朱里の夜
「あそこに小島があるでしょ。あれ、なんて名前なんだろうね?」
南湖公園広場の四阿でコンビニ弁当を食べ終えると、僕は正面に座る従姉妹違の朱理ちゃんに向けて、藪から棒に切り出した。
食事の最中も僕らの間に会話らしい会話は存在していなくて、だから何か口にしなくてはと、根拠のない焦りに背中を押されたせいで切り出した話題だった。
僕と朱里ちゃんの視線の先には、車道を挟んで、南湖公園の要とも言える広大な人工湖が広がっている。
福島県白河市の南湖公園と言えば、松平定信公が建立した、日本最古の公園ということで有名だ。
国の史跡名勝に数えられているだけあって、磨き抜かれた鏡のような湖面は穏やかさと気品に満ち、陽光の照り返しを受けてきらきらと反射している。
手漕ぎボートでの遊覧を楽しむ人たちが豆粒のように見える中、確かにそれはあった。周囲から隔絶されたように湖の中央に鎮座して、松林をたたえる一つの浮島が。
「天女島ですよ。たしか」
朱里ちゃんは、まだ若干の幼さが残る十七歳の顔立ちに、とくにこれと言った感情を乗せることなく応えた。
僕は、自分でもわざとらしいと思えるくらい、大げさな反応をしてみせた。
「へぇ、あれってそんな名前なんだ。よく知ってるなぁ」
感心したように頷く僕とは対照的に、朱里ちゃんは目線を湖へ向けたまま、返事を寄こさなかった。相槌すらも打たなかった。
僕のことを嫌っているからではない。これは自惚れでもなんでもなく、事実だ。
つい先日、彼女の母が――つまり僕の従姉妹が、同窓会で留守にする間に娘の相手をしてくれと連絡してきた時、朱里ちゃんがそれを断らなかったことがいい証拠だ。
十七にもなる女の子が、三十歳の独身男と休日を一緒にするなんてどうなんだろうと、その時は思ったが、すぐに『そうではない』と気づいた。
少なくとも朱里ちゃんは、僕に何か話したいことがあるのだろう。でも、彼女が何を抱え込んでいるかまでは、まだ分からない。
そもそも、こうしてまともに顔を合わせるのだって二年振りのことなのだ。
年月が、僕らの間に見えない溝を生じさせていた。『彰くん!』と、年の差も関係なしに無邪気な笑顔で僕の名前を呼んでいた頃の朱里ちゃんは、すっかり影を潜めていた。
そこに成長の痕を匂わせるのと同時、ほんの少しだけ寂しさを覚えた。
「漕いでみようか」
自然と僕はそう口にし、おもむろに立ち上がった。
朱里ちゃんが、きょとんとした顔でこちらを見ている。
「漕ぐ?」
「ボート。島の名前聞いたら漕ぎたくなってきた」
「……そうですね」
「いいかな?」
「はい」
すぐ近くのボート乗り場まで行って、三十分の利用料金を支払う。
不安定なボートの上で、バランスを取るのはなかなか難しかった。
やっとこさ腰を下ろして、オールに手をかける。力任せに漕ぐたびに、三十歳を迎えて硬くなり始めた腕や腰の筋肉が軽く悲鳴を上げそうだった。
ぎこちない漕ぎ方を誤魔化そうとして、僕は何とはなしに話題を振った。
「朱里ちゃん、ダイエットとかしてるの?」
「え?」
「いや、なんか昔より痩せて見えたから」
「あぁ……まぁ、ちょっと。ダイエットって言うか、あまり食欲がないというか」
「……大丈夫? 旭高校に行っても、剣道は続けているんでしょ? 体力つけなきゃダメじゃない」
「ええ、まぁ。でも、全然。平気ですよ」
朱里ちゃんは笑った。距離を感じる笑い方だった。肩のあたりで切り揃えられた濃い黒髪が、震えるように揺れていた。
何が『全然平気』だと言うのだろう。顔色は悪くなさそうだが、さっきから朱里ちゃんが口にする言葉には、どこか活気がなかった。それは確かに感じられたことだった。
彼女が何かに悩んでいるのは明白で、でもそれをなかなか口に出そうとしないあたりに、彼女の真面目さが、悪い方向に働いているように思えてならない。
責任感の強さという奴だろうか。自分に関わる問題は、全部自分の手で解決しなければならないと、気負っているような。
