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サダの木  作者: 志内炎
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第四部 嵐の夜

 夫が帰ってくるまでの間、私は夢を見ていた。サダになった夢だった。あの木に向かい、祈りをささげている。優しい夫が帰ってきますように。そして、帰ってきたときに受け入れられる自分でいられますように。

 九ヶ月の間、サダはそう祈っていたのではないか。他の女に一度走った男を、受け入れることができたのだろうか。そうするしかないほど、ひ弱な女だったのだろうか。いや、そうではない。ひどい扱いに耐えることのできた強い人なのだ。ただ、旦那を愛していた。その愛が、憎しみに変わらないように、祈り続けていたのではないか。もし、私がサダだったら……

「どうした?」

 私は夫の顔を見つめていたようで、夫は何かついているのかといわんばかりに自分の顔を撫で回しながら、聞いた。

「ううん。ご飯、どうしようかしら」

「何かとろうよ。あ、俺ピザ食べたいな」

 私を気遣ってくれていることは明らかだ。

(この人が、まさか、ね)

 あの夢には、どこか予知夢のような現実味を帯びたところがあったが、やはりそうは思えなかった。いや、思いたくなかった。

 年末を前に、夫の仕事は少し忙しくなり、東京に滞在することも多くなった。その日も、東京に向かった夫を見送って、急に寒くなったことに気がついた。

(東京でお風呂に入れないのは、不便よね)

 多くなったとはいえ、月に四、五回のことだが、働いて帰って湯船につかりたいだろう。不在のときが多いのは少し不安もあるが、ガスをあけてもらっておいたほうがいいのではないか。しばらく悩んだが、冬休みも近いことだし、やっぱりあけておこうと思い立ち、東京に向かった。

 ほんの三ヶ月前まで住んでいたのに、まるで知らない町になってしまったようだった。離れる前とは道行く人の服装も違う。かといって、田舎でみかける人たちともまた違う。すっかり葉を落とした木には早々とクリスマスのイルミネーションが飾られていて、まだ昼だというのに、乾いた空気の中に浮かび上がっているライトは、無数の欲望のように見える。どんよりとした空は、決して曇っているからではなく、青ではなく、元からグレーの空がこの町の不健全さを物語っている。

(冬休みも、向こうで過ごすことにしようかしら)

 息子にはあの新しい家での生活のほうがよいように思う。そんなことを考えながら、懐かしい我が家のマンションの扉を開けた。

(あら……)

 なんだろう、違和感を感じる。聞こえるはずのない、冷蔵庫のモーター音がする。

(やだ、冷蔵庫使ってるんだわ)

 そういえば、なんだかかぎなれないにおいがする。三ヶ月前までは自分の家のにおいがしていたのに。残しておいた家具も、そのままで、視覚的には全く変わっていないのに、他人のにおいがする。

 私はそのままキッチンに向かった。

 モーターの音に近づいていくと同時に、鼓動が激しくなっていくのを感じた。いやな予感がする。

 私はなぜここにいるんだろう。行ってはいけない。そのドアを開けてはいけない。そんな予感にぐるぐるとめまいを感じながら、キッチンに入った。モーター音が耳の中でするように、張り裂けそうな大音量のように感じる。そして、私は嘔吐した。

 何もないはずのキッチンには、コンロの上にはケトルが、流しにはカップラーメンの少し食べ残したカップが残されていた。

 夫は珍しく、その日のうちに帰ってきた。少し不機嫌だった。

「なにかあったの?」

「仕事で、ちょっとね」

 夕方から激しく降りだした雨が、傘をよけてぬらした腕をふく。

「そう……」

「お前も何かあったのか?」

 私の顔を覗き込んで聞く。

「どうして?」

「顔色も白いし……なんだかだるそうだぞ」

「そうかしら」

 そういった私の声がつめたく家中に響く。

「来月もこれくらい帰ることになるのかしら?」

「まあ……あるかもな」

「じゃあ、ガスをあけておきましょうか?」

「あ、ガス開けたよ」

 稲光が窓に映る。遅れた音が、雨粒とは違ったリズムで窓を揺らす。

「そう?いつ?」

「この前帰ったとき、だったかな。一日中会議だったとき」

「ああ、前の前ね。よくあけられたわね」

 夫はいつもまして饒舌だ。そんな前のことをよく覚えている。

「それくらい俺にもできるさ。電話したら、すぐあけてくれたよ」

「その日のうちに?」

「うん。おかげで風呂に入れてよかったよ。くたくただったからね」

 時々、ひどい風の音もする。季節はずれの嵐が来ているとニュースが伝えている。

「じゃあ、帰りが遅かったのね」

「そうだな、十時半は回ってた。会社に十二時間いたからね」

 私はソファーに座った夫の背後にたち、肩をもんだ。夫は、

「ありがとう」と言ってテレビを見ている。嵐の音で、聞き取りにくくなった音量をリモコンで上げる。

「お前も疲れているだろう、いいよ」

「いいのよ。私今ちょっと待ってるから」

「待ってる?」

「そう」

「何を?」

「ふふ。内緒よ」

 笑い声なのに冷たく全身を駆け巡っている。そう、私は待っている。

 窓の外が光る。私の待っていた稲光だ。夫の耳元で低い声で言った。

「ガスの元栓って、昼間で、しかも立会人がいないと開けてくれないのよ」

 夫の声は、雷鳴に消されて聞こえなかった。

 

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