第二部 小さな波風
事件が起こったのは、三週間目だった。
公園からけたたましい子供の泣き声が聞こえた。私はすぐに異常を察知した。そんなに小さな子供の泣き声ではない。そして、今は午前中で子供たちは学校へ行っているはずだ。とるものもとりあえず家を飛び出すと、あの大木の下で、腕を抱えて泣いている男の子がいた。小学校六年生くらいだろうか。
「どうしたの?落ちたの?」
彼はあまりの痛みでか、ただ右腕の二の腕あたりを押さえ泣きながら、頷くだけだ。
「何があったの?」
向かいに住む年配の女性が、遅ればせながら出てこようとしているところだった。
「落ちたみたいなんです。救急車を」
女性は頷き、家の中へときびすを返した。
すぐに到着した救急車に、私とお向かいさんも一緒に乗り込んで、病院に向かった。男の子はただ泣いているばかり。私たちは救急車に乗り込んだことで緊張が緩み、お互いの顔を見合わせた。
(あ、この人、町内会の人だわ)
「奥さん、どこのお子さんか、ご存知?」
「いいえ。町内のお子さんではないんですか?」
「私は知らないわね、独り身だし……このあたりに昔から住んでいる子供たちはサダの木に登ったりしないし……もう独立した息子も絶対近づかなかったから」
「サダの木?」
「そう、通称ね。このあたりの家庭を守ってくれている木だって言い伝えがあるから」
「なるほど」
病院について、もう大丈夫だとわかっても保護者が来るまで放っておくわけにも行かず、私たちは待合室にいた。見回してみると、お年よりも多い。そして圧倒的に女性が多い。私たちは特に会話もなく、シートに座っていたが、近づいてきた警察官に声をかけられて、顔を見合わせた。
「どうやら、脚を引っ張られたって言ってるんですけど、何か見ませんでしたか?」
私は泣き声を聞いてから、家を飛び出したことを話し、お向かいさんは家を飛び出す私を見たといった。
「不審な人影とか、ありましたか?」
「いえ……気がつきませんでしたが……」
かつかつと、この町には全くもって似合わない靴音が近づいてきたかと思うと、すごい剣幕で警察官に詰め寄る女性が現れた。
「どういうことなんです?!うちの子が木から落とされたって!」
「いえ、まだそうと決まったわけでは……」
「うちの子の運動神経を疑うっていうんですか?ここじゃわからないかもしれないですけどね、うちの子は水泳のジュニアで優勝したこともあるんですよ?そんな子が木から落ちるなんてありえると思いますか?落とされたに決まってます!!」
私はシートにぴったりと背中をつけた。できることならば、シートに埋まってしまいたいと思った。息子の同級生の親にもこういう人はいた。きっと私はとばっちりを受ける。
「いや、こちらの方が、最初に発見されたんですけど、不審な人物はなかったと……」剣幕に押された警察官はわたしのことをぽろりとしゃべった。
「あなた?みたの?うちの子が落ちるのを?」
「いえ……私が駆けつけたときにはもう、木の下で泣いてましたから……」
「じゃあ、落ちたところを見たわけじゃないんでしょ?!」
「ええ……そうです……」
「ほら、こういってるじゃない!!徹底的に調査してちょうだいよ」
警察官に詰め寄る横顔を見ていて思った。
(そう、こういうタイプなのよね)
細面の、どちらかといえば美人で自信を持って生きてきた人。頑なな自信。子供は親の異常なまでの過信に耐え切れず、逃げ出そうとする。
(あの子、きっと学校に行きたくなくてあそこにいたんだわ……)
引っ張られたといえば、母親の非難を他に向けられる。咄嗟のうそだったんではないか。
「気の毒に……」
一応現場周辺を見るという警察官に、パトカーで送られながら、私は後部座席でつぶやいた。
「え?」
「あ、いえ」お向かいさんも、隣に座っている。
「とんだ災難だったわね」
「ええ。でもお子さんが軽い骨折ですんでよかったですね」
「そうだけど。あのお母さん、あなたに一言もお礼を言わなかったわ。それどころか、第一発見者が怪しいなんて」
「まあ、子供のことになると必死になってしまうのは仕方ないですよね。私じゃないと証言もしていただけましたし」
「当然よ。私はあなたがドアから駆け出していくのをみたんですもの」
「身の潔白さえ証明できればいいです。ああいうタイプの方とはあまりやりあいたくないですから」
「それもそうね……サダの木とは縁のなさそうなタイプだし」
「そういえば、あの木の言い伝えって、どんなものなんですか?」
お向かいさんは、私の顔をしばらく見つめ、ゆっくりと語り部のように話し始めた。




