其之十四 シスターと片目の少年 中編
それから数日間、少年は教会内をぶらぶらと探索していた。
町の冒険者ギルドからの支払いは長くて一週間との事で、暇そうにしながら時折、孤児院の子供達の話し相手をしてくれていた。
初めは子供達も警戒していたが、歳も近いし、彼自身話好きなのか子供好きなのか、まだ歩き出したばかりの舌足らずな子供だろうと肩車したり一緒に昼寝したりと、その姿はまるで兄か父親の様だ。
同時に私やミリタリアに無理な力仕事があれば気軽に引き受けてくれた。納屋の屋根も最早雨漏りする気配はない、冒険者は大工の仕事もする事があるのだろうか。
フリッツは『雑用が減って剣に集中出来る』と言っていたが何処か寂しそうだ。
自分の役割を取られたと思っているのだろうし、少年がミリタリアに笑みを浮かべるとミリタリアが耳を真っ赤にしているのも気に食わないのかも知れない。
不思議な少年だ。
声が大きい訳でも、見上げる様な巨体でも、特別に見目麗しい訳ではない。
なのに不思議と皆の中心にいる。
孤児院の子達は他者に対して一歩引き殻に閉じこもる子達がいる。
そんな子達とわずか数日で共に遊ぶまでになっている。
人種を引きつける。
なぜか少年から目が離せない。
笑みを崩さない場合、裏で何かを隠している場合が幾つかある。
少年の笑みの下にある『何か』を、過去に取引のあった幾人かの商人によって私は経験していた。
だが、少年の笑みは裏表を感じさせない透き通った無垢な笑みに見えるのだ。もしこれで腹の中が真っ黒ならば少年は将来、詐欺師が極悪人になれるだろう。
そんな一日の中、少年は素振りしているフリッツの剣の素振りまがいの動きを見ていた。
笑顔の中に、フリッツを見つめるその目は何処か真剣に見えた。
そんな少年の視線に無視を決め込み、ひたすらに、その手に握る剣を振り回す。
既にフリッツが素振りを始めて数時間が経過していた。
持ち手の部分に巻かれた布はボロボロになり手はマメが潰れ赤く染まっている。
疲労と苦痛に喘ぐフリッツはそれでも剣を休めない。
「止めときなよ」
不意に発した少年の声をフリッツは無視した。
変わらずに剣が風を裂く音が響いている。
「はぁ……。まぁいいけどさ、剣ってのは血が滲むほど振り回したからって上達なんてしない。
むしろ、いざという時に握力が入らなくなって剣を落とす可能性が高くなる。
戦いってのは自分の状態を万全にしておくのも重要だよ?」
少年の労りはフリッツには届かなかったようだ。
「うるさい、腰抜けは黙ってろ……!ミリタリアが後で治すからいいんだよ。」
「へぇ、あの子あの年で治癒魔術が使えるのか流石だね、将来が楽しみだ。だけど君は痛いだろう?その歳で痛みが好きって訳じゃないよね?
