(2)蛇足。――その後――
あはは、これを書いてて、私自身が消化不良になりました。
結果がこれ? 何も解決していないじゃないか! なので、少しばかり追加します。
そして、それは少しばかりSFチックな仕上がりに……。
その後のことは、この日記には記されていない。しかし、気にならないと言えば嘘になる。で、私に出来る範囲で調べた内容を記入しておく。
今は、あの裁判が終わっって 数十年かの後。
アキラ(姓名共改変されているが、便宜上これで通す)の母親と姉については、平凡すぎて 特筆するような何事もなく、細かいことは調べられなかった。それでも、分かったことを記しておく。
まず母親だが、PTSDの治療を終えた後、再婚したらしい。再婚するまでは、姉(アキラの姉)と暮らしていた。その後は、新たに子供を設けることもなく、平穏に暮らしという。
姉は、母親の再婚を機に自立し、短期大学を卒業して就職した。その就職先で職場結婚したと記録にある。共働きなから、それなりに幸せな暮らしをしたという。子供はいなかったらしい。
彼女達については、これ以上の情報は入手困難たった。
アキラの親権者である父親だが、彼は 離婚以前と たいして変わりなく、同じように暮らした。一人になったので会社の寮に入り、仕事と趣味三昧で社会人生活を過ごした。
五五歳で退職。その後は、それこそ一日中趣味に没頭していたそうだが、足繁くアキラが訪ねて、父と娘の会話があった。それは、退職後の 彼の世話をしていた看護・介護用アンドロイドの記録と記憶により明白である。
当然ながら 彼は家庭は持たず、彼の遺産は全てアキラのものになった。彼は 思う存分、好き勝手に生きたようだ。享年六五歳であった。
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では、本編の主人公であるアキラの その後を追ってみよう。彼女については、公的な資料だけでも莫大になる。
科学者、数学者としての顔が あまりにも華々しいが、芸術家としての顔も忘れることは出来ない。アキラは、工芸美術品の製作者であり、同時に その保存管理につても素晴らしい業績を残した。各種絵画や彫刻にも、素晴らしい作品がある。音楽家としては、製作者としての面と、声楽家としての面がある。ざっと並べても これである。
だから、これは アキラの業績の抜粋である。
両親が離婚した後、アキラは 施設から学校に通った。当然だが女子としてだ。彼女が日本の学校で学んだのは高校までだった。首都にある国立大学にも合格していたが、一期の途中で 中途退学している。
アキラは、小学校の高学年になった頃から、頻繁に父親の元に通っている。父の趣味に興味があったからだと、後世の美術史家は語っているが、それは ある意味では正しい。アキラの芸術家としての基礎は、この時期に芽生えたと言うのが定説だ。
現存する最初期の アキラの芸術先品は、小学校五年生の時に作成した水彩画である。これには、デッサンの段階から 父親のチェックが入った痕跡が残っている。
アキラは父親に教えてもらい、洋画(油彩、水彩、デッサン技術なども含む)、日本画、彫刻など 様々なジャンルの芸術に興味を示し、数多くの作品を残した。それらは、非常に高度な芸術性と技術を示す作品である。父親の影響からか、彼女も『精密な模型造り』を趣味とした。その腕前は相当なもので「父親以上の技量を持っていた」と評する論者もいる。ちなみに、アキラの作成数した模型の数は、父親の作成した模型の総数の 一割にも満たない。
父親は、音楽にも精通しており、アキラの音楽の作成者として、加えて声楽家としての技術も、この時期に醸成されたと伝えられている。
それらとは別に、アキラが、父に学校での出来事や、当時の自分の考えなどを語り、それに対する意見を求めていた事実の記載が、まだ会社員であった当時の、父親の世話をしていた女性(擁護、介護兼看護師)の記録から読み取れる。
