第五部 祈りの木の下
「母さん、寒いから閉めてよ」
私は庭へ続くガラス戸をあけ、サダの木を眺めていた。冬休みを迎えた息子は、この家にやってきた。息子は私の肩を抱えるように、部屋の中へ入れて、ガラス戸を閉めた。それでもそこから動かず、木を見つめていた。
夫はあの日、出て行ってしまった。言い争うこともなく、言い訳すらしなかった。会社にも出ておらず、まさに忽然と消えた。
「父さんも……ひどいよな。いなくなった日に東京で金下ろしてるんだろ。計画的じゃないか。それなのにここに帰ってくるなんて……よく顔出せるよな」
「やっぱり、捜索願、だそうか」
「いいよ。女作って出て行ったことは明らかだろう。もう父さんの持っていったカードは全部とめたんだし。俺たちの生活に困るわけじゃないだろ?」
「でも……」
「これ以上恥をさらして、俺たちがいやな思いする必要ないじゃないか。金がなくなったら帰ってくるよ」
「そうね」
「母さん、東京に帰るか?」
私は首を横に振った。夫は決まって家から電話してきていた。まるでアリバイ工作のように。あの東京の家で女と過ごしていたのだ。
「ここにいたいわ、あの木を見ていたい」
正確にはあの木の根元を見張っていたい。私はサダの木を見つめ、下腹をさすってから、手を合わせた。
私は知っている。冷たいあの人はもういない。帰ってくるのは優しいあの人。九ヶ月の時を経て、もう一度私の元にやってくる。もう血も通わないほど冷たくなってしまったあの人ではなく、切っても切れない強い血の縁を持って私の、私だけのものとして、生まれ変わってくる。そのときには、愛が憎しみに変わっていませんように。冷たいあの人に覚えた憎しみの証拠は、サダの木の血となり肉となって、誰にも知られず朽ち果てていきますように。
「あのケヤキ、何かご利益あるの?」
お向かいさんも通りがかり、家に入る前に手を合わせているのが見えたらしく、息子が聞いた。
「家庭円満らしいわ」
「夫婦円満?」
「いいえ、夫婦じゃなくて、家庭。お向かいさんも……そういえばお一人だわ。サダの木っていうのよ」
「へぇ……でも円満っていう雰囲気はしないな。『サダ』ってなんの『サダ』?『アベサダ』?……って家庭円満じゃないか」
(アベサダかも知れない……)
いつまでも手を合わせているお向かいさんを見ながら思った。殴られてもけられても耐え続けた妻が唯一許せなかったこと……
顔を上げたお向かいさんは、私に気づき、会釈をした。私も会釈を返す。そして顔を見合わせ、少し笑った。その笑顔は、心の底からサダの木に手を合わせることができる人間にだけわかる、一瞬の笑顔だった。
名所や御神木や国宝級の建築物の下には、絶対に掘り起こしてはいけないものが埋まっている、という都市伝説があるようです。徳川埋蔵金もそのひとつとか……あなたなら、どんな秘密を埋めますか?




