其之十三 シスターと片目の少年 前編
〜石竜歴418年9月~
イシス教聖都中央にある大聖堂より、東に馬で二日。
エズラミアの町
何処にでもあるイシス教勢力圏下の町。
その郊外小高い丘の上。
イシス神の地上の家たる教会。
屋根の上にはイシス神を崇めるイシスのモニュメントが飾られており、ここがイシス教の宗教施設である事が見て取れる。
古くくたびれた教会に所々ヒビ割れた窓ガラス。
町外れにあるその教会は、荒れ放題……とまではいかないが通りから見える教会の庭には雑草が自己主張する様に茂り、歴史有りそうな教会の見た目を『寂れた』と呼ぶに相応しいものとするのを手助けしている。
魔王との戦争で、人種の精神的支柱の役割を果たし、熱心な信徒、そして寄付金も増えたイシス教の施設にしては、地方の末端とはいえ些か見窄らしく貧弱に見える。
そんな教会の、人影の無い正門をくぐり、一人の小柄な人影が興味深そうに辺りを見渡しながら雑草茂る庭を進んでいく。
やがて人影は軋む扉を開け教会内部へと踏み入れた。軋んだ木扉と久しく油を挿していない蝶番が鈍い音を経典内部に反響させた。
教会の扉が開かれる音に反応して私はイシス神への祈りを中断し背後を振り返る。
冒険者、それもまだ子供、いや少年と言うべき年齢だ。
『冒険者に成り立ての『雛鳥』だろうか?』
私はそう思った。しかし成り立てにしてはその顔にはやや特徴がある。
少年は頭に包帯を巻き左目を隠し、その包帯から飛び出る様に、炎の様に赤い髪が治り悪く飛び出て、残る右目は笑いかけるかの様に細められ柔らかい表情をしている。
「入っても?」
「ここは神の家なのです、拒む者は魔物のみ。遠慮なくお入り下さい」
私はややおぼつかない足取りで立ち上がった。どうやら膝をついて祈りを捧げていた為、力が入らない様だ。少年は素早く駆け寄って倒れ掛かる私を支えた。その体は、年若いのによろめく事無く私を支えている。礼を言う私に少年はさも当然とばかりに『いえいえ』と首を振る。
「それでですね……この教会の責任者、司祭様ですかね?できればお会いしたいのですが」
「責任者ですか、では私ですね。シスターではありますが、この教会をお預かりしている立場にあります」
残る右目は少し見開かれ驚いたのが分かる。
「それは失礼しました。正直、イシス教でこんな若くお美しい女性が教会の責任者とは。ええと、シスター……」
「シルビィ。シスター・シルビィ。そうお呼び下さいな」
『若く』『美しい』という見知らぬ少年のお世辞にも私の心は喜ぶ余地はあったようだ。
すでに齢は35を数え、ブロンドだった髪は色素が落ちシルバーになり始めた。目は若かりし頃と比べれば疲れやすくなったが、琥珀の如きと褒めて貰った瞳の色は変わらない。
年若い頃は多くの異性に愛を囁かれたものだが、『私は神に仕えていますから』そう断って今日まで過ごしてきた。
それでも、何だろう。
少年に見つめられると、身体の奥が熱くなり火照ったように感じた。その右眼の光に引付けられる、その左眼の下がどうしようもなく気になる。
『この少年には魔性の者だろうか?』
そんな考えがよぎって少し可笑しかった。そんな訳がないのに、目にいるのは只の冒険者の少年だ。身体が熱いのはきっと風邪でも引いたのだろう。
「旅の者ですが、一晩の宿をお借りできないでしょうか?」
「ここは教会で宿屋ではないのですが。失礼ですが冒険者の方ですよね?……失礼ですが、なぜこの教会に?半刻も歩けば町の宿に着けますし、今日は市が立つ日でも無い、空いている宿はあるでしょうに」
