黒い欲望
騎士になる。
エルノアの堂々たる宣言を、妹のソニアは陰から見ていた。
「お姉ちゃんが、ララリアに行っちゃう……」
ソニアは壁に寄りかかり、そのまま、座り込んでしまう。
スタンピードによる戦いで激しく消耗していたソニアだったが、獣人特有の強靭な自然治癒力でもって、起き上がれるほどにすでに回復していた。
すっかり夜は更けていて、長い間眠っていたとわかったが、深夜にもかかわらず階下が騒がしい。気になって酒場の方へと降りてみるとどうやら大宴会になっていたようだ。
宴会自体は珍しい話ではなく、スタンピード騒ぎの後ならばなおさらだ。一人寝かされていたことにソニアはぶすくれるが、これから参加すればいいと姉の下に駆け寄ろうとする。
その時だった、エルノアがおもむろにテーブルの上に立った。ソニアは自分でもわからないが、咄嗟に陰に身を隠してしまった。
エルノアは剣を抜き放ち、高らかに宣言した。騎士になるためにララリアに行くという。
ソニアは飛び出す機会を逸してしまった。
(どうして、お姉ちゃん。私を置いて行っちゃうの?)
ソニアは動揺した。涙が腹の底からこみあげてくる。
唯一の家族である姉が自分への相談もなしに騎士になるためにララリアに行くという。いや、後で事情を説明されると十分考えられたはずだったが、激しい戦いの後で心身ともに衰弱しており、ソニアの思考力は鈍ってしまった。
体と気が弱ると事態を悪い方向に考えてしまう。ソニアの生来の臆病さも拍車をかけた。
(私はいらないんだ!)
ソニアは、涙を流して、途中躓きながら、這うように階段を駆け上り、部屋に閉じこもる。
少女の繊細な心は激しく揺れ動き、エルノアが無事だったことへの安ど感はすべて、エルノアを失う恐怖に転換されていた。
ダンジョンへ救出に向かう途中に見たダンジョンを貫いた、あの強大な魔法。ソニアはあの魔法はエルノアがやったのだと直感していた。長年寄り添ってきたソニアにしかわからないエルノアの波動のようなもの確かに感じたのだ。
(あれが本当にお姉ちゃんの力だとしたら)
最下級の魔物スライム相手にも苦戦していた魔無しのエルノアは、もういない。あれほど強大な力を持っているのならだれも騎士になることを止めはしないだろう。
エルノアが騎士になるための障害は消えた。エルノアは、騎士の子供であり、騎士団で育ち、騎士になりたいと努力してきた。むしろ騎士になるための土壌は充実している。
自分はどうなるだろうか。ダンジョンでエルノアを守るという名目のもとついていく必要も消えた。エルノアが騎士になるためにはソニアはもう必要ない。それどころか、強固な反対論者であったソニアは邪魔とすら言える。
「その通り、あなたは、また捨てられるんですよ」
突然、耳障りな甲高い声が聞こえる。
「誰?!」
声のする方にソニアは顔を向ける。月あかりの差し込む窓際に、一人の女が立っている。黒い法衣姿で男装しているが、そのしなやかな体つきと匂いで女だと分かる。だが、同時に、得体のしれない不気味で嫌な匂いがソニアの鼻にまとわりつく。
その顔は、木の紋章が施された鉄仮面に隠されていて見ることはできない。目だけが光っている。
「お初にお目にかかります、鉄仮面卿とでも呼んでいただきましょうか」
「私に何の用?」
ソニアは耳と尻尾を逆立て、おぞましい気配を放つ鉄仮面の女をにらみつける。
「主人に見限られた捨て犬を導いてあげようかと思いまして」
「私は捨て犬なんかじゃない」
「おや、そうでしょうか。生みの親に捨てられ、育ての親に捨てられ、そして義姉にすら捨てられようとしている」
この女は自分のことを知っている。ともすれば、自分以上に。ソニアは一層、警戒する。
「お姉ちゃんは、家族を捨てたりなんてしない!」
「そうでしょうか。あのお方は強いお方だ。偉大なる皇帝の魂をその身に宿している」
「何を言っているの?」
ソニアは鉄仮面卿を警戒しながらも、この女の話に惑わされ始めていた。荒唐無稽と思えるようなほら話でも、つい、引き込まれるように、聞き入ってしまうのである。
「そんな偉大なるお方が、魔無しの誹りを受けてきた。才能のあるしかも血のつながりのない妹に劣等感を抱かずにいられると思いますか」
「それは……」
ソニアには、そんなことはないと断言することができない。ソニアは知っている。どれほどエルノアが、苦労してきたのか、どれほど思い悩んだのか。
優しいエルノアは自分のことを表立ってねたんだりはしなかった。それでも、自分が同じ立場に置かれたら、恨みを抱かずにいられるだろうか。
「妹のお守りなしでは、ダンジョンにもろくに潜れない。そんな彼女が力を得た。魔物の軍勢を軽くあしらうほどの。抑圧から解放された時あなたのことなど、もはや眼中にないでしょう」
「どうすればいいの……」
「はい?」
鉄仮面卿は、ソニアの心など見透かしたうえで、ソニアの口から言葉を引き出そうとする。
ソニアは不安と恐怖で、胸が苦しくなる。負の感情が涙となって零れ落ちる。一文字ずつ必死に、ひねり出すように言葉を紡ぐ。
「どうすれば、私はずっとお姉ちゃんのそばに……」
鉄仮面卿は、ソニアの口元に人差し指を当て、口をふさぐ。
「おっと、あなたの願いはその程度ですか?」
「……どうすれば、お姉ちゃんを————」
ソニアは自分が心の奥底から湧き上がるどす黒い何かに染め上げられていくのを感じた。そして自分の中で確かに渦巻いていた欲望にソニアは気づく。いや、彼女は気づいていた。その存在をただ認めたに過ぎない。
ソニアの涙に沈んだ紅の瞳がランと光った。月明りに照らされたしっぽの豊かな赤毛はなまめかしい。
「————私のものにできる?」
恐怖と絶望の中で肥大化した愛情は、黒い魔力となって表出し、ソニアの体を覆うようにゆらゆらと燃える。
「簡単です。あなたが、エルノア嬢より強くなればいい。私も力をお貸ししましょう」
鉄仮面卿は、黒いオーラを放つカードを広げて見せる。
ソニアはゆっくりとそのカードに触れた。
その夜、ソニアは忽然と姿を消してしまった。




