身分を偽る
マリエルは他の宿の場所を知らないから探しようもないから粘る。
その間にも客は来て部屋がどんどん埋まっていく。
「はい、鍵だよ」
「夕飯は早めに頼む」
そのやり取りのなかで客は料金を一部前払いしていた。
出るときに鍵と一緒に残りの金を支払うのが通例だ。
常連の客なら全部後払いということもあるが信用が高くないと難しい。
「商売の邪魔だよ。出て行ってくれ」
「私は泊まるって言ってるのよ! 客よ!」
「こっちは商売してるんだよ。泊める客は選ぶよ。あとで面倒なことになって欲しくないからね」
猫の子を追い払うように手を振りマリエルのことを今度こそ無視した。
何度も女将と言い争い宿から出て行こうとしないマリエルを面白半分にからかう男も出てきて収拾がつかなくなってきた。
「お嬢ちゃん、俺の部屋になら泊めても良いぜ」
「結構よ!」
「けっ可愛げのない女だ」
「よせよせ、あんな女じゃ楽しいことも楽しくなくなるぜ」
誰もまともに相手をしてくれないことで生来の負けん気の強さが出て来て男たちに言い返した。
「私は伯爵家よ! あんたたちなんか平民のくせに」
「何だと!?」
「まぁ待てよ。お嬢ちゃんが伯爵家だってんなら証明してみろよ」
「ふん! これを見なさい!」
ゴンゴニルド伯爵家の紋章を刺繍したハンカチを取り出した。
身分を証明するとなると男性なら懐中時計、女性なら扇に紋章を彫るのが一般的だ。
刺繍などと誰でも偽造できそうなものは証明にもならない。
「ふっふははははは」
「これは傑作だ! 刺繍入りのハンカチなんざ証明になるかよ」
「どうせ伯爵家のメイドか何かで仕えている家のお嬢様のものを使って身分を偽ってるんだろ?」
「悪いことは言わねぇ帰って旦那様に謝ることだな」
「なっ! 私は本当に伯爵家の令嬢よ!」
本当に貴族の令嬢なら宿の泊まり方くらいは知っているし、町の宿に泊まるなら簡単に身分を明かしたりしない。
どれもがマリエルを伯爵家令嬢としての姿から遠ざけていた。
「お嬢ちゃん、なら家名を言ってみろよ」
「ゴンゴニルド伯爵家よ!」
「ゴンゴニルド伯爵? あそこは当主に子どもがいないから当代終わりだろ?」
「あぁ娘がいるなんて聞いたこともない」
「大方、貴族に憧れた娘の妄想だろうよ」
世間知らずの貴族令嬢だったら家に連絡をすれば僅かなりとも褒美が貰えるのではないかと考えた男たちだったが、跡取りのいない家の名前が出てきたことで興醒めになった。
雲の上の存在の令嬢と一夜を共にしようと目論んでいた男たちもただの虚言癖のある平民だと思い部屋に戻って行った。
一連の流れを見ていた女将は溜め息をついて電話で憲兵を呼んだ。
「どうして信じてくれないのよ。私は本当に貴族なんだから」
「本当にお貴族様ならこれから来る人に話しとくれ。宿でこれ以上の揉め事はごめんだからね」
「誰も迎えに来てくれないし本当に何なのよ」
厳つい制服に帯剣をした男が宿に入って来た。
その姿を見てマリエルは驚き怯えて逃げようとしたが、女将に腕を捕まれて叶わなかった。
「この娘だよ。自分はゴンゴニルド伯爵家の娘だって言ってるのは」
「そうか。ついて来い」
「・・・・・・・・・っ」
雲行きが怪しくなり誰かに助けを求めようとしたが、いるのはマリエルと女将と憲兵だけだ。
このままだと無理やり引っ張ってでも連れて行かれると思いトランクを持って憲兵の後ろを歩いた。
「まったく面倒なことをしてくれたものだ」
「・・・ごめんなさい」
呆れたように言われて素直に謝ったがマリエルは本心では反省はしていない。
貴族令嬢の自分をぞんざいに扱う周りが悪いと考えている。
「一応、ゴンゴニルド伯爵家に確認は入れるが、大人しくしていろよ」
「はい」
転生したマリエルにとって今は、ある日突然貴族令嬢になってしまったではなく、初めから貴族令嬢だという思いが強かった。
駐在所に着くと適当な椅子に座らされ持っていた刺繍入りのハンカチも取り上げられた。
電話でマリエルの身元を確認すると、応対した執事から最近引き取った庶子であることが知らされた。
「・・・すぐに迎えが来るそうだ」
「駐在所に来るイベントはお忍びでプレゼントを買いに来るときじゃないの? 入学前のイベントじゃなかった」
「おい!」
「うるさいわね。今考え事をしてるの! ほっといて」
マリエルが本当に貴族令嬢であることは分かったが正式な養子縁組は学校を卒業してからで今は仮状態だと言うことも語られた。
生まれたときから面倒を見ていれば庶子でもすぐに養子縁組を取るが、あとで分かった場合は貴族としての能力があるか確認してからということが多い。
今のマリエルは貴族の身分ではあるが権限などは何も持たないお飾りの状態だ。
わざわざ説明することでもないためマリエル本人は貴族だと思い込んでいた。
「駐在所イベントはロチャードとオーリエンで発生よね。それは困るわ。まだ何も始まってないのにルート確定とかありえない。どうにかして激ムズルートにしないと」
ぶつぶつと何か呪文めいたことを言っているマリエルを気味悪がって近づこうとしなかった。