「ええ、まだまだ駆け出しの新米冒険者ではありますがイシス神の加護深く、今日まで無事に過ごせております。ただその……。正直なところ、懐具合が寂しくてですね。冒険者ギルドに行ったら僕の仕事の査定するのに数日かかりそれが済まないと報酬は出せない、なんて言われまして。
恥ずかしい話、冒険者ではありますがイシス教典も知らぬ訳でなし……巡礼者として宿代わりに馬小屋か納屋の隅をお借りできないかな……と」
苦笑しはにかみながら、頬をかくその姿は粗雑な者が多い冒険者には見えない。年若く、人を陥れようという打算、腹黒さとは無縁に見える。
私はその率直な言葉に好意を覚えた。
「ふふふ。正直な方ですね、真摯さは貴方の美徳となりましょう。しかし冒険者ならば野宿もお手の物では?」
「旅の身としては屋根のあるだけで有難いものですよ。それに、せっかく町まで辿り着いたのに野宿というんじゃ悲しすぎますよ」
なるほど、確かに駆け出しの冒険者にとって宿屋に泊るのもなかなかの出費だろう。その身に着けている装備は、どれも少年の年齢以上の歳月を重ねた様な年代物だ。とても余裕があるようには見えない。助けてあげたいのは山々なのだが……。
「イシス信徒の方ならば私は断る口を持ちません、ここは神の家ですから。大したおもてなしもできませんが喜んでお招きいたします。しかしイシス神を信じない方を教会に招く訳にはいかないのです。あなたはイシス神を信じていらっしゃいますか?」
「昔、ある方にイシス教典を何度も読み聞かせて頂きまして。そこらの信徒の方より知識はありますよ。お試しになりますか?」
そう少年は私を促した。ならばと私はイシス教典から抜粋し、幾つかの人物の故事や出来事を問う。彼はその全てに正しく答えた。内心、私は驚いた。イシス経典は世界に数多知られているがここまで細かく記憶している信徒は少数だろう。
「試すような真似をして、大変失礼いたしました。貴方は立派なイシスの巡礼者にて同じ神を仰ぐ友人。どうぞ古い神の家ではありますが我が家と思い、旅の止まり木として下さい。
ただ……こちらの礼拝堂に人を泊める事は出来ません。
大変申し訳無いのですが……」
「ええ軒先きでも、納屋でも、馬小屋でも構いませんとも。幸い体は丈夫でして」
云うべき言葉を先に言われてしまった。
赤面する私に更に彼は『些少ですが』と、数枚の銅貨を財布替わりであろう袋から取り出して私に渡した。
「それは貴方の日々の鍛錬と健常な身体を授けたご両親の為せる技でしょう、感謝なさる事です」
その時別段、見る気は無かったのだが彼の財布の膨らみはお世辞にも『タップリ』、と云うには貧弱だった。この銅貨が彼にとって財布の大部分を占める財産であり、確かに財布を空にしても町の宿屋では一泊が精々であろう。
彼の『心づけ』を断ろうとも思ったが、彼は巡礼者が旅先の教会に寄進するのは当然でしょう?と言ってさっさと財布を閉まってしまった。正直、私にとってもその数枚の銅貨は有難かったので彼に深く、同時にイシス神にも感謝した。
私は彼を納屋に案内する為に礼拝堂から裏手に回り込むと、直ぐにいくつかの建物が見えてくる。
「正面に見えるのが納屋になります。古いながら雨風を凌ぐのは問題ない……筈です」
私は自信なさげに視界に入る建物の中で、一番劣化の激しい彼の望む環境が維持されている可能性が限りなく低い……つまりボロボロの建物を指さした。
「わかりました、ではあの建物でしばらく厄介になります。後は……失礼ですが、隣の建物は?」
