ優しくソニアの頭をなでる。
「お姉ちゃんを置いてなんて、行けるわけない! まだろくに恩返しもできてないのに。おいていったらお姉ちゃんは……」
涙を流しながら、ソニアは訴える。
ソニアにとって姉を失うこと耐え難い。世界が滅びるよりも耐え難いことだ。家族二人で幸せに暮らすことだけが彼女の願いなのだから。
が、エルノアの考えは変わらない。
「馬鹿な子。もう十分だよ。ソニアには、いっぱい、いろんなものをもらったよ。私だってきっとソニアがいなかったら、おかしくなっていたもの」
ソニアを守る。スタンピードで両親を失ったエルノアにとっても、ソニアは精神的な柱であった。
「ソニア!」
エルノアは声を張り上げ、ソニアを叱咤する。その声は絶望的な状況にあってもいつもと同じようにまっすぐに響いた。
「行きなさい。そして伝えるの。大丈夫。ソニアならきっとできる。あきらめなければ、きっと大丈夫。あとはお姉ちゃんに任せて。それに、私はまだ、騎士になるって夢、あきらめてないよ」
エルノアはソニアに満天の笑顔を見せると、ソニアに背を向け、決して、振り返ろうとはしなかった。今、もう一度、ソニアの顔を見れば、エルノアの決心は揺らいでいただろう。
「……必ず助けを呼んでくるから」
ソニアは唇を強く噛んで、それ以上なにも言わなかった。
腕輪に魔力をありたっけ流し込んで、極限まで身体能力を強化し、姉に背を向けると、涙を振り切って爆炎をまとい一陣の風のごとく走り出す。