君の覚悟は伝わるが、そんな剣を闇雲に振り回したってつくのは実力じゃなくてわずかな筋肉ぐらいなものさ」
フリッツは少年の方を振り向きもせずに言った『それでもいい!』と。
「憎い奴らがいるんだ。俺を馬鹿にして見下してる奴らがいるんだ。奴らを斬り殺すだけの力が欲しい!」
「へぇ〜、その腕で?大根斬れるのかすら怪しいもんだよ、なんなら一本畑から持ってこようか?」
その声は軽薄で馬鹿にして、フリッツを明らかに挑発していた。
ようやくフリッツは憤怒を交えて少年を見た。
「斬り殺されたいのか、腰抜け?!」
「言ったろ、今の君は冒険者最低のEクラスどころかそれ以下の『大根』クラスさ。結果、僕は腰抜けだけど、大根じゃなく人種だから君より強いよ?」
よく分からない卑屈な罵り合いを見た気がする。
それでもその挑発をフリッツは受け取った様で、中段に剣を構えいつでも飛び掛かれる体勢に移行した。
対する少年は腰に手をやり、吊るした剣を……抜かなかった。
ポイッと 鞘ごと腰に吊るした剣を地面に投げ捨てた。
お前なんて無手で充分とばかりに。
呆気に取られるフリッツを少年は……ニッコリと見つめ『怖くないよ』と言わんばかりにフリッツを手招きした。
「なめるなぁぁぁぁ!!!」
理解と同時にフリッツが怒りの咆哮をし、少年に突進する。
大きく上段に振りかぶり少年に向かい振り下ろすだけの単純な動作。
しかしフリッツにとっては渾身の一撃を……少年はさも当然のように上体をズラしただけで一歩も動かず綺麗にかわした。
次の瞬間にはお返しとばかりに振り下ろし後の無防備なフリッツの右手に、自身の拳を打ち付けた。
手の甲を殴りつけられ、潰れたマメの痛みも手伝って剣を取り落す。
慌てて溢れた剣を拾おうと腰を屈めるフリッツを嘲笑うかの様に、踏み潰す勢いで剣が踏みつけられた。
フリッツは拾うのを諦め、拳を握り殴りかかる為に、また少年を睨みつける為に、剣を見ていた視線と顔を上げた……が。
無防備に上げた顔の下部、顎を少年の拳が撫でる様に入り込む。
その力の入っていないそれだけの動作でフリッツは、力が抜けた様に尻餅をついてへたり込んだ。必至に力を入れて立ち上がろうと顔を歪めるが、その足は麻痺したかの様に震えるばかり。
そんなフリッツを少年はつまらなそうに上から見下ろしていた。
酷く冷たい……飽き飽きしたかのように。
その視線に悔しそうに顔を歪めたフリッツは少年に問うた。
「俺は弱いか?」
「まぁね、僕に剣を攫われるようじゃね。君は今『死んだ』んだよ。
現役の冒険者相手に無謀にも剣を抜いて斬りかかったんだよ?町で同じことをやってごらんよ、相手に斬り刻まれても文句は言えない。
君は今、自身の些細なプライドの為に力量の見えない相手に挑み無意味に死んだんだ」
「俺は死なんか怖くない!大切なのは俺のプライドが保たれている事だ!男ならば剣で死んでもなんの未練もない!」
「無意味に、無残に、なんの名も残せず。響くのは墓石の前で涙を流す、シスターと孤児院の子達の事を考えないのかい?君が命を賭けるのは町の中で自分プライドを守れれば満足かい?」
「……かまわない」
その返答と同時にフリッツの顔面は少年の足によって蹴り上げられた。
情けも手加減もない、非常の一撃。顔面に血を撒き散らしながらフリッツは転がった。
その時、私は反射的に飛びだしフリッツを守ろうとした。
だけど、飛び出そうとする時、顔が見えてしまった。
少年は泣きそうな表情で、何かを堪えるかの様に唇を噛み切らんばかりに結び。
またフリッツも……私に守られる事こそが、フリッツの心を傷つけると分かっていたから。
私は……飛び出さなかった。
「僕は知っている。世界を、人種を、子供を、守る為にどれだけの血が流れたかを!
今の世界、魔王はいなくなった。魔族は徒党を組まず『北の地』に去り、魔物は夜にしか姿を見せなくなった。たったそれだけ。たったそれだけの事の為に、本当に……本当にどれだけの人種とその同盟した種が戦ったかを」
フリッツは倒れ微動だにしない。
いや、僅かに震えていた。
「僕の知るイシス神官はいつも言っていた。イシス神の素晴らしさを、イシス教会の素晴らしさを。その教会によって運営される孤児院の素晴らしさを」
フリッツはそれを聞いて涙を隠す様に両腕で顔を覆った。
「身寄りのなかった彼女は、孤児院で自分が戦える歳になるまで成長できた事を喜び、自信が魔物と戦える事に感謝し、弟妹達の達の為に命を賭す事に疑問を抱かず戦った」
フリッツはそれを聞いて遂に堪えきれず涙ながらの嗚咽をもらした。
「彼女は全ての孤児院の子供達の為に戦ったんだ。お前にとって知らない事だろう、想像しない預かり知らぬ事だろう。だが、僕は決して許さない!