「ああ、私達の家ですよ。」
「私達?」
『え〜い!…やぁ!…とう!』
私が疑問に答えるより前に少年の会話は遮られた。何処からともなく掛け声とそれに合わせた風切り音が聞こえた。
少年が訝しげに辺りを見渡すがやがて、私に尋ねる様に視線を向けて来た。
私はその視線を受けてリンゴみたいに真っ赤になった。恥ずかしさでか細い声で『すみません』と絞り出した。
私の視線の先にいる『声』の主人。短く刈り込んだ茶髪と生意気そうに尖った鳶色の瞳。
後、数年すれば可愛らしいから、格好良いに至れるだろうが、今私の瞳に映る、その全身ついた筋肉はまだまだ未熟な幼い子供のそれだった。
「フリッツ!お辞めなさいと何度言えば分かるのですか?周りの子が真似をして怪我をしたら困るでしょう!」
教会の裏手の庭の一角に私達の家が見える。
その庭で生い茂る雑草を踏みしめ一人の男の子、フリッツが身の丈に合わない大振りのロングソードを振り回していた。
「うるさいよ、ばぁさん。後数年すれば僕は冒険者になってこんな貧乏教会からおさらばしてやるって言ってるだろ、むしろ頂点に立った俺が一時期にでも居たことを誇りに思う日が来る事を感謝し……誰だ、そいつ?」
来客に対するジロジロと品定めするような視線放ち、フリッツの暴言に私は目を剥いてこめかみを痙攣するのを感じ口元を引きつらせた。
「フリッツ。この巡礼者の方は数日間、こちらに泊まられます。ご挨拶なさい」
「巡礼者?……いや、どう見てもあんた冒険者だろ?しかし安っぽいボロい装備、生っ白い肌、弱そうだな……。クラスは?二つ名はもってるのか?」
冒険者の少年が怒りの余り剣を抜かないか心配になったが、幸いその気配は無かった。少年は変わらず笑みを浮かべるのみだ。その寛容さを私はひそかに神に感謝した。
「残念ながら。僕は新米でね、二つ名は無いよ。後クラスはEクラスだ」
「ふん、駆け出しか!使えねないな!これだけ言っても笑いやがって、タマなしの腰抜けか。金が無くて教会に引きこもるのも分かるな!」
「フリッツ!!」
彼は寛容を示したが、その言葉は私の許容限界を越した。
私は大声で窘めたが少年は『はは……。』とフリッツの暴言にも少年は力無く渇いた笑いを出しただけだった。正直、怒り狂われるより助かるのだが、この少年は血の気の多い冒険者の中でやっていけていけているのだろうか。
肌に日焼けの跡もなくイシス経典にも詳しい、元々何処ぞの貴族の次男、三男が生活に嫌気がさして飛び出した口だろうか?
「気にしてませんよ、シスター・シルビィ。見た所、冒険者を目指している様子。ならばこれくらい元気が余っていなければとても生き抜く事は出来ない世界ですから」
フリッツはその言葉を聞いて、不機嫌そうに口をへの字に曲げ『フン!』と鼻息を鳴らしてまた素振りを再開した。代わりに私は必死に謝り倒し、少年を私達の家から三十メートル程離れた納屋の入り口に案内した。
納屋を開こうとやや朽ち始めた木の扉を開こうとした時、『シスター!シスター・シルヴィ!』と背後から嵐の様な早口でひょっこりと少女が飛び出て来た。
「シスター!探しましたよ。お祈りの時間なのに教会にいらっしゃらないから!あれ、巡礼者さん?今日は!『ミリタリア」 と言います!あらやだ、その恰好、冒険者の方ですか?随分とお若いですね!良ければ旅のお話か何か聞かせて下さると嬉しいです!
ああ、巡礼者さん。よく見ると素敵な方ですね!その綺麗な肌に程よい笑顔……あなたモテるでしょう!?
