地球最後の主婦 その名も吉田ゆかりさん
「卓也―っ!音楽うるさいわよ〜っ」
吉田ゆかりさんは夕飯の支度で忙しかった。
「もう…あんたも携帯ばっかりかけてないで少しは手伝ってよ」
「うるさいな〜今、友達と話してる所だよ」
「ほんとにもう…携帯代だって馬鹿にならないのに」
ゆかりさんは呆れてキッチンに戻ろうとした。
「あっ、そういえば美奈。あんた昨日のテストは…」
ゆかりさんは振り向いた。
「あれっ、美奈?美奈!」
ほんの一瞬、背を向けただけだった。娘の美奈は居間から消えていた。
「美奈…」
その時、彼女は気付いた。液晶TVの映像が消えている。居間の照明が落ちている。停電かし
ら?と、思った。そういえば息子の部屋から喧騒な音楽が聞こえて来ない。階段を上り息子の
部屋の前に来た。
「卓也、いい?入るわよ」
少し開けられた窓から風が入って、カーテンがわずかに揺れていた。沈む夕日の陽光で部屋の
中が赤く染まっている。部屋はもぬけの空だった。「卓也…」そういえば窓から見える景色も
異様だった。周りの住宅街に明かりがついていない。遠方の森から僅かに見える国道1号線の
路上では全ての車が停車していた。そして鉄道も…。今、一つ気付いた。人間の営みが、社会
のうごめく騒音が聞こえてこない。ただ風がそよいでいるだけ…。
「こ…こんな事って」
彼女は階段を足早に駆け降りて玄関を抜け、庭に出た。最近の不況で定時帰りの夫が車の洗車
をしているはずだ。バケツが置いてあり泡だったスポンジが車の天井においてある。彼を呼ん
でみた。返事がない。こんな事があろうはずがない。何時だって、何処かに出掛ける時は一声
かけてくれた。そうだ!ベルは、飼い犬のベルは?!車の前から、ゆっくり振り向き犬小屋を
見た。チェーンのみが残されていた。何か悪寒を感じた。
西洋風の白い門を開け、外に出てみる。誰もいない。沈む夕日で全てが真っ赤に染まっている
少し歩いてみた。遠方からみるスーパーマーケットにも人の気配がない。いつもこの時間は駐
車場も車でごった返しているのに、全ての車は停車して動いていない。彼女は知り合いの近所
の家に入ってみた。玄関のインターホンを押した。
「ご飯時にすみません!吉田です、吉田ですっ!」
無意識に手をかけた横開きの玄関が僅かに開いた。少し視線が通った。思い切って玄関を全開
に開けてみた。人の気配がなかった。冷たい風が身体を通り抜けた様な感じがした。後ろを振
り返ると外は薄暗くなっている。(だめだわ、もう外にはいられない早く家に戻らないと…)
彼女は真っ白な洋風建築で出来ている我が家に駆け込むように入ると、玄関に鍵をかけた。中
は真っ暗になっていた(明かりが欲しい。そうだ懐中電灯があるわ)玄関先のクローゼットを
空けると、防災用の大型懐中電灯を取り出した。何とラジオまで付いている(よかった、これ
でニュースを聞く事が出来る)彼女はダイニング・キッチンに移動してスイッチを入れた。ライトは点く。今度はラジオだ。とにかく人の声が聞きたい。
ピーーッ ピーーーッ…ザザザザザ…。
オート・チューナーだから、すぐに選局されるはずだった。カチン、カチン、チャンネル・ボタンを押して選局を切り替えるのだが、ノイズが異様な音をたてるばかりであった。
「どうして…ラジオの放送がやっていない…」
「あっ」彼女は思い出した。あれは卓也と美奈が見ていたDVD。.確かウィル・スミスが主演
の映画だった。細菌の汚染でたった一人になってしまった男の物語。その時、全身を揺さ振る様な心臓の鼓動が起きた。(そうよ…だって不思議じゃない、いきなり皆がいなくなるなんてもしかしたら)口の中に粘っこい唾液が溢れだし歯がカチカチと音を立て始めた。
「私は…一人になってしまった…」
そんなバカな、あんな事が現実になるなんて有り得ないわ。だけど、ご近所も車も電車も…
あの人も卓也も美奈もベルも…ラジオも放送していない!電気も来ていない!スーパーにも人
は…!!美奈…美奈…私の子供はどうなったの?まさか…そんな事はない!卓也は…絶対にな
いわ!そんな事、私が取り残されたのよ…皆、何処かで元気にしているのよ!いつしか身体は
冷蔵庫の陰に入り、しゃがみ込んでいた。スカートの裾が乱れている。そして両手で栗毛色の
髪を掴んでいた。
巨大な闇が出現していた。大気に充満した闇がゆっくりと確実に迫ってきていた。
そうだ…声を出してみよう、叫んでみよう。だけど何と言えば…闇の中のダイニング・テーブ
ルの上に先程まで調理していた夕飯がのっている。今頃は家族で賑やかに食卓を囲んでいたは
ずだ。そんな光景が目に浮かんだ…涙があふれてきた。
ふふふ…こんな時にあんな言葉を思い出すなんて、だけど、皆、集まって来た。私の大切な家
族が笑って集まって来た… 皆が戻って来るかもしれない…叫んでみよう。
彼女は意を決して叫んだ!
「みんな〜御飯よー!御飯ー!!」
その時であった!照明が付いた。TVの音声が聞こえて来た。車の発進する音が…電車の音
が…!階段を駆け下りて来る音がした。そして三人と一匹がダイニング・キッチンに現れた。
「母さん 腹減ったぜ〜」
と、息子が言う。彼女はダッシュして三人に抱きついた。真ん中の夫の胸に顔を引っ付けた。
「わあああ…何処にいたのよ!心配したのよ!!」
「あんまり動いちゃいけねェつ〜んで俺は布団かぶって不貞寝してたぜ」
「地震の訓練みたいだから、私はテーブルの下であるまじろ!」
「私はベルを連れて裏庭にいたんだが…」
「ワン、ワン、ワワン、ワン!(←ベル)」
「そんな…どうして?どうして、そんな事するのよ!!」
「そりゃ地球温暖化対策だからだろ…」
解説しよう。時に西暦2011年。地上波放送が終了する年(地デジの準備はお済みですか?)人類は地球温暖化防止の為に総力を結集して対策に当る事になった。その名も<地球温
暖化絶対減少計画>全ての国が毎日一度、30分間のみ。必要最小限度のエネルギー使用に留
め、電力、物流、生産、人の移動まで規制してCO2の削減に努めるという壮烈な計画である
各国の取り組みはスパイ衛星によって監視され、いいかげんにやってる国には国連軍空中機動
師団が投入され強制的指導を行うと言った厳しさであった!
「つ〜てもよう。あんだけTVの政府広報で流してても、な〜んにも知らねぇでバタバタ
動き回ってよう、あげくの果てに泣いてやんの。これで何処まで効果があるのやら…」
と、息子が言う。
「ううっ、う…うるさい。主婦は忙しいんだ…」
そ…そうでもなかった。ヒマな時はTVも見ずに、ひたすら韓流ドラマのDVD観賞にふけっ
ていた。そんな事は口が裂けても言えない、ゆかりさんであった。
△ Grand Bleu 2009/02/11
今回はホーム・コメディですが、何か?
つーて、前作読んでないと繋がりが解りませんね。前作とは完全に独立した物語です。ちょっと、時事ネタで遊んでます。楽しんで貰えると嬉しいです。
感想お待ちしております。読者様は神様です(笑)