彼女はお前みたいなのを守るために命を散らした。なのに守って貰いながら、愛されていながら、自殺まがいに『無駄死にしてもいい』なんてのたまうガキを『俺』は絶対に許さない!」
少年は怒っていた。
あの笑みを崩さない少年がフリッツに向けて怒りを剥き出しにしていた。
だけど、その怒りはきっと正しい。
私はそう思ってしまった。
フリッツもそれが分かるだろうか……今は分からずとも分かって欲しい、貴方が、如何に多くの人に愛されているのかを。
「それでも。強くなりたいよ、みんなを守りたい。『あの人』みたいに」
しばらくの無言を経て絞り出すようなフリッツの弱々しい声。
この子のこんな声を聞くのは本当に久々の事のように思う。
「強くなれば誰にも馬鹿にされなくなる。強くなればチビ達を守ってやれる。
強くなればシスターとミリタリアにもうあんな顔させなくなれる。昔みたいに『お姉ちゃん』がいた時みたいに」
そんな、人種の男なら……いや、この時代に生きる全ての種族の雄が望む事をフリッツは言った。
「あいつら、シスターの事、『魔女』だって。陰で孤児院の子供達を魔物に売り渡して金に換えてるんだって。『お姉ちゃん』みたいに魔王と仲良くしてる裏切り者だって!」
「そう、だけどなフリッツ?そいつらがどんなに憎くても、殺してやるなんて言っちゃ駄目だ。命を捨てては駄目だ」
「……なんでだよ、町で年上のガキ共に絡まれて袋叩きにされた事は一回二回じゃない。
……周りの町の大人は誰も止めてくれなかった、血が口の中から溢れて止まらなかったんだ、嘘みたいに口から血を吐いて……ミリタリアが治してくれなかったらどうなってたか。
もしかしたら俺……死んでたかも知れない。あんたの言う無意味な死だ」
震えていた。あの気丈な子が。
自身の震えを止める様に両肩を抱くがそれでも震えは止まらない。
「魔王が死んで世界が平和になった?どこの世界の話だよ?!
俺にとってあの町は敵だらけだ!あの町の人種の奴らは俺にとって魔物と何ら変わりはない!
言葉が通じるだけの化け物だ!町に行けば俺は奴らのストレス解消の道具でしかない」
恐怖故か、フリッツの呼吸は早くなり安定しない、胸を押さえ苦しそうに黙り込んだ。
知らなかった。
いや、知られないようにしていたのだろう。
知られたくなかったのだろう。
フリッツは決して弱音を吐く姿を他人に見せない。一緒に育ったミリタリアを除いて。
ミリタリアもまたあの元気な姿の裏に何か抱えているのだろうか。
「悪い……僕が感情的になってしまった。大丈夫、深く深呼吸するんだ。今この教会には君を傷つける奴はいないから……居ても僕が守ってやるから。……大丈夫だから」
そんなフリッツを抱きしめる様に抱え起こした。その様は戦場で傷ついた味方を助け起す慈悲深き戦場の英雄の如く、さまになっていた。
「確かに強ければ馬鹿にされない、だけど守り続けるのにも力がいるんだよ。一瞬だけじゃない、その人を守りたいという願う間、ずっと。
何より君がもし、そいつらを殺してたらシスターも、そしてその『お姉ちゃん』もきっと悲しむ。
復讐はなんていうのはもっと薄汚れた……何もない『空っぽ』の薄汚れた人間がやる事なんだ。
シスターが、そして孤児院の弟妹がいるんだろう。なら、お姉さんの代わりに君が守ってやらないと駄目だろう?町の人達を斬ったとしてその後の町中の衛兵相手に勝てるのかい?」
「それは……じゃあ俺は何も出来ないままかよ!?今だって俺は町に行けば鼻つまみ者だ。憎い奴も俺を、俺たちを敵視する奴も山程いる。
俺は頭が良くないし、シスターに治癒魔術を教わっても使えやしない!確かに俺は衛兵を敵に回して勝てるとは思えない、だけどどこかで戦わないと……どこかで拳を振り上げないと俺はずっと弱いままだ!違うか?!」
「いや、君は正しい。男なら愛する家族を守る為に剣を取らないといけない時が訪れる時がある。……だけどそれはきっと今じゃない」
「……強くなりたい」
再びその言葉を嗚咽を嗚咽と共に零すフリッツを少年はただ見つめた。