あっ!あとシスター、連絡忘れてました!この間の大風で屋根が少しめくれて、この納屋雨漏りし始めてるんです。フリッツに直すように言ったんですけど、あいつ『未来の英雄は屋根修理なんてしない』とかいいやがりまして!雨が降らなきゃいいですけど雨降ったら行水状態になるかも知れませんよ!?」
少年が何度か、名乗り返そう口を開こうとしたがその全てを邪魔する様に一方的に喋り続けるその姿と、途切れなく喋る彼女のその最後の言葉を聞いて、私は目の前が暗くなる感覚を覚えて立ちくらみがした。早口に話す少女ミリタリアは、栗色の髪を肩より少し長めで切り揃え、同色の瞳は大きな目を忙しそうにクリクリと動かす。
頬に浮かんだそばかすは年頃の証拠だが年々重ねる歳のせいか、少しづつ薄くなり反比例する様に女としての魅力を毎年少しづつ増している。
だが慌ただしい性格はそのままに……。ミリタリアは年下の子供達の面倒を率先して見てくれるが率先して行動しすぎ空回りする事が多すぎる……物忘れも。
「雨漏り、ですか……」
少年の困ったような声を聞いて、慌て納屋を少年と共に覗くと、やや湿っぽい以外には普通の納屋に見えた……中央に大きな水溜りができている事を気にしなければ、だが。
慌て何か代案を考えるが名案は浮かばない。……いざとなったらフリッツをここに移し屋根を直させるかと考えを巡らせていると。
「僕は構いませんよ。数日この納屋でお世話になります」
先に結論を出されてしまった。とてもじゃないが客人に対して余りにも礼を失しているし、何より私が納得できない。『それはいけません!』……と叫ぶ筈が。
「そうだ、シスター!パン屋のスミスさんがまたパンの支払いの件で正門まで来ているんでした!シスターを呼んでくるってスミスさんに言ったのに話し込んでしまいました!」
私の声はその音量にかき消されてしまった。
ああ、この子達は本当に……。目の前が暗くなるのを振り払い、『気にしないで』と手を振る少年に一礼し急ぎ足で正門に向かい駆け出す。
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「ああ、シスター。お久しぶりですな」
目的の人物は私を見るなりそう言った。
嫌な目だ。ジロジロと修道服を着た私を嘗め回すような視線で私を見る、品の無い視線。
『いや、町の人々の視線に比べればましかしらね、彼は私をまだ客として見ているから』そう思い直し笑みを向けた。
彼はエズラミアの町で一番大きなパン屋を仕切る男、スミス氏だ。
昔はパン焼き職人だったが店を大きくするにつれ商人として頭角を現していった。そう、彼は商人だ。私が彼からパンを買っている限り私はお客なのだ。
「定期的にうちの若いもんに届けているパンなんですが、困った事に小麦が高騰してましてね。古くからの付き合いのある皆さんには値上げのご連絡をして回っているんですよ」
……お客なのだ。
「それは……困りましたね」
「それで、ウチも小麦の買い付けに四苦八苦してましてね。申し訳ありませんが今回から先、こちらに届けているパンの代金は前払いで頂きたいんですよ。そんな顔なさらないで下さい、シスター。
ええ、ええ、そうでしょうとも!敬虔なるイシス教のシスターたる方がパンの値段を踏み倒す訳は無いと分かっていますとも。
しかし……その、町の連中があんな『偽教会』の所を後払いで優遇しておいて俺たちに食わせるパンは値上げか!って聞かないんですよ。ああ、もちろんそんな悪口言ってるのは一部の連中ですよ?私は信じていますとも!」
私は『偽教会』の部分でやや眉を顰めた。それを見て慌て取り繕うように彼は言葉を吐き出し続けた。
「私としてもなんとかしたいのは山々なんですがね」
長かった彼の言葉がようやく終わる。
「分かりました。ではこれをお支払します」
「……確かに頂戴致します」
私は懐から先ほどの巡礼者の少年から頂いた教会への寄進である銅貨を全て渡した。
私が払えるとは思っていなかったのだろう、商売人として客が金銭を支払う事がそんなに意外とは。
やや驚きながらも慌てて銅貨を数える姿は見ていて少し笑えた。
「これで一月分ですな」
「……」
高い、いつもなら二月分とはいかないにしろ一月半は賄える額である。
「分かりました、それでは今後も変わらぬ配達をよろしくお願いします」
「ええ、勿論ですとも」
