自由のために
頭の中に流れてきた映像をもとに、フィリーオ兄様が最期にいた場所とされている第8研究室へと、薄暗い廊下の中を無言で歩く。お兄様がIDカードをかざして、レバーハンドルを回し、研究室の扉を開けた。真っ暗だった部屋が瞬時に明るくなる。
実験台の上には機器やガラス器具などが乱雑に置かれていた。モニターがあるデスクには、書類が積み重なっていて雑然としている。
――大学の研究は単なる趣味で、コッチの研究がお兄様にとってのメイン
私は部屋に入り、実験台の回りをグルッと見て回った。走り書きされた化学記号のラベルが貼ってあるスクリュービンがいくつも置いてある場所の前で立ち止まる。
――ここで、お兄様の実験に使っている道具とか、液体をメチャクチャにすればキメラ実験がなくなる?
お兄様が私の動きを無言で見ているが、構わずスーっと実験台の上にある液体の入ったビンを指先でなぞった。
――ここで決断しないと、あとが苦しくなる
意を決してビンを手にしたとき、あることに気がつく。カナルの未来の歴史書によると、実験は途中まで上手くいっていた。それなのに、なぜか他の要因で失敗する。
――その原因が……今回、私のせいで起こることだったら?
――専門知識のない私が、適当にここにある色んな液体をのべつまくなしに混ぜたことが原因だったら?
お父様が教えてくれたことを思い出す。「知識があることで、初めて大切な人を守れる」という言葉を。
私は手にしていたビンを静かにもとの位置へ戻した。
「ルナ、やたらその辺にある物は触らない方がいい。爆発するよ?」
「爆発っ!?」
慌てて実験台から離れると、お兄様に笑われた。
「冗談だ、そういうのは置いてない。ちゃんと鍵付きのキャビネットで保管してあるから大丈夫だよ」
「ヒドイです」
ムッとして、今度はモニターと書類の山があるデスクの前に来た。
「今やっている実験データを見せてください」
査察と嘘をついたので、それらしい要求を扉の近くで腕を組み、立ったままのフィリーオ兄様に告げる。お兄様がモニターパネルを操作し、写真や文書、グラフや表などを次々開いていく。
「これで全部だ」
モニターを見てみたが、どれもキメラに繋がる実験ではなかった。
――おかしい
――もうすでにキメラの光は発生しているし、3年後には完全体のキメラが現れるのに
――お兄様は、キメラに繋がる実験を隠している?
目を閉じ、緊張を緩めるため、深呼吸をした。
「お兄様……この実験ではなく、もう1つの実験のデータを見せてください」
お兄様に告げると、無言のまま私を凝視した。
「お兄様、見せられないのですか? もしかして……おじ様から頼まれた用事は、そのもう1つの実験データを誰かに渡すため?」
「……ルナ、君に話したのは失敗だった。油断した」
「お兄様?」
「こうなると、そもそも君が本当に10歳の女の子なのかも疑わざる負えないな」
お兄様の冷たい視線が突き刺さり、背筋が凍る。息が止まり、気が遠くなった。
「今回の旅で君に対する印象は変わったよ、ルナ」
お兄様が膝をつき、私の両肩に手を置いて、さらに聞きたくない言葉を続ける。
「大人びた子だと思ってただけだったが、あのバルドーヴィストリーのダイヤで出来たダイヤモンドアンビルセルに酷似したものを見たとき、偶然に組み立てたにしてはよくできていて、違和感を感じた」
――やっぱり、気づいてたんだ
私は目を閉じた。耳も塞ぎたいが、肩を掴まれてしまい、それは叶わない。
「的確に僕の研究内容を理解するのは、どう考えても10歳の子供には無理だ。君は本当は何歳なんだ?」
「…………」
「その知識は、少なくとも15歳は越えてるよね?」
何も言いたくなくて、ひたすら目を閉じて俯いたまま首を横に振った。
「ルナ、10歳のフリはしなくていい」
「違う!」と言いたいけど、声にならない。追い詰められ、苦しさが増す。お兄様と視線を合わせても怪訝な表情は変わらなかった。何も言わない私を見つめ、フィリーオ兄様は溜め息をつく。
「しかも担当が君だとはね……近いうちに全研究施設対象に抜き打ち査察が入ると聞いてはいたが、10歳の子供に査察をやらせるとは思わなかった。裏切られたよ。もう1つの研究の情報は、誰が君に流した?」
敵対する可能性は考えていたが、想像以上にキツい。ココロがボロボロになりそうだ。でも、お兄様が死ぬ方がもっと耐えられない。
「お兄様……私にデータを渡して」
小さな囁くような声しか出ない。たぶん、今、お兄様が持っている実験データがキメラ研究のカギになるのは確かだけれども、もう『私のお願い』は聞いてくれない。それでも、そう言わずにはいられなかった。
――前世の記憶のせいで、こんなにアッサリとフィリーオ兄様の信用が崩れてしまうとは
――私達、ここまでだ
涙がにじむ。すると、お兄様の手が私の肩から背中へと滑り落ちた。私の肩にフィリーオ兄様の頭がゆっくりと乗る。
「ここまでか……」
「……はい、お兄様」
「…………」
お兄様がギュッと私の体を抱き締め、深く息を吸う呼吸音が聞こえた。
「どうせ……ロークスに渡すことになるなら」
「――君がいい、君のための研究でもあるのだから」
お兄様の指先が、私の後ろ髪をかき揚げ、唇が重なる。
そして――、
直後に柔らかな舌とともに、口の中で感じる硬質な小さな塊
――データチップ?
「お兄様、これは……」
言いかけた私の口は、もう一度唇を重ねてふさがれた。やがて、唇が離れると、「回収が難しくなるから、飲み込まないように」とだけ、私の髪を何度も撫でながら、苦しそうにフィリーオ兄様が耳もとで囁いた。
私は頷いて、抱き締められたまま、慎重にデータチップを頬の裏に移動させた。
――これで、フィリーオ兄様は自由だ
そう思った瞬間、お兄様の腕時計に通信が入った。すぐに応答すると、「逃げろ、内通者がいた! データの移動は中止だ」という男のヒトの一方的な声が聞こえて、切れた。
――内通者? ロークスのキメラ研究は、分裂して派閥ができているってことなのか
今までの状況と先ほどの通信により、その予想で間違いない。
「ルナ、投降するから連絡を」
「それは、ダメです!」
当たり前だ。内通者の元へなんか行かせない。フィリーオ兄様を、籠の中の鳥になんかにさせたくない。
「連絡はしません。見逃しますから、早く行ってください!」
「……ルナ、……瞳孔が開いて、まばたきの回数が多い」
フィリーオ兄様の指摘に、心臓が早鐘を打つ。じっと私の瞳を見るお兄様から、目をそらした。
「まさか……ハッタリか!」
――バレた
何回もお父様と一緒に訓練したハズが、フィリーオ兄様に対しては成果を発揮出来なかった。