「……分かった。剣術の基礎を少し教えてあげよう。ただし、剣を抜けばそれは戦いの開始だ、冗談では済まない。自身が死んだ時、悲しむ人達がいてくれる。……それだけは忘れないで。君の目は未だ復讐に濁っていないのだから」
驚いて見上げるフリッツに少年は念を押した『分かったかい?』と。
途惑い、疑い、先程まで怒りに身を任せた少年が、なぜフリッツに教える気になったのか。
少なくとも私には理解できなかった。少年がフリッツの身を案じたのは察することができる、だがなぜ見ず知らずのフリッツの為に親身になるのか。
私の想いを余所に会話は続く。
「でもいいかい?僕は厳しいよ、やれるかい『弟子一号』?」
フリッツはようやく笑顔を見せて頷いた。
「はい!先生!」
ーーーーーーーー
翌日、ミリタリアの追及を誤魔化し、傷を治癒魔術で治させたフリッツが少年から話を聞いていた。
「夢を壊して悪いけど、僕は『盗賊』だからね」
目をパチクリさせた。
『だからどうした?』というよりは、『なんだそれ?』と言いたげな顔だ。
「基本的に人種の子供は非力なんだよ、他種族に比べてね。
もちろん、下を見ればまだまだ非力な種族はいるよ?有名な所ではエルフ種、ホビット種、小人種とかね。だけど……ちょっと剣を貸してくれ」
フリッツから長く、剣を借りると少年は剣を振り始めた。フリッツよりは若干体格が大きいものの、まだまだ少年と言うべき身体で、フリッツの古ぼけたロングソードを綺麗に振り抜いた。
身体は一切ぶれていない。
少年は剣を左右に、前後に、時に立ち位置を変え振り続ける。
フリッツは目をまん丸にしてその素振りとも剣舞とも言えない見事な剣を憧れ、陶酔した目で見ていた。
その時間は三分ほどで終わった。
「どうだった?」
「凄かった!カッコよかったよ先生!」
英雄を見上げる子供みたいにフリッツは夢中で拍手していた。
それだけその動きは素人目にも一流のそれだったのは見て取れた。
「ありがとう。だけど全然駄目だ、僕でさえ重くて振り抜いた際の剣の重さに、何度か体が流された。
僕の筋力じゃこの剣はまだ戦場では使いたくない」
予想外の言葉、フリッツには理解できないだろう。だがフリッツは必死に少年の言葉を理解しようと耳を傾けた。
「かの冒険者の始祖たるアルスバランは子供の頃よりその身に合わぬ大剣を振り続け、大人になる頃には、大の大人が二人がかりで持ち上げるのがやっとな大剣を軽々と使いこなしたという」
再び目を輝かせるフリッツに『だが……』と続ける。
「これはアルスバランだからできる事だ、大抵の子供が満足に持てない重い剣を持ったって死ぬだけだ。無論、僕もだ。例外はおとぎ話の英雄だけ、だから彼らは英雄なんだ。……そんな顔するな、事実なんだから。君みたいに無理して体に合わない大剣を振り回す冒険者は確かにいる。
身体に合った武器を使うんじゃない、武器に合った身体を作るんだ。結果、肉体を鍛えて大きな一撃にすべてを賭ける。
大型の魔物には非常に有効な戦術だ、魔族が作り出したゴーレムや魔王の配下だった竜種と戦うにはその鍛え抜かれた『一撃』か、魔術でしか手が無い。
だがその『一撃』の戦い方は人種には向かない、人種は力に秀でた種族と言われてはいるがトップではない。
ドワーフ種は主に『槍』と『戦斧』をよく使うが、この『戦斧』での一撃こそ物理最高の攻撃だろう、相手の鎧なんてお構いなしに、二流魔術師の魔力防壁すら突き破る事がある」
フリッツは瞳を輝かせた。
己の一振りで巨大な魔物を両断する光景を夢想するかの様に。
「だがそんな戦いは人種……少なくとも子供には無理、だから子供は身の丈にあったショートソードやダガーを使うんだ。子供の力でも簡単に扱えるからね」
少年は腰に差したベルトから小振りの短剣、恐らくダガーだろうそれをフリッツに渡した。
「安物だけど弟子にこれをあげるよ。僕のダガー、軽くて切れ味もそこそこ。初心者にはぴったりだ」
「ありがとな、先生!」
「君の使っていたその長剣は後数年……もう少し身体に肉が付くまで戦いには使うな。
時間のある時に振るぐらいは良いが、戦うには肉体が追い付いていない。