元気の良いスミス氏の返事を聞きながら、私は彼に悟られぬ様にこっそり溜め息を吐いた。だけど感情は動かない……もう慣れてしまって私の心は何も感じなかった。
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客人の為に簡単な納屋の掃除と夕飯の用意、孤児院の孤児達に文字を教え、あっという間に日が暮れた。
夕焼けは大地に別れを告げて、今日も満ち欠け以外は変わらぬ月が夜の世界を辛うじて照らし、本当の闇夜から世界を守っていた。子供達を寝かしつけ、その寝息を音楽に私も寝台に横になる。
だが……。
寝つけない。
別に特別な事ではない。
私の中で偶に起こる日常だ。
目が冴えてしまっているのだろうか?来月からのパンの代金や孤児達の将来を、考え出すと止まらなくなってしまう。別に名案なんて有りもしないのに。
そんな夜中だったからか、ふと月が見たくなった。
『あの娘』も月が好きだったから。
隣室の子供達を起こさない様にそっとベッドを抜けて中庭へ。虫の鳴き声を聞きながら、手入れされていない、雑草だらけの庭に出る。
庭の隅には古ぼけた木製のテーブルと同じく木製のイスが2つ置かれ、時折夜月を眺める私の指定席になっている。今宵は満月までもう少しと言った欠け月のハズだ、いつもの様に月を眺めようとテーブルに視線を向けると……先客がいた。
子供達は皆寝ているのだから、選択肢は限られている。
その少年は月を眺めながら自ら持ち込んだであろう酒を煽り、一気に飲みこむ。少年を見ている私と視線が交じり少年は軽く頭を下げた。
「こんばんは、シスター・シルヴィ。お一人でお月見ですか?」
『月を見ているのはあなたでしょう』、そう言いたかったが。
「ええ、そんな所です」
「何かお悩みですか?」
「……ええ、そんな所です」
「良ければご一緒しませんか?……いやこの席がシスター、貴方の席ならばこの言葉は変ですかね。ご一緒してもよろしいですか?」
「……月を眺めるのがお好きならどうぞ。それにいつも私の席はこちらなので問題ありません」
私はいつもの様に、少年の前にあるイス。もう一つの指定席にストンと腰を下ろす。
その時にはもう少年の視線は既に月に戻っていた。
誰かと月を見るのは久し振りの感覚だ、本当に何年ぶりだろうか。その時は大抵、私の正面の席には、少年ではなく『あの娘』が座っていたのだ。
そして時折色々な話題を話したのだ、イシス神の尊さ、町の人達の優しさ、魔王軍の世界への侵略、孤児院の子供達の性格や、そして未来の恋について。本当に夜明かししながら語り合ったのだ……二人で、一杯、一杯。
「……風流ですね〜、秋が近いせいか虫の音色もまた綺麗だ。寒くなり始めると空気が澄むせいか月もまた映えますね」
そよ風が少年の髪を撫でて、少年は嬉しそうに微笑を浮かべている。会った時から変わっていない、少年は満たされているのだろうか?
笑顔が途絶えない程に少年は満たされているのだろうか、冒険者とはそれほどまでに心を潤す職業なのだろうか。
「ええ、本当に。月は本当に偉大ですね。夜の闇に人種が呑み込まれない様に偉大なるイシス神が創りたもうた太陽神の妹たる存在。お陰で我らは夜の闇の恐怖に辛うじて抗えていますから。
『月よ、汝は万能たるイシス生み出した妹なり、太陽たる兄が昼を照らすように。妹よ、月よ、汝も夜道を照らし魔物から旅人を守りたまえ』」
私はイシス経典の一文の要約を口にした。
「知ってます、昔お世話になったイシス教の方に教わったんです。
『月の女神様はイシス神が創りたもうた妹』、なんですよね。
そして兄である太陽神とは仲が悪く、喧嘩してからはお互いに出逢う事はない。だからこと太陽と月が同時に登るのはほんの一瞬、日の出の時のみ。
しかしお互いは人種を、この世界ゼクシーディアを愛しているからこそ闇に負けない様に世界を照らす。そしてお互いが休む時、太陽神がいない時は月の女神が、月の女神がいない時は太陽神が世界を守ってくれている。
その話を聞いた時、僕はこう思ったんです。
『ああ、二人の神様は本当に仲が良いんだな』って……そんな顔しないで下さい。
だってそうでしょう?毎日毎日、休まずに世界を照らし続けて……其れ程までにこの世界が、生ける全てを愛しているならば、寝ている間の見守りを信頼していない奴には任せないでしょう?