「あんまり無理しちゃいけないよ」
「無理なんて、そんな」
「いやいや、マジな話さ」僕は、少しだけ朱里ちゃんから視線を逸らして、あえてオールを漕ぐ両腕に意識を集中させながら言った。
「自分の気持ちに正直にならないと、俺みたいになっちゃうよ」
自虐的な言い回しでウケを狙おうとしたけれど、それでも朱里ちゃんの表情は硬いままだった。変に気を遣わせてしまっただろうかと、僕は己の失言を悔いた。
大学卒業を機に上京して、中堅電機メーカーに就職し、営業マンとして配属された。仕事はそれなりに楽しかった。
けれども、いつも心のどこかにしこりがあった。これは本当に自分の人生なんだろうかという違和感。多くの人はそれに気づくことなく、あるいは気づいたとしても振り払い、目の前の仕事と真剣に向き合って成長していくのだろう。それが大人になるという意味なのだ。
あの時の僕は、まだ大人になれていなかった。
自分が本当にやりたかった仕事は、これじゃない。そう自覚してしまったが最後、前だけを見続けることなんて出来なかった。
「東京の会社を辞めたいって思った時、怖くなかったんですか?」
朱里ちゃんが、遠慮がちに尋ねてきた。僕はオールをゆっくりと漕ぎつつ、しばらく考えてから「最初の頃はね」と切り出した。
「負い目みたいなのを感じてさ。でも、二年前の『祭り』に参加したら、不思議なことに吹っ飛んじゃったんだよね。恐怖心っていうか、ためらいみたいなものがさ。まぁ、いまは本屋でバイトしている身分だけど、こっちの方が随分と楽しいよ」
「祭りって、白河提灯祭りですか?」
「そ。大町が鹿島神社の神輿を担いだ年ね。たしか今年もウチなんじゃないかな。朱里ちゃんも参加してみたら? 女の子なら手持ち提灯持って、隊列組んで歩くだけだから、比較的楽だと思うよ」
僕がそう口にすると、朱里ちゃんはじっとボートの底を見つめ、しばらく考えてから口にした。
「提灯祭りって、どうですか?」
「どうって……」
質問の意味が曖昧としていて、なんと答えてよいか考えあぐねていた時だった。
ボートの船尾が何かに当たって、船体に軽い衝撃がはしった。
「あ、やべ」
振り返ると、ボートは天女島を円形に囲んでいる、背の低い木柵の一つにぶつかっていた。
慌ててオールを漕いで方向転換しようとした時だった。朱里ちゃんが、不意にぽつりと言葉を湖面に落とした。
「意外と小さいんですね」
そう呟いた彼女の視線は、すぐ目の前の天女島へまっすぐ向けられていた。
意外と小さいと彼女は口にしたけれど、僕の目にはそうは見えなかった。遠くから眺めても、こうして近くからまじまじと観察しても、天女島は南湖の美しさを際立たせる一つの景観として、しっかりとした存在感を放っているように感じられた。
「それに、なんだかちょっと可哀想」
「可哀想? どうして?」
「だって、こんなに沢山の木の柵で周りを囲われて、仲間外れにされているみたいじゃないですか」
ずいぶんと比喩的な言い回しを使うんだなと意外に思いつつ、僕は物分かりの良さげな意見を寄こして、納得させようとした。
「うーん……でもそうしないと、勝手に島に上陸しちゃう人もいるだろうし。仕方ないんじゃないかな」
僕の言葉を受けても、朱里ちゃんは小首を傾げるだけだった。長い年月の果てに墨のように変色しつつも、がっしりと島を囲う木柵を、眉間に皺を寄せて難しそうに見つめている。
陽光に照らされ、深い陰影を刻んでいる彼女の横顔が、時折とても寂しそうに見えてしまうのは、きっと見間違いなんかではない。
「提灯祭り、どうする?」
オールを漕ぐ手を一旦止めて、僕は朱里ちゃんに向き直って口にした。
「参加するのかってことですか?」
「余計なお節介かもしれないけどさ、沿道で祭りを見ているのと、実際に神輿を担いでみるのとじゃ、大違いだよ」
僕の言葉を受けて、朱里ちゃんは軽く下を向いた。それっきり、彼女は黙ってしまった。
▲
九月に入った。