そのロングソードを片手で振り回して重さが感じられない、手一部だと思えるほどに思える程に力が付いてからで十分だ」
対するフリッツは聞いているやらいないやら。
新しく手にした二つ目の武器に、興味津々とばかりに鞘から抜き、鈍く光る鋼の刀身を太陽に向かいかざし、うっとりした顔で新しく手に入れた宝物を確認する。
「さて前も言ったがおさらいだ。
人前で剣を抜く時は気を付けた方がいい。冒険者や傭兵達の間では剣を抜く事は戦いの開始だ。未熟だろうと、子供だろうと、世間知らずだろうと、剣を抜いたら相手は決して容赦なんてしてくれない。
有り金渡して見逃してくれればまだいい方だ。だから町中で剣は決して君からは抜いてはいけない。同時に相手が剣を抜いたならそれは敵だ。決して容赦してはいけない、それは戦いの始まりだからだ」
その言葉は無言のうちに聞いていた。
『君は命のやり取りをする、覚悟があるのかい?』と。
フリッツも応えるかのように深く頷いた。
「先も言ったが僕は冒険者の職業で言うと『盗賊』だ。
僕もまだ非力だからね、成長して力が付いたら装備を変えるつもりだが今はこの職業が合っている。
『盗賊』と聞くと盗みをする悪人の様にするかもしれないがそんな事はない。
冒険者の盗賊は罠を解除したり、敵の偵察、仲間の装備の調達、をしたりする。戦いになればダガーや投げナイフ等を武器に、敵を撹乱し、隙を見て背後から奇襲したり、急所を突く。
ダガーは短いし攻撃面で威力も弱いから、先に言った大型種の敵には余り戦力にはならない。
だが同型の人型の相手、ガチガチに鎧を着こんだ相手に速度を生かし接近し、喉や目、鎧の隙間から心臓めがけてダガーを突き立てる事もできる。
また小型の魔物相手なら身軽さを生かし的確に撃墜数を稼ぐ事ができる。
……個人的な意見だが対人戦に限れば、冒険者最強の職種は『盗賊』ではないかと思った事が多々ある」
そう言いながら少年は逆手にダガーを構え、人種相手の心臓の位置や、その際の肋骨の隙間の通し方、足音のしない歩き方、剣を手放した時の殴り合いの方法を丁寧にフリッツに説明し、実践させた。
「これは『盗賊』という戦い方の基礎だが、冒険者の基礎でもある。剣術も教えてもいいけど体に合わない今使えない剣術なんて意味が無い。まずはダガーの使い方、そして体の動かし方を覚えるんだ、数年もすれば長剣の使い方も自然に分かってくる」
フリッツは長剣の使い方を教わりたいのだろうが、それでも新しく貰ったダガーも大分気にいった様だった。
これはまだまだ先の話だが、フリッツは体が成長するその時まで少年の教えを忠実に守り続け、肉体が成長したその時には、あのロングソードも自在に使いこなせるようになっていた。
フリッツは冒険者として『剣士』になったが、腰には剣と一緒に少年から貰ったダガーが装備され相手に応じて器用に使い分けた。
どんな剣も初めて手にした剣も、どれも器用に使いこなし、魔物を狩る。
『万能者』『剣を選ばない男』冒険者としてそんな二つ名を付けられながらも、フリッツは決まり事の様に言うのだ。
『俺は『弟子一号』で十分さ』と。
ーーーーーーーー
少年は翌日もフリッツと稽古をしていたが、夕方にはそれも終わりミリタリアの洗濯物を干すのを手伝っていた。
古くなって擦り切れやや汚れた古着がミリタリアの努力によって、泥が落ち、修復され、かつての色を取り戻す。
少年はそんな洗濯物をミリタリアから受け取って干していた。
フリッツはと言えば少し難れた所で武器の手入れをする為に砥石を引っ張り出し、慣れぬ作業に悪戦苦闘していた。
「冒険者って色々な国を旅するんですよね?」
「まぁ、特定の地方に根を生やす冒険者もいるけど、冒険者の仕事は『未知の開拓』だからね」
その答えに、ミリタリアはしばらく口の中でモゴモゴしていたか意を決した様に聞いた。
「どんなですか、『世界』って?」
「うーん……。ちょっと抽象的な質問だなぁ、世界の人達の事かい?それとも風景の事かい?」
「ぜ、全部です……!」
その答えに少年はやや考え込むと、『世界』を語りだした。……だがその話は私から言わせれば『眉唾』だった。
…………。
………………。