きっと二人の兄妹はお互いの事を顔も合わせたくない程嫌っているくせに……きっと誰よりも信頼しているんだなって。……心からそう思ったんです」
ああ。兄妹が二人、喧嘩をしながらも優しく変わりながら子供達を見守る。
まるでフリッツと、ミリタリアの様に。
粗野で激しくも慈愛と笑いに満ちたあの子達の様に。
月から微動だに視線を動かさず……少年の残る右目は澄んだ透き通った瞳をして語っていた。
彼にも思い出すべき、思いを馳せる情景があるのだろう。
「良いですね。……とても優しいお話。経典にはそこまで書かれとは居ません。だけど、それはきっと素敵な兄妹でしょうから。機会があればそのお話は孤児院の子供達に聴かせてあげようと思います。そう言った話が大好きな子達ですから」
『それは良かった』と片目の少年が笑う。
「子供には笑顔がよく似合う、『子供が笑顔でいられる世界を!』。
僕に色々教えてくれたイシス神官は口癖の様に仰ってました。戦って戦っていつも傷だらけで……最後の最後にその方は亡くなってしまいましたが、今の僕があるのは、その方と後数人の方々に支えてもらったからこそ、僕は生きています」
月を眺めるその横顔は何かを思い出そうとするかの様に。
その輝かしい思い出に縋りつこうとする様に。
少年とは思えないとても寂しそうな顔だった。
左目の怪我が原因だろうか。
少年はこの日にいたるまで同世代の年の子供が負わない悲痛な日々を過ごしてここにいるのかもしれない。
こんな時、私は何を語るべきだろうか?
イシス教の経典を開き、死は誰にでも訪れる、死者は最果ての地でイシス神の御手に抱かれ幸せに過ごしていると言うべきだろうか?
分からない。
三年前の私なら、その通りに行動しただろう。だが……今の私には分からない。何が正解かなのか、何が正しいのか。今のわたしには神の声は聞こえない。
少年は懐から小ぶりの瓶を取り出し、月の女神様を眺めながら中身を飲み込んだ。
辺りには芳醇な葡萄の香りが漂って私の鼻孔をくすぐる。
「……宜しければ飲まれますか?」
「イシス教では飲酒を禁じているのですがね……」
「知りませんか?これは『神の血』と呼ばれる葡萄ジュースですよ。
『葡萄ジュース』は何の問題もないでしょう?これは偶々『葡萄ジュース』が古くなって発酵してしまっただけの飲みものですよ。
つまり『葡萄ジュース』ですよ」
それはイシスの本拠地たる大聖堂で語られるという神官による経典からの逃げ道。
大聖堂の神官達は位が上がるほどこの『葡萄ジュース』を好むと言う。
やれやれ、私はため息を一つ。
しばらく少年の差し出したビンを眺めていた。
『葡萄ジュース』は半分ぼど残りゆらゆらと月明かりに照らされ魅惑的だ。
私はその魅力に負けて少年からビンを受け取り中身を流し込んだ。
「……『葡萄ジュース』は良いですよね、一時的にも嫌な事を忘れさせてくれる。絶望も貧困も……侮蔑混じりの他者の視線も」
少年の最後の一言は……ワザとだろう。
「この教会が町でなんと呼ばれているか知っていますか?」
「ええ、人種の裏切り者を生んだ『魔女の家』と呼ばれているとか」
『魔女……か』
確かにそうなのかも知れない。私はあの無垢な少女を戦場に送り込んだのだから。
『あの娘』はいつも優しく、気高く、心から神を信じていた。
その心の在り方を教えたのは私だ。少し厳しく躾けすぎたのかも知れないと、後からため息が溢れるくらい、あの子は神に傾倒しすぎてしまったが……。
それでも、人は何かを信じていなければ生きていけない。いや、生きてはいけるが抜け殻のがらんどうな人間になる。
今の私の様に……。
「話せば楽になるかもしれませんよ?」
月を眺めながら呟くこの言葉に私は反射的に口を噤んだ。年若い、この少年に有りのままに愚痴をこぼすのは年長者として如何なものだろうか?