僕は助手席に今年で還暦を迎えた母を乗せると、母の実家がある大町まで車を走らせた。
時刻は午後の四時を回ったところで、提灯祭りの開始まではまだ二時間ほどある。
それでも市街地に近づくにつれ、沿道を歩く人の数は多くなり、太鼓にお囃子の音が混じり、にわかに賑やかさを増していた。
「おう、こっちこっち」
駐車場に車を停めて外に出ると、母の実家兼建具屋の『しらす屋』の軒先で、母の兄である『しらすの叔父さん』と奥さんが、手を振っていた。
叔父さんは片手にコップを持ち、すでに出来上がりつつある赤ら顔をこちらに向けて「ま、かけつけ一杯」と、おちょこを差し出してきた。
「いや、車なんだけど」
「なにぃ? 車? んなもの、帰りは雅子に運転させればいいべ」
僕が遠慮がちな目を母に向けると、母は「いいんじゃない? せっかくのお祭りなんだから」と、にこにこと笑っていた。
「じゃあ、いただくわ」
なみなみと注がれた日本酒を一気に飲み干す。食道と胃の奥がカッと熱くなる感覚があった。
叔父さんと話し込んでいると、後から後から親戚連中が『しらす屋』にやってきた。午後の五時半を回った時には、軒先に並べてあった二十脚近い椅子が足りなくなるほどだった。
ただ、集まってきた親戚の中に朱里ちゃんの姿がなかったので、僕は彼女の母であり僕の従姉妹でもある美紀ちゃんに、それとなく訊いてみた。
すると美紀ちゃんは、少し困ったような表情で、とんでもない一言を告げたのだ。
「朱里ねぇ、御神輿担ぐのよ」
「え? 神輿?」
思わず訊き返していた。反対に母は「まぁすごい! 鹿島の御神輿様を担ぐの!?」と、興奮気味に喋っている。
それでも、美紀ちゃんは嬉しさよりも心配の方が勝っているようだった。
「私は反対したんだけど、朱里がどうしてもやりたいって言って聞かなくて。仕方ないから、二日目の今日だけねって言い聞かせたんだけど」
「いいじゃないのよ。いい体験になるわよぉ」
「ていうか、女の子が御神輿担いでもいいの?」
陽気な母を後目に、僕は当然湧いてきた疑問を口にした。
江戸時代の頃から約四世紀近く続く白河提灯祭りにおいて、白河の総鎮守である鹿島神社の神輿を担ぐのは、男衆の役目だと決まっているはずだ。
けれども美紀ちゃんの話では、ここ数年の間に白河も過疎化が進み、担ぎ手が減少している影響もあり、特例というかたちで女性でも神輿を担ぐ権利が確立されたのだと言う。
僕は、あの日の南湖公園で口にした言葉の重大さを、今更のように感じていた。
白河提灯祭りは、日本三大提灯祭りの一つに数えられるくらいに勇壮で格式高いものだが、実際に神輿を担ぐ者は、危険や緊張感と隣り合わせの境地にいる。
なにせ、鹿島神輿の重量と言ったら、一トン近くもあるのだ。それをたった五十人程度で担ぎ上げ、何十キロもある市街地を、三日間に渡って練り歩く。
二日目だけの参加とはいえ、およそ二十キロもの重さが、朱里ちゃんの、あのほっそりとした肩にのしかかるのかと思うと、気が気でなかった。
大丈夫なんだろうか。途中で倒れたりしないだろうか。
そんな心配事をしているうちに、いよいよ二日目の提灯祭りが始まった。
沿道の御台に座り、子供たちが賑やかに鳴り響かせるのは、和太鼓にお囃子の音色。
山車を引き回し、市街地のあちこちで熱気が産声を上げ始めた頃に、祭りの先達を務める愛宕町の若衆が、交通整理された車道を練り歩きはじめた。
愛宕町の先達提灯は、鹿島の神輿に次ぐ祭りの目玉だ。十メートル以上ある竹竿を両手の平の上で真っ直ぐに、電線の間を縫うようにして支え、竿の先端に取り付けられた提灯を、茜色に染まる天へ向かって掲げながら歩く。
沿道に立つ群衆の中から、歓喜と驚きの声に混じり、大量の拍手が洪水のように湧き上がった。
その後、新蔵、本町、南町、年貢町、馬町、中町と、各町の神輿集団が熱気と興奮を置き去りにして通り過ぎていった後だった。
――ワッショォ! ワッショォ! ワッショォ! ワッショォ!
