2.邂逅と蚕
始まりは1年前、高校入学初年度の6月だった。
クラスの喧騒に耳が慣れ、自分という存在の役割を認識し始めた頃。
”彼女”と”僕”の間には決して混ざり合うことの出来る物は無かったと思うし、この2ヶ月で”僕”がどれだけつまらない人間なのかも分かっている筈だった。
だからきっと門を叩いたのは”彼女”だ。
唐突にこちらの気など知りもせずに。
「ねぇ、ロッカーのカギどこ置いたっけ?」
”彼女” 初瀬 凪 (はつせ なぎ) 出席番号30番
”僕” 伏見 幸多 (ふしみ こうた) 出席番号31番
たまたま日直が同じで教室の掃除をしていただけ。
初瀬の投げかけた質問を”僕”は理解できなかった。
質問の内容ではなく、質問をなげかける相手をだ。
”僕”の掃除を進める手は止まらない。
黒板の桟を濡れた雑巾が這う。
今年は少し夏が早い。
窓から流れる暑い風が腕に当たって気色悪い。
じめついた額の汗を拭う。
窓を閉めようと伸ばした腕。
その前を真っ白な紙飛行機が通過した。
何気なく目で追いその行く末を見守る。
初めは勢いのあった速度もやがて衰え、最後は力無く床に吸い込まれてゆく。
「暑くなったきたね。そろそろ夏服の準備しないと」
紙飛行機の飛んできた方から聴こえる声。
この先嫌という程聞く声。
床に転がる紙飛行機を拾い一応埃を払ってから声の持ち主に手渡した。
「ありがとう‥‥。」
不思議そうな表情と反応。
関係無い。そう思い窓に手を掛けた時、
「なんだ、やっぱ普通の感じだよ」
さっきまで動いてた手がふと固まる。
「伏見君、普段あんま喋んないし行事とか休むから。皆知らないんだよ」
分からない。こんな事を言う必要も無いはずなのに。
「えっと‥‥、それ‥‥」
何カ月ぶりかの人との会話、もう必要無いと思ってその機能を停止させていた唇が意味を必死に取り繕うとしていた。
「怖いとかキモいとか‥‥ヤバいとか言われてたけど全然」
初瀬の口からは淡々と言葉が流れてくる。
「いや‥‥」
対する自分の口からは目と口の位置も曖昧な、意味を持たない言葉しか出てこない。
「話すの初めてだっけ?初瀬 凪です、よろしくね」
胸の前で手を振りながら笑顔混じりに話す初瀬。
その顔に嫌悪感すら抱く自分がいた。
自分が下に見られてる様で、手の上で転がされてるようで。
こういうのが嫌で関わりを避けてたのに。
名前なんて名乗らずとも知ってた。昼飯を”僕”の机で食べる女だ。
悪気がないことも知ってる。ならどうして。
じめついた汗はいつの間にか冷や汗に変わっていた。
不意の邂逅に出てこなくて良いモノまでが溢れてくる。
「俺の事なんて良いよ、気にしないで」
喉奥から絞り出した願望の声。
「高校卒業までさ、俺の事は思い出しもしないでほしい」
願望がやがて懇願に変化しまた”僕”は言わなくて良いことを口にした。
「思い出すって‥‥、まだ君が優しいってことしか知らないよ」
初瀬は紙飛行機を後ろ手に持ち当然の様にそう言う。
”僕”はポケットに入れてたロッカーの鍵を初瀬に手渡し黒板の桟に置かれた雑巾を持ち早足で教室から抜け出した。
とにかくこの場から、初瀬の前から消えたかった。
三階にある教室から階段を降りて二階の洗面所に向かう間で動揺を少し抑えることができた。
あの時もう少しあの場所に長くいたら、きっと自分の根幹を崩されていた。
そう思ってしまうほどに”彼女”の言葉に”僕”は恐怖をかんじていた。
蛇口から流れる水が冷たくて心地よい。
このままバックレる事も考えたが生憎鞄を教室に置いてきている。
溜息が出る。
平坦な日々に唐突に突きつけられた、望まない事故。
もう一度”彼女”の前に姿を現すことが恐ろしくてならない。
静まり返った洗面所で蛇口から垂れる水滴の音と自分の心音がリンクしているようで。
教室の近く、自分のクラスのロッカーの扉が開いている。
恐らく初瀬は掃き掃除をしているのだろう。
扉を開けていつも通りを装うだけ。
誰も気に留めなかったいつも通りを装う、だけ。
静まり返った教室の前。
”僕”の心音の他に校庭から掛け声が聞こえる。
ドアを、開けた。
静まり返った教室の中に初瀬はもう居なかった。
開きっ放しの窓からは校庭で練習をする運動部の掠れた声が。
微かに夕日が射す教壇の上にはロッカーの鍵が置いてあった。
カーテンに立てかけられた箒は今にも倒れそうで危うい。
握っていたカラカラになった雑巾を開いて伸ばし窓際に取り付けられた物干しに掛ける。
立てかけられた箒を掴みロッカーに入れて鍵を閉める。
さっきまでのぬるい風はもう止み今は少し肌寒く感じるほど。
ブレザーを羽織り開いていた窓を閉める。
ロッカーの鍵をポケットに入れ教室を出ようとした時ふと黒板の桟に目が行った。
そこには”彼女”に手渡した紙飛行機が置かれていた。
チョークの粉が羽に付いてしまったその紙飛行機を広げてみると今日配布された『ボランティア募集』のチラシが顔を覗かせた。
そのチラシをチョークの粉が撒き散らされないように畳みポケットに入れ、教室を後にした。
夕暮れに染まる帰り道。
駅までの道はこの時間人通りが少ない。
学校帰りの小学生、犬の散歩をする老人、スーパーの買い物袋をカゴに載せた主婦、横を通る人々を眺めていると不意に頬を風が撫でた。
それは弱々しく、目立たない小さな風。
ポケットに入れたあのチラシをもう一度紙飛行機に降り直す。
幾度も折り目を付けたから皺くちゃになった紙。
出来上がった紙飛行機は頼りなさそうな出来だった。
もう一度風が吹いたらこの紙飛行機を飛ばそう。
この2ヶ月”僕”は自分を殺して自分を作ってきた。
自分を知ることのないように。
自分と出会うことのないように。
言うなれば門を閉めたのは”僕”だ。
いずれ迎える別れのために。