第一閑話 ラストバトルは突然に
未来1
〜石竜歴 419年10月〜
イシス大聖堂ー最奥の一室
ポタリ、ポタリ。
滴り落ちる音がする。
「くふふ、こっちの世界でも血は赤いんだね。ーーとかカッコつけて見たけど……ゴメン。僕限界……うっぷ」
「……おいおい、何だよあいつは?」
田牟口君のややズレた言葉を口から出した後、隅っこで別のものを口から吐き出していた。酸っぱい匂いが辺りに漂う。
源は青白い顔に冷や汗を浮かべて警戒交じりの問いかけ。辛うじて平静を保っている。
質問の答えだが、もちろん僕も答えは僕も知らない。そして僕は口の中がカラカラに乾いて言葉が出ない。
イシスの大聖堂。白い大理石を惜しげも無く注込み、建築技術に疎い僕ですら財を凝らしたイシス教の総本山。信徒の女性達により丁寧に磨き上げられた床壁は、本来なら血で汚れる事など、決してあってはならない事だ。
ポタリ、ポタリ。
血が滴り落ちる音がする。
「……大司教さん」
今、僕の眼前で。
そのあってはならない事が起こっている。
背後にいたタマちゃんの呟きと、白寺さんの短い悲鳴が聞こえた。背後にいる女性陣には刺激が強い光景。
僕も遠のく意識を繋ぐので精一杯だ。
イシス教大司教の地位にあった男。
正直言えば、派手好きで生地の高そうな神官服に身を包み、蓄えた脂肪と同じくらい重そうな財布を懐に抱え込んだ男。
他者を必要以上に見下したり、女性を舐め回す視線を無遠慮に見たりと、正直言えば好意や敬意を抱いた男では無かった。
最早過去形で語らねばならないその男は、首だけとなって、恨めしそうに僕らを見えいた。
その首から血が滴りポタリと、音がする。
床に血が滴るなら、それは首と床に高低差がなければならない。
如何に異世界とは言え、首が勝手に浮かぶわけはない。
大司教の首は、僕ら五人の眼前にいる少年によって右手に抱えられていた。
返り血に染まり、その顔は真っ赤な血に汚れる、表情は見る事が出来ない。
だけどもその身に纏うのはボロボロの装備。
あまり高価な品では無いのだろう。傷だらけで、寧ろ傷のない部分を探す方が難しい皮鎧。
少年の日焼けも無く純白の肌。シミ一つ無い肌の上だからこそ、その落差が目立つ。
怪我をしているのだろうか。気怠そうに重い体を引きずり、左目にはボロボロの包帯を巻きつけた片目の少年。
「あれが『彼女』を狙う敵……なのか?」
「くふふ、そうなんじゃない? 聞いた話が本当なら、この世界を滅ぼそうとしている『悪』なんだろ?」
「……先輩にはそう見えますか?……本当にそう見えますか?」
タマちゃんはそんな言葉、聞きたく無いと耳を塞ぎ目を逸らす。
「私には、タマには悲しそうに見えるです。泣きじゃくってる子供に見えるです。
まるで手の届かない何かに……乾いた砂漠で必死に蜃気楼のオアシスに手を伸ばす
干からびた老人に見えるです」
タマちゃんは、今にも泣き出しそうだった。
まるで、僕には見えない彼の表情が見えるみたいに。
僕には分からない。
少年が一歩一歩進むたびに、大司教のその首は左右に揺れ、恨めしそうに僕らを見ていた。同時に──
『仇を討ってくれ』
そう訴えているように見えた。
『彼女を守ってくれ』
そう語っているように見えた。
少年は僕らの背後にある扉。その中にいる『彼女』を目指している。
もし僕らがこの扉を彼に譲れば、『彼女』も同じ姿になってしまうのだろう。
そして少年は僕らなんか眼中にないといった風で、僕らの背後にある扉を目指してゆっくりと、しかし確実に歩を進める。
「くふふ、それでどうするのさ?」
「一心、戦うんだろ?! あの女ここで失ったら俺達帰れねぇぞ!」
僕は、動かなかった。
いや、動けなかったのかもしれない。
知り合って間もないとはいえ、女の子を見捨てる事も出来ず。ただ良いカッコをしたかっただけかもしれない。かと言って、少年の前にこのまま立ちふさがり続ける事が正しいとも思えなくて。
……だけど判断もできず。
結局、僕が取った選択肢は『時間切れ』だ。
何もせず。何も出来ずそのまま立ち尽していた。
眼前には返り血に染まる、説得不可の少年。
背後の扉の先には守るべき『彼女』。
僕はただ。
恐怖と義務感を天秤にかけて『保留』した。
僕は判断出来なかった。
そして。
この場合の『保留』とは。
少年の歩む扉の前に立ちふさがるという事だ。
立ち塞がる僕らに今気づいた見たいに、少年は顔を上げて僕らを見た。
一歩一歩、ゆっくりと歩む少年は。遂に僕の正面で立ち止まる。
僕らのこの国には無い制服姿が珍しいのか、しばし逡巡するかのように固まった後、『なぜ俺の邪魔をする?』尋ねるように首を傾ける。
情けない事に、僕は返事をする事が出来ない。
なぜなら、ここで立ち尽くすのは僕の選択の結果じゃないからだ。
なぜならこの時、流されるままに選択と行動を繰り返していたらここに辿り着いていた。
この状況になっていた。
『……そうか。お前も、俺の前に立ちふさがるのか』
目の前の少年から。──勝手に納得した見た目の年齢に合わない、疲れ切った声が聞こえた。
少年を中心に目視出来るほどの紅い魔力が渦を巻いた。
鳥肌が立ち、身がすくむ。
僕ら五人はその最奥に近い広間で、本当の最奥に通じる扉を背にして立っている。
役職上、この扉への侵入者を防がなくてはならない立場にある。
眼前には返り血に染まる少年。
背後の扉の奥には守るべき『彼女』。
僕ら五人の手には少年の行動を阻むべき武器があり。
立ちふさがる立場にある。
──出来過ぎじゃないのか。
まるで僕らと少年を戦わせる為に用意された舞台みたいじゃないか?
『用意された?』
まさかあり得ない。
一体誰に?
「街で会った時、彼はそんな悪い人には見えなかった。少し話した事以外、私達彼の事何も知らないのよ?このまま、彼と戦って──」
『本当に良いの?』と白寺さんが僕に問う。
「委員長!俺たちは知ってるはずだ。今、ここに来るまでに散々見てきたはずだ! 相手が敵意をむき出しで喧嘩売って来てるんだ。会話の段階はとうに過ぎてるって事をよ! 」
答えに迷う僕の代わりに答えだのは源だ。
タマちゃんは明らかに反対だが、こういった場合彼女は意見を口に出さない傾向がある。
田牟口はそんな僕らを、何も言わず楽しげに見ていた。
皆が判断を迷っている。
当たり前だ、僕らには判断材料たる情報が無い。この状況で覚悟をして声を上げたのは源だけだ。
それも正しい。ただ保留した僕よりも決断した源は正しい。
「──戦闘準備」
僕は決断した。
「──分かったわ。私は文明人で民主主義国家の国民だもの……多数決には従うわよ」
白寺さんの返事により、僕ら五人の方針が決まった。
扉の奥の『彼女』を狙う片目の少年にとっては必然の。
僕らにとっては意味の見いだせない。
お互いの名前すら、立場すら、この戦いの意味すら知らないのに。
片目の少年と僕らの戦いが始まる。