薄めた墨汁のように暗くなりかけた夜の市街地で、煌々とした灯の群れと共に、ひときわ巨大な神輿が、野太い掛け声の重奏を引き連れて姿を現した。
沿道に立つ人々の中から怒濤の歓声が上がった。スマホのカメラから、次々にフラッシュが焚かれた。
大町が担ぐ、鹿島神社の御神輿だった。
全高二メートル近くあるそれは、屋根、胴、台輪と呼ばれる土台部分の三層構造で、全体が黒漆で塗られており、朱色や金細工で煌びやかな装飾が為されていた。
「あ! 朱里ちゃん! ほら朱里ちゃんよ!」
隣で祭りを見物していた母が、急に高い声を上げつつ、僕の背中をばしばしと叩いた。慌てて立ち上がって見ると、大量の汗に塗れた、赤ら顔のガタイの良い男衆に混じって、一回り小さい影が、神輿の最後方にあった。
朱里ちゃんだった。土台と左肩の間にクッション用の布を挟み入れて、右手には大町の町印が刻まれた手持ち提灯を持ち、歯を食いしばって神輿を担いでいた。鬼気迫る表情だった。
――ワッショォ! ワッショォ! ワッショォ! ワッショォ!
叔父さんや美紀ちゃんが「頑張れ!」と声を掛けても、朱里ちゃんはこちらを見ようとはしなかった。
きっと余裕がないのだ。僕も担いだことがあるから分かるが、とにかく肩にかかる神輿の重さを意識するので精一杯なのだ。
けれど、だからと言って声をかけない訳にはいかない。
『しらす屋』の前を通り過ぎた後も、僕は沿道に立つ人たちを掻き分けて、鹿島の神輿を追った。
前を行く町を抜いてはならないという規則に従って、神輿の動きはゆっくりとしていた。
それでも、むさくるしい男衆に混じる朱里ちゃんの表情は険しさに包まれて――けれども、そのつぶらな瞳には、今まで見た事のない真剣味が宿っていた。
「朱里ちゃん!」
声が届いているのかどうかは、定かではない。
「負けるな! 頑張れ!」
けれど、どうしても心からの声援を掛けてやらずにはいられなかった。
彼女はきっと、戦っているのだ。自分自身を変えようとしている。祭りという非日常の儀式を通じて、彼女は悩みを払拭しようとしている。
決して辛そうな表情を見せまいとする意志の強さが、朱里ちゃんの小さな体から溢れていた。生命力とも言えばいいのだろうか。
昔、朱里ちゃんが赤ん坊の頃、僕は彼女をその手に抱いたことがある。
当時中学生だった僕は、赤ん坊を抱くなんて初めてのことで、おっかなびっくりした手つきで彼女を抱き起こした。その時の事を、なぜか不意に思い出していた。
あの時、僕の手を伝わってきた、彼女の生命の熱を。
人々の熱量は、確かに白河の夜を、明るく照らしていた。
そこには間違いなく、朱里ちゃんの『熱』もあった。