……………………。
その話は人種の国から話は始まり……。
ドワーフの国の城壁の頑丈さは世界を最高水準だとか。
エルフの国は排他的で他種族を見下しているが美男美女揃いで睨まれてもそれが魅力的だとか。
ホビットより更に小さい、小人種の戦士は身軽で、その戦士達は人種の頭の高さまで軽々跳躍し、小さいから魔物の牙も簡単に避ける小さいがそれ故に優れた種だとか。
また、北のある地方は夜が来ず何日も太陽が昇り続ける土地があるとか。
南のある民族は暑がりで男性女性共に僅かばかりの薄布で申し訳程度に身体を覆っているだけで視線に困るとか。
更に、ある魔物は人種の身体内部に卵を植え付けやがて腹を食い破り産まれてくるとか。
魔物が繁殖のために攫った冒険者を助けに行ったら、魔物と相思相愛になっていたとか。
私にすら嘘か本当か分からない話をミリタリアに聞かせた。
ミリタリアは目を輝かせ、時に驚きながら耳を大きくして聞いていた。
話を聞き終わった後、ミリタリアは一言だけ。
『ありがとう!広いですね、世界って!もうこの教会で一生過ごしても未練なしです!』
そう言った。
不意打ちを食らったような驚く少年に向けてミリタリアはいつもの様にしゃべり続ける。
「昔、この教会には凄い人がいたんです。私の『お姉ちゃん』……と言っても血は繋がっていなかったんですけど。綺麗でスタイルも良くて治癒魔術の才能も私なんかより全然あって」
「そりゃあ凄い。自慢のお姉さんだったんだね?一度お会いしたいものだけど、今は巡礼の旅にでも?」
「いえ……その、亡くなられまして」
「そうか……なんか済まない事を聞いたね」
申し訳なさげな少年を見て、ミリタリアが『しまった』という顔をした。
ミリタリアにとって少年は見知らぬ異国から来た逞しい青年に見えているのだろう、神に仕える私にも恋に恋する気持ちには覚えがある。
少年からの関心と、好意を得たいのだろうに、意図せず謝罪させてしまったので必死に取り繕う。
「いえ、私から話題を振ったのにごめんなさい」
やや気まずくなった雰囲気の中、そんな微妙な、困ったような沈黙を終わらせるように少年の口が動いた。
「そのお姉さんはどんな人だったんだい。良ければ聞かせて貰っていいかな?」
「はい!『お姉ちゃん』はですね、そしてこの教会でシスターの次に、イシス神を信じていた人なんです。
『お姉ちゃん』はシスターの次に優しくて、イシス教の経典を暗記しているのに、毎日毎日経典がボロボロになるまで開いて私達に教えてくれたんです。
イシス神がどんなに凄いか、この世界がイシス神にどんなに愛されているか、お姉ちゃんがイシス神に仕えるシスターと出逢えて、ここに来てからどんなに幸せかって。
飢えと寒さに震えていたお姉ちゃんをシスターは温かい手で優しく包みこんでくれたんだって。
お姉ちゃんはその時からシスター・シルヴィとイシス神が大好きになったんだって」
「ああ、分かるよ。君が、君達がどれだけ『その人』が好きなのか。どれだけ『その人』が君達を好きなのか。本当によく分かるよ」
私が今まで見たどんなイシス神の女神像より優しい顔をして彼はそう言った。
そんな彼を至近距離で見たミリタリアの顔が、耳まで真っ赤になった。
「お姉ちゃんと約束したんです。お姉ちゃんが帰ってくるまでフリッツと一緒にこの教会と孤児院を守るって。お姉ちゃん除いたら私とフリッツが一番年上だったから。
だから、私は今はお留守番。
『お姉ちゃん』が戻ったら聞かせてくれるだろう『世界』のお話を待ちながら。フリッツと一緒にこの孤児院を守り続けます!」
少年は何か言おうとして、口を開いて、思い悩むように声を出そうとして。
だけどその声は音にならず、ミリタリアの声が続いた……やはりミリタリアは、相手の発言を遮っていしまう。
その人が言いたい事も。
言いたくない事も。
「だけど、分かっているんです。
『お姉ちゃん』はもう帰ってこないって。
悲しいけどもう会えないんだって。
だけど私はシスターやフリッツと違って乗り越えられたと思ってます。
くよくよしないって教えてくれたのは『お姉ちゃん』ですから!