退職後の 父親の擁護、介護、看護は、『多機能看型、介護用アンドロイド』の終日稼働で管理された。放っておくと、食事さえ忘れて趣味に没頭するからである。
父親との対話は、アキラがUSAに渡航してからも続き、
父親の最期は、アンドロイドからの緊急連絡により、アキラが急遽帰国することで看取ることが出来た。
父親の生前から少しづつ、最終的には全ての 彼の製作した大量の模型群は、アキラが国外に持ち出した。もしそれがなければ、現在の彼女の父親の、芸術家としての評価は あり得なかったといえる。
アキラの父親が造った模型群の大部分は、彼女によって、USAの高名な いくつもの美術館に貸与されている。なぜ貸与かというと、実際のところ、普通の美術館にいる補修員では、父親の作品が破損した場合、修繕するに足る技術がないからである。
非常に精密に造られた、幾つかの系統に別れた(系統別に美術館が違う)五万点以上にも及ぶ それらは 工芸美術品、構造芸術品として、非常に高い評価を与えられている。ある高名な工芸家は「これこそ、まさに構造美術の傑作、天才の作品だ」と絶賛した。
アキラは、日本の大学を中途退学した後、USAのMIT(マサチューセッツ工科大学)に留学、そこで博士号を取得し、そのまま研究員となった。彼女は天文学、理論物理学と数学関係に絶大な才能を発揮した。そして何度もウルフ賞、フィールズ賞、アーベル賞やショック賞などの数学部門からの授賞通知がなされたが、その都度 辞退している。
科学部門における ノーベル賞も例外ではなかった。その理由は様々に取り沙汰されているが、実のところ不明だ。
ただ単に『目立つのが嫌いだった」と彼女の友人が語っていた。という話もある。
アキラの『模型造りの才能』も本物で、大学(MIT)在学時代、一度だけ、イベントで展示したことがあった。それを鑑賞た他の大学の 芸術科・工芸部の教授から転校の誘いを受け、困ったと友人に語っていたそうだ。
件の展示品は、その教授を通して ある美術館に貸与された。それは、彼女の父の作品群と同様に、単なる模型としてではなく『構造芸術の域に達している』と評価されている。
アキラは後に、その教授のいる大学から、非常任としてで良いからと、工芸・構造芸術部講師の依頼を受け、不承不承ながら それを受諾した。
縁とは 不思議なもので、この大学で アキラの絵画作品が初めて日の目を見ることになった。
そうして発掘された アキラの絵画作品群は、ウルフ賞やショック賞の芸術部門にノミネートされるなど(ここでも アキラは辞退している)、とても高い評価を得ている。
音楽家、声楽家としての才能も、この地で評価を得たのが最初である。
アキラは『性別適合手術』を受けなかった。女性ホルモンの投与治療さえ、一度も受けていない。彼女には第二次性徴期は来なかったのだ。そして、男女を問わず、生涯に一度も恋愛経験が なかったと言われている。
アキラは五〇歳を過ぎてから、彼女が才能を認めた 幾十人もの養子を育てている。彼らに十分な教育の機会を与え、社会に羽ばたくまで支援を惜しまなかった。
彼女が行った この行為の理由としてあげられているのが、父親の残した『模型』の 補修技術者の育成にあったのは、間違いのないことである。
それらの作品が損傷しないよう 注意は怠らなかったが、もし破損するようなことがあった場合、それを修繕できるのが彼女自身しかいない。では心許なかったのだろう。
アキラの養子の中から、十数人もの『精密構造芸術品の修繕技術者』や『精密構造芸術品の製作者』か輩出されているのが その証である。
彼らの技能は、現代まで衰えることなく受け継がれ、我々にアキラと その父親の作品を鑑賞する機会と、その恩恵を与えてくれている。また、彼らの技術を継承する製作者も、数多く誕生している。
アキラは 八十歳の年の ある日、突然姿を消した。
彼女は書置きを残している「色々なところを見て回りたいので、後は宜しく」と。
アキラの家族は元より、世間も大騒ぎをしたが、その後の彼女の消息は 現在に至るまで、全く分かっていない。
――これで、本当にお終い。