それに、彼は私とはなんの縁もない他人なのだから。
「僕は長い……長い旅の途上の冒険者です。僕と貴方の人生という道は、神のお導きか、人の意思か、億万の偶然の重なりか……しかし、縁在りこの数日交じり合い……そして今、語り合っています。
数日後にはまた離れる道ですが、愚痴を零すぐらいは構わないのではないですか?」
分からない。
その問いの答えは教典には無いから。
だが、彼の言葉が、とても……とても誠実そうに聞こえたから。
「私は、自分が犯した罪を知りたいのです」
私は胸の内を少し開いた。
私の一言を受けて少年は全てを察したように頷いた。
私の実状は町で噂になっている、知っていてもおかしくは無いだろう。
「僕は馬鹿だからよく分かりません。でも、世間が何と言おうと『その方』を信じる貴方の姿はとても尊いと感じました。無理に、世間の言う貴方になる必要は無いなではないですか?」
「そう……でしょうか?」
「世間では貴方を『魔女』と言う。
町の視線は色眼鏡に曇り貴方のなす事全てが怪しく映る。
だからと言って貴方が身寄りのない子を助け貧しい者を施し、僕みたいな貧乏な旅人をもてなして下さる。その行いが変わる訳ではないでしょう?」
「私はなんと思われようと構わないのです。ただ、孤児院のあの子達が憐れでなりません。
他の孤児院に委ねるという手もあったのですが、あの子達がここにいたいと言ってくれまして」
「なら、この孤児院の……貴方の『子供達』は皆、幸せだ。
そこまで貴方を信頼し敬愛している、そしてそんな貴方が側に居てくれるのだから。
ですからきっと『その方』も同じだったでしょう……死を迎えるその時まで」
「私は『あの娘』のことを今も信じているのです。
正直、疑った事もありましたが直ぐにその心を恥じました。
あの子は命懸けで稼いだお金のほとんどを、ここに送ってくれていました。
あの子は人を見る目は確かです、あの子の信じた友を信じず誰を信じましょうか」
そう、例え『あの娘』の信じた仲間が、世界を裏切った人種最大の大悪人と噂されようとも。イシス神は魔族との内通なんて許しはしない、そして『あの娘』は誰よりもイシス神を信じていた。
『あの娘』は純粋だった。
『あの娘』は孤児達が、この孤児院に拾われる事が、その子の未来を切り開くと信じて疑わなかった。
この孤児院に来る子供の多くは親を亡くすか、捨てられ人間不信になっている。愛情に飢えた子達だ。私は母に代わりになりたいと接しているが、やはり子供たちの想いでの『本物の母親』には敵わない。
魔王との戦争で新しく来る子達に『お前なんか母様じゃない!』
そう罵声を浴びるたびに、私は自分の至らなさを痛感した。
……だから子供たちの心の隙間を『神』で埋めるのだ。親への依存の代わりに、神への信仰で心の飢えを満たすのだ。『あの娘』にした様に。
『イシスを讃えよ。
イシスを崇めよ。
イシスを敬え』
そう繰り返して来た。
寂しさを神への『愛』で埋め尽くせるように。
なのに……。今の私は神を信じてはいない、信じる事は出来ていない。
私のその行動の結果、『あの娘』は死んだ。イシス神様、あなたは……あなたの組織は私から『娘』を奪ったのだから。
……優しい子だったのだ。
……才ある子だったのだ。
世界が平和になって。
生きていればまだまだやりたい事があったはずなのだ、やれる事があったはずなのだ。
そう思うと……私は。
知らず知らずの内に力一杯、葡萄ジュースのグラスをヒビが入らんばかりに握りしめていた。
ああ、駄目だ。
これ以上は考えてはいけない。
これ以上は……。
「失礼、今日はもう寝ることにします」
思考の海に潜り始めた脳に無理やり蓋をして、少年を残し一人、家に向かい席を立った。
「良い夢を」
踵を返す時にそんな言葉を背後から告げられた。振り返ると少年は何かを考える様に、左目に巻かれた包帯を撫でながら月を見つめていた。
その白い肌は月明かりを一身に浴びて、まるで教典の神々の一節が現実に現れたかの如く美しく見えた。
その姿が……今の私には見る事すら、畏れ多い様な気がして私は逃げる様に寝所へ戻った。
そう、早足で逃げる様に。
逃げる私を空に浮かぶ、欠けた月だけが私を見ている。そのお月様の視線すら、今の私には耐えきれそうになかったから。