だけど見てみたいんです、一度だけ!」
私は考えた事があっただろうか。
ミリタリアの心を。
この教会で一番心が強いのは大人の私ではない、この子だ。
「何をだい?」
「『お姉ちゃん』が見た広い『世界』を。
『お姉ちゃん』が守った広い『世界』を。
私にとって『世界』はこの教会と孤児院、そしてあの町。
それが全部。
それで全部。
私の知る『世界』は『お姉ちゃん』を悪く言うけど、『お姉ちゃん』が成し遂げた事だけは変わらない。
それは分かっているんです。
だけど、見たいんです。
信じたいんです。
『お姉ちゃん』は私よりずっと凄い人だから。
私の『世界』でイシス神を除いたら、シスター・シルビィの次に尊敬している人だから。
『お姉ちゃん』が救った広い『世界』のすべてを、いつかこの目で。
そうすれば私は何を言われても耐えられます、むしろ言ってやります。
『お姉ちゃん』成し遂げた事を!そして胸を張ってこの町で『お姉ちゃん』の名を呼べるように!」
突然、少年は静かに右目から落涙した。
本人すら驚いた様に頬から伝った涙を慌てて袖で隠したが、正面で話したミリタリアにはバレバレであった。
慌だからこそ、あわてたのミリタリアは『どうしましたか?!痛いですか、治癒魔術使いましょうか?!』なんてオロオロ慌てパニック状態に突入していた。
少年は、『ごめんごめん、目にゴミが……』そう言ってミリタリアを落ち着かせたが、ふいに真剣な目をした。
「ミリタリア、君の在り方はとても尊いものだと僕は思う。僕は人種の一人として、一人の男として君に敬意を払いたい、許可してくれるかい?」
ミリタリアは良く分かっていなかったのだろうが、興味津々の異性の言葉だ。ミリタリアは『ほえっ?』としたした顔で只々頷いた。
「ミリタリア、貴女はもっとワガママでもいいと僕は思う。
貴女の言う『お姉ちゃん』により救われた『世界』に生きる一人として。
また、彼女が世界を救う旅に出た時、彼女に変わりこの教会を守り支えた貴女に。
気高く強いあなたに。……地位も、名誉も、未来の生すらも、持たぬこの身なれど、精一杯の感謝を貴女に捧げる」
そう言って少年は恭しく、まるで絵本の騎士の様に片膝で跪き、ミリタリアの右手をとった。
『はひっ!』
毎日かかさず洗濯をしている彼女の手は、あかぎれが目立っていたが少年はまるで宮廷の貴婦人にするように優しく、愛おしそうに口づけをその掌に落とした。
奇声を上げ何が起きたか理解できずに固まっていたミリタリアが再び動き出した時には、もう少年は何食わぬ顔で立ち去った後だった。
赤い顔にてその日の夕食に全く手をつけないで溜め息を連発していたのは、きっと年頃の乙女なら仕方ない事だろう。